第407話 雪結晶

【10年前】


【テイクンシティー コドマ通り】


【最初の冬】



瞳から落ちる水滴が、素早く凍ってしまう。


薄暗い夜。手足が震え、指の先が色を失う。剥き出しの腕の素肌に、またも雪結晶が落ちては消えていく。



「ひくっ……うえぇ……」



ルノは、しゃくりあげながら顔を丸めてしゃがみこんでいた。


川から吹く雪混じりの風が、心の奥底まで冷やそうとしているようだ。水面はどこまでも静かに、ただ雪を受け止めている。



「ひくっ……」



今日は、ルノが生まれた記念の日なのに。年が明けて、街はこんなに明るいのに。涙がとめどなく溢れ、凍りついていく。



「うぐっ……ひっく」



「こーんな時間に一人か? おチビ」



誰かの声が聞こえてきて、ルノはハッと顔を上げた。



「だ、誰?」



聞こえた方に振り向くと、一人の青年が川の堤防からこちらを見下ろしていた。涙で視界が滲み、よく見えない。


泣き腫らした目が、ちりちりと痛む。誤魔化すように、ゴシゴシ目を擦った。



「折角年が明けて歳をとったのに、何を泣いてるんだ? チビすけ」



「……チビやないもん」



方言に驚いたのか、目をぱちくりさせると、片足で軽くジャンプ。堤防を降りて笑顔で距離を詰めると、ルノの隣にどしっと腰掛ける。


彼の珍しい白髪に結晶が落ち、キラキラと光るのを、ルノはぼうっと眺めた。



「チビじゃないなら何だ、名前は?」



「ルノ」



「ルノ、いいじゃん」



「お兄さんは?」



そう尋ねると、青年は少し渋っていたが、口を開く。



「本名はな、モイラ。でも、商会での名前の方が気に入ってんだよな。よーし、特別に教えちゃる」



彼は勿体ぶったように指を振ると、ルノに笑顔を向けた。



「本名はモイラ・ニック・マジェラ。そして商会での名前は……カガリだ」



「カガリ?」



「そう、カガリ。特別だからな、忘れてくれるなよ」



カガリはそう告げると、着込んでいた上着を脱ぎ、そっとルノに頭から被せる。



「……ありがとう」



ジーンズの上着。少し濡れていたが、染み込むようなぬくもりが包む。


いつのまにか、涙は引っ込んでいた。



「かっこいいやん名前、カガリって」



「だろ? 兄貴はユウギリっていうんだ、そういえば元気してんのかなぁ」



「マジェラの人やのに、何でここにおるの」



商会の場所は、ここからかなり離れていた筈。


そう尋ねると、流石に分かるか、と軽く舌を出してみせた。



「仕事だよ。ここに一人で暮らすことになってさ、引っ越してきたばかりで退屈なんだわ。話し相手もいないしな」



「ボクも」



思わず、ポツリと呟く。忘れていた涙が、また落ちてこようとしていた。


気付いたらしいカガリが、そっと頰に上着を押し当てる。満面の笑みで微笑んだ。



「じゃあ、今日から話し相手になろう。またここに会いに来てもいいか?」



「ボクに?」



──ボクに会いに来るの?



聞き返すと、晴れやかな笑顔で頷く。ルノも、ぎこちない笑みで返す。


頭のもやが、さざなみのように流れて消えていく。



「ボクも、カガリとお話ししたい」



そう返すと、カガリは嬉しそうに顔を輝かせ、天に向かって大きく伸びをした。



「よし、俺は目標を立てることにする!」



「目標って?」



「目標は目標。ぜーったいに秘密だぞ、男の約束!」



約束の指切り。



男の約束、と言いながら、教えてくれたのはずっと後だった。




【現在】


【パレス 三階】


【テラス】



「……」



テラスからベランダに出ていたルノは、手のひらで雪結晶を受け止めた。


そう、初めて会ったあの日も雪が降っていた。思い出しながらぼんやりと、雪の降る空を見上げる。



──カガリ、やっとあいつを見つけたぞ。



雪は、空まで白く染めてしまった。濁ったような白は、空がまるでもやで覆われてしまったよう。


ずっと、あの見えざる者を探し続けた。事件はあったが、なんとか団員になれた。パレスで奴の資料を探し、夜になれば潜伏場所を地道に探す日々。


だが、いくら探しても見つからず、時間だけが過ぎていく。やっと掴んだ、仇を取る機会。


今もまだ、脳にこびりついて離れない。


もう9年も経った、経ってしまった。あの時の非力なルノではない。



──今度こそ逃さない。必ず、あいつを倒してみせる。



拳に力を込めると、赤い血の滴がぽたっと落ちて、雪に混じる。



「カガリ……」



忘れないと誓った。


呼びかけても届かない。もう、二度とあの人には会えない。二度とあの笑顔を見ることはない。



会えない責任は、自分でとる。




「カガリ、必ず……」







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