虫愛づる父娘

佐藤山猫

1話

 父の後について静々と、私は笛を抱くようにして御簾の前に腰を下ろした。

 御前である。

 御簾の向こうには鳥羽院が御坐おわしますからこそ、礼を逸してはならない。

 有職ゆうそくに則り、管絃の遊は男だけで執り行わねばならないと父は言った。君臣の垣根を越えて、鳥羽院とは親しい間柄なのだけれども、だからとて作法を無視する訳にもいかないという。

 だったら私を連れてこないでほしいともほんの少し思うけれども、鳥羽院直々に招待されたと聞けば、光栄に思う気持ちの方が強い。だから私も、今だけは女ではなく男としての所作を求められる。結い上げた髪を烏帽子の中に収めて、普段は着ない男装に身を包む。


 呼吸を整えて、誰からともなく調べを奏でていく。父の琴の音が柔らかく私の笛の音と結びつき、それを鼓たちが飾り付けてくれる。父の琴の音には決して派手さは無いが、一本筋が通っていて、他の笛や弦楽器の下支えを必要としない陽だまりのようであった。


 自分で語るのもおこがましいけれど、父の薫陶を受けた私も雅楽にかけては有名だ。こうして鳥羽院の御前に呼ばれるだけあるし、執政・頼長よりなが様に請われご子息の雅楽教師も任されている。

 それでも父の腕は別格で、とても肩を並べられそうに無い。



 夜も更けてきた。

 御所を辞す時、そこに私たちがいることを知っていたのだろうけれど、誰かの囁くような会話が耳に入ってきた。


「全くかの父娘は曲者じゃ。変人親子じゃ」

「うむ。管弦の才にかけては当代一。右に出るものはおられるまい。しかしあの趣味はいかん」

「蜂飼いじゃな。聞けば蜂のひとつひとつを見分け、名前まで付けておられるとか……理解できぬ」

「作用。実に無益なこと。蜂なぞ風情の欠片もない。どれほど研究しようとも何の役にも立たぬことよ」

「聞けば娘の方も父親に似て、毛虫なりを集めては虫籠に入れて楽しんでいるというぞ。それを父君は嗜めもお嘆きもせずという」

「ふふ。さすがは蜂飼大臣はちかいのおとど宗輔むねすけ公であることよ」


 父も私も泰然と聞き流していたけれど、少し前で肩を怒らせている雰囲気の人が観察された。





 その彼がいかにも理解できないという風に疑問をぶつけてきたのは後日のことである。


「こんなことを言われていたというのに、どうして何も仰ろうとしないのですか」


 執政の頼長に詰められ、私は簾の向こうで琴の手を止めた。


「世間で何を言われようと、私は気にならないのです」

「言われっぱなしでも構わないというのですか!?」

「ええ。父も何も気にしないことでしょう」


 表情こそ僅かにしか窺い知れないが、頼長が不服そうな気配を漂わせていた。才気に溢れるが若くて苛烈な性格の青年である。納得いかないのも仕方がないのかもしれない。


 私はからかいを込めて声を明るくした。


「けれども私たちの趣味を、頼長様も良くは思ってらっしゃらないのでしょう?」

「そ、それはそうですが」


 簾の向こうで頼長がたじろいだようだった。


「し、しかし! 眼前で中傷されなお黙っているというのとは話が別ではないでしょうか!」

「確かに、私たちの趣味は今のところは政務には何の貢献もしません。それは事実ですから」

「ではどうして──」

「でも、役に立たないからと嘲笑い斬り捨てるのですか? いつかは役に立つかもしれませんよ?」

「…………」

「しかし……やはり毛虫が蝶になるというのは興味深いことです。何しろ全く姿形が異なるにも関わらず、飛べない小さな虫が大きくなって蛹になり羽化しはばたいていく、これは極めて謎に満ちています。毛虫や蝶は、世間では一括りに毛虫だの蝶だの呼びますけれど、色や大きさや模様が異なるものばかりです。私は父に倣ってひとつひとつを虫籠に入れ分け、どの毛虫がどの蝶になるのかを探っているのです」


 そう言って簾の隙間から差し出した虫籠を、頼長はおぞましいものでも扱うようにして私の方に押しやった。


「毛虫が蝶に変化する事実には神仏の教えにも通じる万物への普遍的な真理が潜んでいます。この理を探究する行為は極めて崇高なものだとお思いになりませんか?」

「……よく分かりませんな」


 頼長は憮然として言った。


「神仏の教えに耳を傾け、有職を研究することこそ世の理を探る道筋です。

 少なくとも、蜂を愛称で呼ぶことは必要ないはずですが」


 早口に言うと、頼長は立ち上がって勢いよく去っていった。きっと虫が嫌だったのだろう。


「少しからかいすぎたかしら」


 虫籠の毛虫は蛹になっている。この種の毛虫なら、夏盛りの今にも羽化しそうだ。私は虫籠に顔を寄せた。




 またしても鳥羽院に招かれ、父と私は御殿に参上した。

 今日も頼長が一緒である。


「見ろよ。あれが蜂飼大臣とその姫君だ」

「おお、あの変人父娘殿か」


 どこかの家の使用人だろう。私たちを見て嘲笑しているのが聞こえた。


「無礼であろう!」


 一喝したのは私でも父でもない。頼長だ。


「うわぁ、悪左府あくさふの頼長様だ」

「へぇ、すんません」


 使用人たちは蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。


「どこまでもふざけた連中だ。一体どこの家の者なのだ」


 憤慨している頼長には申し訳ないけれど、私も父もどこ吹く風だ。

 私たちは顔を見合わせて肩をすくめあった。


 そして、鳥羽院の御前である。


「夕暮れ刻が美しい季節になった。庭の外でも見て遊ぼうぞ」


 菓子を用意してご機嫌な鳥羽院である。

 私たちは仰せのままに楽器を用意した。父と頼長は琴の前に座って爪弾くための爪を装着し、私は笛を構えた。


 呼吸を合わせて、音が奏でられる。

 虫も魅惑的だけれど、音楽もまた素晴らしい。

 父によると、人ならず花や木々も、猫も犬も音楽を好むという。きっと虫たちも笛や琴を好むに違いない。


 そう思っていると、管絃の調べに割り込むようにして悲鳴が上がった。


 何事かと顔を上げると、庭先に黒い何かが渦巻いている。ブンブンという羽音も聞こえる。


「蜂じゃ! 巣が落ちたのじゃ!」


 鳥羽院が叫んで御簾を身体に巻きつけるように引いた。

 侍従も使用人も貴族たちも、みんな刺されまいと慌てふためいている。普段は苛烈な若者らしく精悍な頼長が顔を青ざめているのは滑稽だった。


 そんな中にあって、父は冷静だった。琴を弾く構えのまま、じっと蜂を観察している。


「羽斑、じゃな」


 父は小さく呟き、御前に供じてあった枇杷を掴み、琴の爪で皮を割くと皿に乗せたそれを高く掲げた。

 枇杷の匂いに釣られて蜂が寄ってくる。御殿の中を飛び交っていた蜂たちがたちまち枇杷に吸い付いて動きを止めた。


「姫、これを」

「はい」


 私は父から枇杷を受け取ると、刺激を与えないようそっと庭先まで運び、控えていた私の家の者に手渡した。

 

「そっとよ」


 蜂を預けて振り返ると、立ち直ったばかりの頼長と目があった。


「羽斑という蜂は枇杷が大好物なの。父が教えてくれたわ」


 羽斑は枇杷が好物なのに、足高は殆ど目もくれないんだ。見た目に違いが分かるかい?


 父の言葉が甦る。

 私に虫の素晴らしさを教えてくれたのは父であった。


「虫好きも、役に立つところがあるでしょう?」


 私はからかうように明るく言った。


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