地母神

凪常サツキ

本編


 勇士オオタカは、至高の神オメテオトルが作りたもうた世界を行く。木々の威勢の良い林冠と連日の雨のせいで、周囲はほんのり暗く、湿りきっていた。集落の皆から託されている緑宝石を握りしめ、彼は足を動かしながらも必死に祈る。創造神ククルカンには尊敬の念を、地母神コアトリクエには感服の念を、そして死神エクリトアクには畏怖の念を。

「またあのほほ笑ましい暮らしを、どうか、どうかお与え下さい。お願いします」

 オオタカは、過去の記憶に思いを馳せた。



「こりゃうめえ!」

「オオタカ、今日もお前のおかげでこんな立派なバクが仕留められた。全く大した腕だよ」

「はは、そりゃどうも、自然の恵みとコアトリクエに、乾杯」

 彼らはこの生活に特別不満はなかった。ジャングルでの暮らしは確かに危険や大変なことが多いとはいえ、しっかりした肉体と知識があれば生き抜いていける。それに、例え苦しいことがあっても、仲間の陽気な歌声や笑い声、いたずら小僧のちょっかいなどが心を優しく包み込んでくれる。満たされた生活だった。

 今は大収穫のあった狩りを終えて、皆でバクとサル、そしてバナナのスープをとり囲んでいる。火にかけられた壺が、その美味そうなスープをじっくり加熱して、食欲を刺激する香りを出していた。

「ツチガラス、お前はオオタカに比べて最近何の手柄もねえなあ。しかも子供だって作らねえ。留守番して嫁に狩りに出てもらった方がいいんじゃねえか?」

 男たちの笑い声が一層大きくなる。若長であるオウムガイにからかわれては強く反論ができないし、実際のところ手柄が無いというのも事実だった。ツチガラスはその肉付きの良い体を多少揺らして、息を大きく吸う。

「ほら、お前にやるよ。バクの睾丸だぜ。これでちょっとはたくましくなれや」

 また、男たちは笑い転げる。ただひとり、オオタカはからかいに参加せず、近くにいた妻、シロボタンを軽く引き寄せる。

「何?」

「別に。ほら、お前も食え。肝臓だ。お前にも俺の子を無事に産んでもらわなきゃ、ああいう仕打ちをされるだろ」

 シロボタンの持つ器に、どろりとしたスープと赤黒い塊が入れられる。彼女は全てわかっているといった様子で、無言のままそれを飲み込む。

「これで、私も栄養は蓄えたから、あとはコアトリクエ様に祈るだけ」

 彼女は淑やかに目をつぶり、その身をオオタカに預けた。彼の父は征ジャガーの異名を持つハイタカ。その息子たる彼の体は、枕にするには硬いくらいに強靭な肉体だった。バクのスープを煮る炎に照らされて、体中の筋肉の凹凸が様々な陰翳を作る。シロボタンはその陰のついた肉体を眺めながら、ゆっくりまどろみゆく。



 世界のすべてはオメテオトルが生み出した。また彼から生まれた三柱の神々:ククルカン、コアトリクエ、エクリトアクは互いに同じ力量と拮抗する役割を授けられ、それぞれが関わり合いながら世界を運行させている。ククルカンが物を作り、コアトリクエが命を授け、維持し、エクリトアクが破壊と死を司る。集落唯一の術師、カミケムリはこういった。「三神一体の世界では、均衡が取れていれば問題は起こり得ない。しかし三神のいずれかが力を失ったり、増幅させてしまえば、一転して大いなる災いが降りかかる」

 だから皆、この災いはきっとエクリトアクの力が増幅したのだと理解した。突如として人々を脅かし始めた悪性の伝染病ココリツリが、日に日にその被害者を増やしていく。ある者は高熱だけで済み、またある者はそれに加えて胸に黒い湿疹が生じ、最悪の場合は死に至る。村の労働力が減るのはかなりの損害だし、次の犠牲者は自分だと考えてしまえば、安心して眠れるものはいない。その恐怖と同時に、親しい者、愛する者の感染も多大なる苦しみとなるのは容易に想像できた。徐々に深刻になっていく病により、瓦解していく集落。身近な者のそんな姿を黙って見ているしかない不甲斐なさが、やがて人々を強引に奮い立たせた。

「よいか」

 酋長のアシダカが、木の葉のかすれる音のような、か細い声で切り出す。彼はココリツリにかかってもなお集落の行く末に頭を悩ませ、この集会を開いた。顔から首にかけて深く刻まれた皺が、もはや古木の表面を思わせる。それでもなお話す事が出来るのは、自らが長であることを自覚してのことだろうか。何にせよ、もう限界が近いのはわかりきっていた。

「エクリトアク様の、霊威が高ぶったか、ココリツリが、猛威を振るっておる」

 それだけを言うのに何回も息継ぎをして、ようやく言い切る。

「カミケムリに相談、したところ、我々は各三神に対して、聖域へ赴き、貢物と、祈りをささげるしかないという結論に、至った」

 もうアシダカは息も絶え絶えで、顎で息をしながら呼吸を整えている。その様子を見て、若長も中長も、オオタカも皆黙りこくる。隣にいたツキケムリが見かねて代弁をする。

「そうは言っても、今や働手も少なく、毎日の食料確保とか、集落の防衛すら厳しい。それぞれの聖域には、一人ずつ向かってもらう。酋長はそれに伴って二つの条件を付けられた。一つは自らの死後であること。もう一つは私の神託の結果。ククルカン聖域へは、オウムガイ。コアトリクエ聖域へは、オオタカ。そしてエクリトアク聖域へは、イヌイシへ行ってもらう」

 アシダカが大きな咳をする。そして空から強烈な稲光と轟音。オオタカは、まさしくそれが自分への宣告だと捉える。隣のオウムガイはさすが若長という印象で、全く動じない。あるいは先日、母親が逝ったからだろうか。



 集会から三日後、雷雨の日にアシダカは息を引き取った。相変わらず土砂降りの雨と、それが屋根を打つ騒音の中、改めてオウムガイ、オオタカ、イヌイシの三人はカミケムリの住居へと案内され、神託を受けた。紫煙に包まれるカミケムリは、まずオオタカとイヌイシが聖域へと出発し、二人とも無事に帰ってきたら、オウムガイはククルカン聖域へ行かないようにというお告げを発した。

 何はともあれ、オオタカは独り身で聖域へと向かわなければならない。耳や鼻に穴をあける成人儀礼もつらかったとはいえ、あれが直接的な原因となって命を落とすことはまずない。その点で言えば、今回の任務はどんな試練よりもつらいだろうことは、言うまでもなく目に見えていた。

「オオタカさん」

 考え込んでいても仕方がない。彼は親友のツチガラス家へ赴く。弱々しく横たわる彼のそばで、妻のタビモロコシが必死に看病をしていた。彼女は眉を眉間にこれでもかというくらい寄せていて、口は半開き、髪もとかす暇が無くて枝毛がとにかく目立つ。部屋中に死の香りが。それほどに、ココリツリは脅威だ。ツチガラスもオオタカを確認するが、何を話せるわけでもなかった。

「主人が、血便を。もう私たち一体どうしたら」

「ツチガラス」

 呼びかけはしたが、それでいて掛ける言葉も見当たらない。体のどこを触れてもひどい熱で、胸には赤黒い湿疹がひどい。

 ここには悲しみが充満しているように感じる。湿気のせいだろうか。雨音のせいだろうか。それとも涙のせいだろうか。

「良い旅を。ああ、そうだ。あっちにいったら、俺の妹のことも、よろしくな」

 これ以上何をすることもできなかった。出ていこうとすると、ツチガラスの影が異様に伸びて、タビモロコシを捕まえるような振る舞いをしているように感じた。ココリツリ。黒の病。黒い死を招く神エクリトアク。この住まいには悲しみに加えて、苦しみ、翳りのすべてがある。今度こそオオタカは外に出る。雨天ではあるが、それでも家の中よりは極端に明るい。灰色の光すらありがたくなる程度には、あの空間は異質なものだった。

「せめて安らかに行けよ」

 死は、どんな苦しみにすら勝るほどに怖い。



「ねえ、これお守りにもっていって」

 家に帰るやいなや、シロボタンが何かを目の前に突きだす。

「お前が作ったのか?」

「うん」

 それはコアトリクエの精巧な木像だった。手のひら大ではあったが、目元の装飾や服、髪飾りなどこまごまとした部分も見事に彫刻されている。

「お前はすごいな。まるで本物を見たようにできてるじゃないか」

「ええ。だいたいは伝承と、ツチガエルおばあさまに聞いたものだけれど、昨日ね、夢を見たの。それにコアトリクエ様が出てきて」

「本当か」

「ええ」

 夢は真実を写す。見れば見るほどこの木像はコアトリクエそのものであり、一切の隙が無い。オオタカはしっかりと握りこみ、目をつぶってから願う。この集落の無事と、シロボタンのお腹にいるはずのわが子の無事、そしてもちろんシロボタンの無事をも。

 コアトリクエは地母神の名の通り、大地の母であり、生命の母である。さらに具体的に言えば、彼女は豊穣の神であり、また安産の神でもある。だから彼女の聖域は、もともと豊穣と安産祈願の祈りをささげる場所だ。オオタカはそのことを思い出して、酋長による自分への指令は福音だったかもしれないと感じ始める。


 翌朝には長雨がようやく去り、濡れた地面や葉についた水滴がきらきらとしていた。そのぬかるんだ道を、オオタカとイヌイシは別方向に進み始める。二人はたっぷりと水を飲んだ後、神への貢物と食料、そして武器を担ぎ、緑の茂みの向こうへ姿を消した。



 健康な体の維持には、きれいな水と栄養のある食料が必要であるというのは皆が知っている。それでもこの掟を食い破って人々を死に至らしめるのが、ココリツリだった。ただ、かといって汚い水や得体の知れない物を食べていいというわけではない。そうすればますますエクリトアクの力が強まってしまうと、泥水を目の前にして、オオタカは考えている。

 少し歩くと、大きな葉の上にあたかも飲料水のように澄んだ水がある。彼はコアトリクエの木像に感謝をして、ありがたく飲み干した。随分前から水音も聞こえないし、蚊や蜂もいない。水辺は近くにないことがわかっていたために、なおさらうれしいものだった。そしてさらに幸運は続く。ヤシの木を見つけたのだ。早速固い葉をかき分けて、新芽を探す。それを食べる。シャキシャキとした、瑞々しい繊維が口の中を満たし、腹をも満たす。栄養満点とは思えない味だったが、何も入れないよりはマシであることは確かである。

 そうして食料や飲料を現地調達しながら進むオオタカの旅路は、今朝で三日目となっていた。サソリやアリ、毒グモなどを避けるために樹上で寝ていた彼は、毒ヘビに注意してゆっくりと地上に降りる。コアトリクエ聖域へは誰でも集落から大体三日かかるといわれているので、おそらく今日中にたどり着くはずだった。干し肉はあと二日分くらいしかないのを確認して、今食べるのはほんのひとかけに留めておく。


 思えば、ここまで長い事一人でいるのは初めてのことだ。そう思うと唐突に、湿気で重いこの大気や、ぬかるんだ地面に気味の悪さを感じてくる。今まで味わったことのない、名状しがたい恐怖だった。ジャガーに睨まれるとか、水辺のワニに威嚇されるとかとは種類が違った。緑の植物がすべて自分を飲み込んでしまうような錯覚。大地が今にも液状化して、自分を消化してしまうような妄想。恐怖は病気であると酋長が言っていたのを思い出す。病気である恐怖心を集落に持って帰ってはならない。そんな掟を思い出す。自分は帰れないのではないか。そんな弱気な思いが増々強くなる。自分はもう家に戻れないのだろうか。みんなに会える事もできず、シロボタンを置き去りにして死んでいくのだろうか。孤独に息絶えるのだろうか。

「コアトリクエ様……」

 腰袋に入れてあった木像を取り出して、思わず抱きしめた。荒削りの部分が痛いが、それも自分の生の実感であり、一人ではないという証明に繋がっているため、不思議とオオタカは落ち着きを取り戻した。

 しかし、その野生の勘は、もう戻らない。五感は全く衰えていないのに、なぜかこの熱帯雨林が異世界に感じられる。空も土も、横も縦も、前も後ろも植物と虫に覆われている中で、以前なら何も考えずに歩けたのだが、今はもうおっかなびっくり一歩を踏み出すのが精いっぱいで、その一歩すら、三歩目で下生えに引っかかって転んでしまう。

「うぅ」

 木像を落としてしまったためにその逞しい体に似つかわしくない声が出た。急いで拾うが、これまで唯一の心の拠り所だったこの木像にも、奇妙な思いをさせられる。彼は上下逆さまで木像を握っていた。すると、その姿はまるで異形。大きく広がった足に、何やら顔が浮かび上がっている。また本来ならば腰のあたりにある母なる産道が、その顔の首あたりにぽっかりあいていて、装飾品だったはずのものが、その口の中から飛び出る手のように見えた。それはまるで自分に助けを求める死者の腕のように思えてしまう。なぜだ。コアトリクエ様、あなたはなぜこんなに恐ろしいお姿になっているのですか。

 オオタカは震える手で上下を元に戻す。やはりそれはいつもの柔和なコアトリクエ像で、母なる女神である。ではあの異形――恐れずに言うならば、エクトリアクのような姿は何なのだろうか。エクリトアク、コアトリクエ。

 コアトリクエ、エクリトアク。逆さま。コアトリクエ。

 クアトリクエ……? エクリトアコ?

 まさか。

 オオタカは瞼を極力見開いて、木像を凝視する。これは、コアトリクエ。そしてひっくり返すと、あらゆる模様や肌の質感、飾りが一瞬で、逆さになることで恐ろしい模様となる。これは、やはりエクリトアク。コアトリクエを逆さにすると、エクリトアコ。つまりまごうことなきエクリトアク。

 地母神が、死神?

「水だ」

 おぼつかない足取りではあるものの、オオタカは無意識に歩みを進めていた。それで気付いたころにはいかにも涼しげな水音が耳を刺激している。コアトリクエの聖域だった。

 彼は走る。ココリツリではないが、それと同じくらい厄介な、恐怖という病に追い回されているから。あの泉へ行けば、コアトリクエ様が助けてくれる。その一心で、とうとう様々な草を書き分け、蔓をどけて、木の根に躓きながらもようやく視界が開けた。荘厳な滝の流れは、一時、時間の概念を忘れさせる。その場所だけは木が生えておらず、太陽光が直に差し込んでいる。久々に浴びる大量の光と水に思わず唸る。身震いをして、水を飲もうと水面に口を付けたその時、両手に何かが触れた。いや、巻き付いた。驚いて口の中の空気をすべて吐き出した後、それは彼の体ごと引きずり込んでいった。なす術もないとはまさにこのことで、もうどうにでもなれと、体を水の流れに任せる。ただ、不思議と死を予感することは無かったし、先ほどまでの恐怖も薄れていた。息は苦しいが、なぜか安心していられる。彼は静かに目を閉じた。



 オオタカが目覚めたのは、何もない暗闇。どうやら自分はその暗闇の空間に浮いているようだった。手足をばたつかせても、動けないし、何に触れるわけでもない。それに何も見えないし、聞こえない。声も出なかった。さっきまでは水の中だったのに、ここはどこなのか。自分は死んだのかもしれないなどと考えを巡らせていると、下の方から光が射していた。

〈コアトリクエ様!〉

 と叫んだつもりだったが、彼の声はもごもごと、いまいち音声として成り立たない。しかしそれはどうであれ、彼の二つの目はきちんととらえている。目の前に佇む、豊穣の母なる、地母神を。緑に包まれ、小さな顔と大量の装飾品を付けた体をかすかに揺らす、コアトリクエを。その美貌もさることながら、腰にぽっかり空いた産道は、無性に見るものを切なくさせる。

 彼は急いで貢物を取り出そうとするが、そのコアトリクエはなんと見る見るうちに黒く変色していく。いや、違う。へそを中心として、廻っている。そして上下逆さまになったかと思うと、その姿はこれまた見覚えのあるものだった。死神エクリトアク。異様に大きな頭と口元からむき出しになっている無数の牙、さらに首は大きく横に引き裂かれており、第二の真っ赤な大口からは、六本の腕が飛び出している。まるで招かれているようだった。まるで、それはまるで。

〈そう、だったんですね〉

 産道。いや、墓穴。そのどちらでもある。地母神コアトリクエは、あらゆるものを母なる大地として産み落とす。そして命ある者は同時に、必ず死を迎える。その死すら、彼女が管理していた。今まで産道だったあの大穴は、今や死者を葬る墓穴であり、体を貪りつくす炎だ。

 オオタカはエクリトアク=コアトリクエ神が近づいているのを確認する。いや、自分が近づいていっているのかもしれない。それはどうでもよかった。彼は理解したから。この世の摂理を。彼は自然の真髄を見た。生と死は一直線にあることを。死は恐れることではない。それは生と同じく、神に世話になる行為であり、決して苦しいことでは無い。

 無数の腕に抱きかかえられ、エクリトアクの口内へと入れられた彼はそれでも恐怖を一切感じず、むしろ快感を知った。暖かい。これは死の快感であり、胎内回帰の快感。死神の輪廻思想を知り、地母神の包容力を肌で感じ、創造神の妙なる創作を見た。そして、そのはるか先に、オメテオトルの無限の思考がきらめく。早く集落の皆に知らせなくては。とろけ行く思考回路で、彼はそのことだけを思い続ける。早く、このことを。早く、死は救済であるということを。死は始まりであり、コアトリクエとエクリトアクは。


 彼は、完全に溶かされてしまった。しかしそれは彼の死を意味するとは言い切れない。彼はコアトリクエの胎内で別の人間として形作られ、新たな人間の基、胎児となる。さらに、その雄姿を評価された彼は、二つの胎児に分裂することとなった。その魂は、自信の妻であるシロボタンの胎内と、親友の嫁、タビモロコシの胎内へと送られる。だから彼は、決して死神に喰われたのではない。彼は地母神に、新たな魂として大地に産み落とされることとなった、それだけのことである。


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