ずたぼろ赤猫ものがたり 後編

「珍しい毛色ですね。輸入の積み荷に紛れて入ったのでしょうか」

「いや、この頃は港から直接城に入れてないし、検疫も厳しいだろう。この国で生まれた子に違いない」

「生後二ヶ月といったところですね……毛玉だらけの所を見るに、生まれてすぐに親からはぐれたようです。それで餓えていないということは、誰かが餌付けをしているかと」

「いつから城にいたんだろう? 成猫ならともかく、こんな子猫が城壁を越えてこれるとは思えないが」


 わたしをぶら下げたまま、そんな会話をしている、ミオとキュロス様。


 ……こ、困った。どうしたらいいの。


 とりあえず、摘まんでいるのを離して欲しい。不思議と痛くもないんだけど、心地の良い状態ではなかった。わたしがジタバタすると、ミオは逆に束縛を強くした。両手で抱え込み、身動きできなくされる。えーん。


「……どうします、旦那様?」


 うっ。まずい。城主であるキュロス様が判断すれば、わたしは今すぐ城から追い出されてしまう。人間ならどうにか働き口を探そうと思うけど、子猫の姿ではどう生きていけばいいか分からない。きっとすぐに野垂れ死に、いや馬車に轢かれて潰される!?

 みゃーみゃー鳴いているわたしを見下ろし、キュロス様は顎に手を当て、フムと唸った。


「とりあえず、このずたぼろ状態を何とかしよう。風呂に連れて行け」

「畏まりました」


 ――お風呂っ!?

 わたしは震え上がった。その言葉を聞いた途端、自分でも驚くほどの瞬発力で、ミオの手を蹴り逃れる。しかし飛び出した方向が悪かった。キュロス様の胸に突撃し、反射的にしがみつく。その瞬間、わたしの爪がバリバリとキュロス様の服を縦に裂いた。


「おっと」


 あああっいけない! キュロス様はオシャレな方だ。平服とはいえ、お召し物はどれも高級品。それをわたしったら! まずいまずいまずい、もう絶対捨てられる!!

 地面に叩きつけられることすら覚悟して、わたしはギュッと目を閉じた。


 ところが、キュロス様は何も……慌てることも、声を荒げることもなく……ただ優しく、わたしの体を抱き留めた。おしりを支えて、爪でぶらさがっていたのをそっと外し、胸に押し当てるように安定させる。それからフフッと笑った。


「ああ、そうだ、たしか猫は水が嫌いなんだったな。悪かったよ」

「……にゃぁ……あん……」

「しかし旦那様、そこまで汚れると、自分で舐めるだけでは無理ですよ。いちど力尽くででも、湯と石鹸を使い、ブラシで解いていかないと……」

「そうだろうな」


 と、キュロス様はわたしを抱いたまま、噴水のフチに腰を下ろした。片足だけ胡座(あぐら)をかき、太もものベッドにわたしを置く。

 わたしを落ち着かせるために、背中をトントンと叩きながら、懐から、櫛(コーム)を取り出した。迷うことなくわたしの毛に差し込んで、絡んでダマになった長毛を解きほぐすよう、少しずつ前後させていく。


「旦那様。野生動物はノミや寄生虫、傷口を介する感染症を持っている可能性がございまず。侍従頭の立場上、その櫛を再び旦那様が使うことを阻止します」

「二度と使わなければ良いだろう。この櫛は猫の専用にする」

「そちらは確か、シャイナの牛角に螺鈿をあしらった高価な物で、旦那様もたいへん気に入ってらっしゃったと思いますが」

「俺が猫に使うんだから、別に失うわけじゃない」

「それならば結構です。畏まりました」


 ミオは引き下がり、一礼した。牛角に螺鈿……いくらするんだろう……。わたしは目をぐるぐるさせていた。その間にも、毛玉は少しずつ解かれていく。


「ミオ、今のうちにチュニカの所へいって、薄く石鹸を溶かした湯と、タオルを五、六枚もらってきてくれ。水に浸けられないなら、濡れタオルで拭き取ることにしよう」

「ついでに鋏をお持ちしましょうか」

「頼む。あ、石鹸水はなるべく香りのないものにしてくれ」


 足早に立ち去るミオを見送って、キュロス様はわたしのブラッシングを続けた。

 ときどき、毛玉に引っかかり皮膚がチクりとする。そのたびキュロス様は櫛を抜いて、指で毛玉をつまみ、丁寧にほぐしていった。それが、ちっとも痛くないの。あったかくて、優しくて、気持ちが良いの……。

 わたしは彼の腿で丸まって、顔を伏せた。すると急速に、生暖かい眠気が来た。彼の肉感的な太もものベッドで、大きな手に撫でられて……。

 やがて、ミオが戻ってきて、お湯を絞ったほかほかのタオルで包まれる。汚れや毛玉といっしょに、緊張がとろーりと蕩けて……ああだめだ、眠い。眠たくてどうしようもない。


「――可愛いな、おまえ」


 ウトウトを越えてもはや失神寸前のわたしに、キュロス様は囁いた。


「もう甘えてくれるのか。出会ったときは、あんなに怯えていたのに。ずたぼろの毛並みも、ほんの少し手を入れただけで綺麗になった。……まるでどこか誰かみたいだな」


 眠気でおぼろげになった聴覚に、低く甘く声がじんわり染みこむ。

 わたしは目を閉じた。




 うとうと、とろり。ふわふわ、ぼんやり。


 夢心地のなかで……わたしはゆっくりと目を開いた。


 あ……わたし、少し眠っていたのね。体を起こし、頭を振る。

 あたりを見回すが、誰も居ない。それになんだか体が痛い。さっきまで寝そべっていた床を見下ろすと、そこはキュロス様の足ではなく、固い木の床だった。

 ……あれ? 


「キュロス様……? キュロス様!?」


 どうしよう、ここはどこ!? やっぱりわたし、城の外に捨てられてしまったの? 

 わたしは慌てて起き上がった。どうにか知っている顔を探そうと、二本の足で駆け出して――。

 二本?


「え? あっ! わっ! 戻った!!」


 わたしは声を上げた。耳に聞こえてくるのは確かに人間の声、ディルツ王国語。耳は顔の側面にあり、鼻はすんなりと細く高く、頬にヒゲも、お尻に尻尾もない。人間の体に戻ってる!


「よ、よかったぁ……!」


 脱力したとたん、ズキンと後ろ頭が痛んだ。触ってみると、ぷくんと丸いタンコブが出来ている。そうだ、ベンチで頭を強打したんだった……。

 頭を押さえながら東屋(ガゼボ)を出る。いつもの園庭、庭木の向こうに作業をしているヨハンの背中。歩み寄ってみると、彼は振り向き、ニコニコしていた。


「これに懲りたら、品種も良く分からんものを何でも口に入れないことですな」


 何の話? と思ったが、そうだ。わたしは酸っぱいベリーを食べてしまい、口を漱ぎにここへ来たんだ。あれ? もしかしてほとんど時間が経ってないのでは?


「マリー! そっちへいっちゃダメーっ!」


 生け垣の向こうから、ツェリが駆け寄ってきた。後ろにはセドリックもいて、なんだかこちらもばつが悪そうな顔。もじもじしながら、わたしを上目遣いで見上げた。


「ご、ごめんお姉ちゃん。ぼく、その、一応、屋敷の中には入れないようにしてたんだ。ただ門の前は馬も通るし危ないから、放っておくのも可哀想だから」


 その自白でピンときた。半眼になって弟を見下ろす。


「セドリック、あなた――」

「それはずたぼろの猫のことか、セドリック?」


 子ども達の後ろから、男性の声。セドリックとツェリは飛び上がり、顔を引きつらせて振り向いた。

 そこに、キュロス様がいた。


 あっ……! わたしは息を呑んだ。彼の手の中に、子猫がいたのだ。

 この国では珍しい、燃えるような赤毛。もう汚れて毛玉だらけのずたぼろなんかじゃない、ふわふわつやつやの、可愛い姿になっていた。小さな球のようになり、安らかに眠っている。


「ああっ! ずたぼろちゃん!」


 叫んだセドリックを、キュロス様はぎろりと睨んだ。

 キュロス・グラナド伯爵は背が高い。眉を顰めて見下ろすと、端整な顔は恐ろしいほど迫力がある。

 震え上がるセドリック。キュロス様は子ども達を見下ろして、ちゃんと、怒っていた。


「ツェリも知っていて隠したな。ふたりとも、良くない。まずセドリック、無断でうちに生き物を持ち込むな。ここは君の家として、くつろいで貰って構わないが、同時にたくさんの人間が住んでいる」

「……は、はい……すみません。たいへん、ごめいわくをおかけしました」

「家族には、ちゃんと話せ。ツェリも同じだ。俺がこの猫を殺せとでも言うと思ったのか?」

「そ、そうじゃないけどぉ……」


 ツェリはもじもじ、爪先で地面に絵を描いた。幼い侍女見習いは、いつもはキュロス様に馴れ馴れしい。容赦ないツッコミを入れたり不遜な態度をとっている。キュロス様はふだんそれを許しておられるが、今日は甘やかしはしなかった。猫を抱いたまましゃがみこみ、ツェリとまっすぐ視線を合わせた。


「猫に限らず、動物は人間と違い、大嫌いなものや食べると毒になるものがある。下手な触り方をしたりおまえの好物(おやつ)を与えたことが、この子を死なせるかもしれないんだ」

「えっ!?」


 ぎょっと目を剥くツェリとセドリック、二人の頭をポンポン叩いて、


「――ちゃんとした環境を用意してやること。そのために勉強をすること。大人に頼るべきところは頼ること。生き物を飼うっていうのはそういうことだぞ」


 キュロス様は、穏やかにそう言った。


「……はぁい。……ごめんなさい」

「ごめんなさい……」

「ん」


 キュロス様はもう一度、彼らの頭をぽんぽん撫でた。


「みぃー」


 そのとき、猫が小さな声を上げた。それはとても、とても可愛らしい声で。叱られたばかりの子ども達も、キュロス様も、わたしも、思わずほんわか笑ってしまう。

 起きたばかりの猫はそうしてみんなを笑顔にすると、小さな頭を小さな肉球でゴシゴシ擦って、そのまま眠りに戻っていった。


 キュロス様は目を細め、しばらく猫を眺めていたが、そうっとわたしに近づいてきた。横に並んで、内緒話みたいに囁いてくる。


「マリーは、猫……好きか」

「え? ええ、飼ったことはありませんが、酪農家さんのおうちでよく見かけました。可愛いと思います」

「だよな。可愛いよな」

「可愛いです」

「可愛いと思うということは、好きだということだよな?」

「はい? はい、まあ……はい」


 なんだろう、この問答。彼の意図が分からなくて、きょとんとしてしまう。

 キュロス様は、そんなわたしから子猫を庇うように胸に抱き、大きな体を屈めて、上目遣いで見上げて言った。


「……うちで飼ってもいいだろうか。俺がちゃんと世話をするから」

「ほえっ!?」


 思わず、大きく変な声が出る。それでまた目を覚ましたのか、赤毛の猫がニャアーと鳴いた。




 白亜の城塞、グラナド城。わたしがここに、キュロス・グラナド伯爵の婚約者として暮らすようになって、四ヶ月。


 ……ちょっと想定外の早さと形で、家族が一人(いっぴき)増えました。


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