止まってくれ
岩田へいきち
止まってくれ
ぼくは、身体障害者だ。
左半身が全体的に麻痺している。かろうじてゆっくりなら歩けるようにはなったが走ることは出来ない。
なのに、サッカー指導者だ。
子どもたちにも協力してもらいながらなんとか続けている。
ぼくは、身体障害者だ。重度だから会社には、補助金が入ってる。
なのに、仕事は、めちゃめちゃ忙しい。中間管理職だし、ぼくが手を抜いたり、資料の提出が遅れたりしたら会社の存続にかかわる。
だけど、給料は安い。身体障害者差別か?
ぼくは、60才前だ。身体障害は、関係ないがオシッコは少し近くなった。走れないから早めにトイレに行かなければならない。
ぼくは、四駆のミッション車に以前、乗っていた。カーブの前のシフトダウンやエンジンブレーキの感触を楽しんでいたのだ。だけど、半身麻痺になってからはオートマ車、免許もオートマ車限定になってしまった。
そんなぼくの暮れも近づいたある日、またまた、電力会社向けの書類と闘っていた。
百数十ページもある試験成績書をスクロールするだけで肩がもげそうになるくらい痛い。しかし、これをあと数日で出し切って、承認をもらわなければ生産が止まって、会社が潰れてしまう。ここ数週間、土日も含めてずっと夜の11時まで残業をしている。土日は、サッカーの試合や練習があるからそれが終わってからだ。
ぼくは、平日の今日も夜の7時から9時までの練習が終わったら会社に戻って、11時まで書類作成をやろうと決めていた。それ以上は、以前、脳出血で倒れた経験から無理しないようにしている。倒れてしまったら、かえってみんなに迷惑をかけてしまうということを学んだのだ。
この日も練習が終わったら、そのまま会社に戻って、少しでも多く時間を取りたいと焦っていた。しかし、寒い夜の練習、2時間も指導すればオシッコもしたくなる。車の運転中は我慢、会社の守衛所まで行って土足で入れるトイレにも行こうとこちらも焦っていた。
工場の門を開け、車を守衛所に横づけ、門を閉めるのは後回しにして、真っ先にトイレへ。
――あぁ、間に合った。
ぼくは、手を洗ってトイレを出た。
――ええっ?!
守衛所の窓から動き出した車が見える。しかもドアが開けっ放しだ。
――そんなにぼくは焦っていたのか? いや、そんなのはどうでもいい。追いかけろ。止めなきゃ。ゆっくりだが、追いつけるか? ぼくは走れない。
前に駐車してある車に近づいている。開いたドアがその車のバンパーに軽く触って閉じる。
――良かった。他人の車にダメージはない。あとは追いつければ。
今日は、寒い。アイドリングに自動チョークがかかって回転数が上がる。
――何? なにスピード上げてんだよ。こっちは走れないんだぞ。
ここは、塀に囲まれた夜の工場内、誰もいない。誰も見ていない。叫んでも誰も来ない。
どんどん離される。
――だめだ、追いつけない。阿蘇の大観峰の駐車場で勝手に動き出して崖からダイブしようしていた他人の車に駆け寄り、飛び乗って止めたこともあるぼくが、鯛生金山の夜の山道で溝にはまっていた車を助けたこともあるこのぼくが、今は、こんな歩く速さの車に追いつけない。ここでは誰も助けてくれないのか。
車は、工場内の通路を更に奥へまっすぐ入っていく、まだまだ離される。もう到底追いつけない。進む先にドラム缶。
――マジか。あれを倒して、大爆発? 静まりかえった近所中が驚くぞ。会社の役員たちにどう言い訳すればいいのだ? これまでのぼくのキャリアも台無しか。いやそれはたいしたことない。会社が潰れないようにと無理した残業が工場を破壊、会社を潰すなんて無情すぎる。 ああ、止まらない。止まってくれ。
車は、パレットに載ったドラム缶を左側で少しずらし、もう片方を壁に擦って止まった。ドラム缶には、少し油分の混じったドレンが入っていたようで、ほぼ、空だった。倒れて大音量をまき散らすこともなかった。
――ああ、止まってくれた。ありがとう。
やっとぼくは、追いついた。
その後、門を閉め、やっぱり、11時まで仕事をしたぼくは、少し考えた。
――修理代6万円。タダどころかマイナスの残業代じゃないか。社長さん、中間管理職に残業代払わないと決めてるなら、マイナスの残業代も払わないでください。タダで良いです。
終わり
止まってくれ 岩田へいきち @iwatahei
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