第450話 モラルとエチカ

 ビスキュートはこの2人に食べられるのを承知で共同生活を送っていた。僕の理解をはるかに超えた領域に、この家は支配されている。


 ルナティックガーデン。耳ざわりのいい響きのくせに、なんておぞましい教団なんだ。人が人を食べることを後押しするようなシステムを作りあげるなんて。


「僕ちゃんは、はっきり言って道徳モラルというものに囚われすぎているのよ」


 ミネルヴァさんが、大きな目をさらに鋭くして言った。


「モラル?」


「そうよ。社会はモラルという名の鎖でがんじがらめ状態。けっして健全とは呼べないわ」


 ため息まじりにそう言うミネルヴァさんに、僕は誰もが分かりきった正論をぶつけた。


「モラルがなければ、社会は成り立ちません。崩壊します」


 それを聞いたミネルヴァさんは、みるみるうちにあきれ顔になった。


「僕ちゃんはそういう狭いものの見かたしかできないのね。道端で干からびた犬のクソと同レベルじゃない。ヘドロ臭いクズモラルがはびこる薄っぺらい社会が生み出した弊害のひとつとも言えるわね」


「犬のクソって……」


 僕の知ってる大人に、こんなねじ曲がったことを言う人はいない。ミネルヴァさんはさらに語った。


「私たちルナティックガーデンに属する人間は、倫理エチカに基づいた信念を最優先にした生き方に、最高の価値があると分かっているの」


「エチカ?」


「エチカはね、モラルのように社会に認めてもらう必要のない、個人の中にあるルールとでも言えばいいかしら」


「個人のルール? それに従ってマリアちゃんを食べるんですか? 普通に考えて殺人っ、犯罪です!」


 僕は怖くて息が乱れそうになるのを必死にこらえながら言った。


「そんなの知ったことではないのよ」


「そ、そんなっ!」


「私たちをテレビで報じられているような殺人犯と一緒にしないでちょうだい。私とラファエル、マリアは利害が一致しているの。無理やり殺して食べようってわけじゃないの」


 すごい冷静にヤヴァいことを言われているこの状況。この家の中の空気はとても吸いにくい。そして、吸うたびに僕の常識や正義を腐らせるようだ。


「マ、マリアちゃんが、そんなことを本気で望むわけが……」


 僕の心の中のクリムゾンレッドの炎が、酸素不足で小さくなっていく。発する言葉にも急に力が入らなくなる。


 ビスキュートは確かに生まれたくなかったと言っていた。でも、こんな狂った教団の価値観に犯されて、たった6歳の女の子が死を選ぶなんて。やっぱりどうかしてる!


 生きていたら楽しいことがいっぱいあるんだよ。ビスキュート、僕がずっと一緒にいるよ。もっとたくさん話したいよ。笑い声が聞きたいよ。生きたいって言ってよ。


 僕が初めて見つけた恋。それをこんな形で失うなんて絶対に嫌だ。この世の中には一定数、異常者がいることは分かっていた。でも、こんなタイミングで出くわすなんて。僕は今日ほど神の存在を疑ったことはない。


 息苦しい。自分でも顔色が悪いのが分かる。そんな僕をみかねて、ラファエルさんが優しい声で話しかけてきた。


「ごめんね、僕ちゃん。ミネルヴァは見た目に反して口が汚くてね。気分を害してないかい?」


「だ、大丈夫です。それよりも、マリアちゃんを食べるなんてやめてください。考え直してくれませんか?」


「マリアについて、少し話そうか」


 赤いお酒の入ったグラスを左手に持ちながら、ラファエルさんは僕をじっとみつめた。


「は、はい」


 僕はそれが聞きたかった。その為に来たんだ。僕は背筋を伸ばした。


「教団が所有するこの家に私たちが越してきて半年。このエクソシズム・ブレンドを週に一度、マリアに飲ませていたんだ」


「エクソシズム・ブレンド?」


「教団が製造するこの酒には、邪気を祓い、肉体を浄化させる効果がある」


「肉体を浄化?」


「マリアはね、実の父親にむごい仕打ちを受けていたんだ。そのせいで、マリアの体は内側も外側もひどくけがれてしまったんだ」


「むごい仕打ち?」


「日常的に繰り返されていた性的虐待と暴力だ。そんな地獄の中で甘いお菓子とお人形が、マリアの精神をかろうじて繋ぎとめていたんだよ」


「そ、そんなことが……」


「右足を引きずっているのはその時の暴力のせいだ。親に口止めされていたんだろう。私にも絶対に電磁波のせいだとしか言わない。いまだに怖くて本当のことが言えないようだ」


「ひ、ひどい……」


 電磁波、引きずる右足、ポップキャンディー、お人形のマドレーヌ。ビスキュートのあの笑顔は、必死につらかった過去を忘れようとしていたのか。


 僕の推理なんて間違っていてよかったと思っていた。それなのに、虐待が本当にあったなんて。ビスキュートみたいないい子が、なんでそんなことをされなきゃいけないんだ!


 バットで頭をぶん殴られたようなショック。それと同時に込み上げる怒りと悲しみ。ビスキュートを絶対に食べさせるわけにはいかない。僕がビスキュートの運命を変えてみせる!


 僕は苦しかった呼吸を静かに整え、なんとかして2人を説得する方法を考えることにした。脅しでもハッタリでもいい。最終的にビスキュートをこの家から連れ出す。


 僕が頭をフル回転させて策を練っていると、ラファエルさんがいつにも増して重低音の声で言った。


「僕ちゃんにひとつ提案があるんだが、聞いてはくれないかね?」


 

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