第3話 靴擦れ
駐車場に停めてあったのは小型のバンだった。鳴沢はスライド式のドアを開けて、女子たちに乗るように促した。舞依はニヤリとして「伸司より気が利くんだ」と鳴沢に言うと、車に乗り込んだ。続けて菜々未が乗り込もうとすると、鳴沢は菜々未の前に割り込んで「あんたほんとに来るのか?」と尋ねた。菜々未は再び場違いだと言われた気がして不愉快だったが、舞依がすかさず「しつこいな! 菜々ちゃんはあたしの友達なの! 今日だって自分で『参加する』って言ったんだから。ね?」と口を挟んだ。菜々未は上目遣いに鳴沢を見て頷いた。鳴沢は納得しないような様子だったが、「仕方ねえな」とドアの前から身体を引いた。菜々未は黙って車に乗り込んだ。
移動中の車の中で菜々未は舞依に小さな声で「舞依ちゃん、さっき言ってた『伸司』って……もしかして風神の?」と聞いた。舞依はあっけらかんと「そう。風神の風間伸司。あいつ、あたしに惚れてんやんの」と言った。鳴沢も風間も菜々未と舞依より二学年上で、中学では恐い先輩で通っていた。廊下ですれ違っても目が合わないように下を向くほどだった。どんな経緯があって、舞依は今、その二人とタメ口を利くようになったのだろう。
「舞依ちゃんは……じゃあ風間先輩たちと……友達なの?」
鳴沢に聞かれないようにほとんど囁くように菜々未は言った。
舞依はきゃははと高い声で笑って、鳴沢に向かって「友達だって。あたしが。あんたたちの」と言った。菜々未は縮み上がったが、鳴沢はバックミラー越しに舞依を睨んだだけだった。
「こいつら舎弟なのよ。あたしの彼氏の」
舞依は自慢気に再び鳴沢を見た。
「俺は関係ない。伸司がお前とヤりたくてヘコヘコしてるだけだろ」と鳴沢はミラー越しに吐き捨てるように言った。
舞依はさっと腕を伸ばしたかと思うと、鳴沢の後ろ頭を思い切り叩いた。
「……っぶねえなあ!」
鳴沢の低い怒声に全員がはっとなって黙り込んだ。
「脅すんじゃないわよ。女の子たちを」
舞依がたしなめた。それから意地悪そうに笑って「『女は弱いから守ってやんなきゃいけない』んでしょ。ったく、昭和かよ」と言った。
鳴沢はもう何も言わなかった。黙って前を向いて運転を続けた。
二十分ほどして、車は郊外にあるペンションと別荘が半々に立ち並ぶ山沿いのリゾート地に着いた。中井原リゾートと呼ばれ、近くには小さい湖もあった。この辺りでは誰もが知る行楽地で、菜々未も子供の頃、家族でよく一緒に来た。ただ、かつての賑わいはもうなくなって、どことなく寂れた感じが漂っていた。
車は高い生け垣のある家の前に止まった。鳴沢が手元のリモートコントローラーを押すと、重そうな金属板の門扉ががらがらと横に開いた。車を停めると、鳴沢は運転席から降りて後部座席のドアを開けた。菜々未は車から降り立つと辺りを見回した。建物の前にはカーポートと芝の植わったちょっとした庭があった。優に二メートルは超える生け垣と門扉に囲まれて、外からは中を覗けないようになっていた。青い壁の建物はそれぞれの窓に飾り程度のバルコニーが付いていて元はペンションのようだった。しかし、全体はくすんでいて、営業はとうに止めていることがわかった。
舞依の「どうぞー」という声に菜々未が振り返ると、もう皆は建物に入ろうとしているところだった。あわてて最後に並び、ドアを手で押さえて皆が靴を脱ぐのを待った。玄関の中では舞依に続いて鳴沢が靴を脱いだところで、舞依に「なんであんたまで来るのよ。次の迎えがあるでしょ」と言われていた。鳴沢は「便所くらい行かせろ」と言って、玄関から続く廊下の途中にあるトイレに入っていった。全員が靴を脱いで、廊下の奥にあるドアを抜けて行った。菜々未は、三和土に乱雑に脱ぎ捨てられたいくつもの靴を丁寧に並べてから上がり框に腰掛けた。サンダルの足元を見ると、かかとと小指のところが靴ですりむけて血が出ていた。白いサンダルに染みが出来てしまう。ストラップを外そうとしたが、バックルの下に隠れているボタンが固くて外れなかった。昨日お店で買ったときからボタンはとても固かった。試しに履いた後にボタンが外れなくて、店員さんに外してもらった。家に帰って、鏡の前で試し履きしたときも、やはり自分では外せず姉に外してもらったのだ。こんな所でぐずぐずしていると、鳴沢と鉢合わせしてしまう。一生懸命力を入れてみるのだが、ボタンは外れず、代わりにストラップが靴から外れそうだった。焦っていると、背後で「どうかしたのか」と低い声が聞こえた。
思わず飛び上がって振り返ると、鳴沢は横に立って菜々未を見下ろしていた。
その威圧感に菜々未はうつむきながら「ボタンが……」とまで言ったが、その先が出てこなかった。そしてとにかく早くボタンを外さなくてはと思い、むやみにストラップを引っ張った。
「貸してみろ」
鳴沢は三和土に降りて腰をかがめた。菜々未はさっと両手を引っ込めて、顎の下に強く当てた。鳴沢の額が菜々未の目前にまで近づき、左眉とまぶた、そして頬に残る傷がよく見えた。菜々未の足に伸ばした左手の甲と小指にも傷があった。菜々未がじっと見ていることに気が付いたのか、鳴沢はその手を一瞬止めて、「失礼」と言ってから指先をストラップの下にくぐらせた。
(『失礼』?)
菜々未は自分の耳を疑った。鳴沢がそんな紳士然とした言葉使いをするとは想像もしなかった。そして鳴沢の指先が、ごつくて大きな手からは思いも寄らないほど繊細に菜々未の足に触れるのを感じた。
鳴沢は苦もなく菜々未の両足のストラップのボタンを外した。そして、靴擦れを見つけて「痛そうだな」と言った。菜々未が返事をする前に、鳴沢は立ち上がり、トイレに入るとトイレットペーパーを水に浸したものを持って戻ってきた。菜々未にそれを渡すと「奥に救急箱がある。舞依に言って絆創膏貰っとけ」と言った。そして、菜々未の横に座って、自分のスニーカーを履き始めた。菜々未の恐怖感は薄らいでいた。
菜々未が自分の足とサンダルの血を拭き取るのを横目で見ながら、鳴沢は誰に言うのでもなしに「女は大変だな」と言った。「履きなれた靴で来りゃいいのに」
子供扱いされたような気持ちになって、菜々未は「だって、合コンなんて初めてだし。可愛くしたいじゃないですか」と膨れ面になった。その途端、鳴沢の手が止まった。菜々未が鳴沢を見ると、鳴沢は怖い顔をして菜々未を見つめていた。菜々未は思わず後ろずさった。
「合コンって……。舞依がそう言ったのか?」
脅すような声で鳴沢は言った。
「は……はい」
菜々未は睨むような視線から逃れるため、目を伏せて答えた。
そのとき、「あれー? 菜々ちゃん? どこぉ?」と言いながら、舞依が奥の部屋から顔を出した。鳴沢は立ち上がって、舞依を振り返ると「お前、合コンってなあ」と怒った様子で言った。
舞依は一瞬はっとした様子だったが、「何よ。合コンでしょ。出会いの場なんだから。変なこと吹き込んでないでしょうね」と小走りに菜々未に近づいて、菜々未の両肩に手を置いて身をかがめた。
「コウタんとこで勝手しないでよね。伸司のメンツだって潰れるんだから。覚えといてよ」
鳴沢は憎々しげに舞依を見下ろした。
「早く行きなさいよ。迎えに遅れるでしょ」
舞依は厄介払いをするように言った。
鳴沢はそれを無視して、菜々未に向かって指をさして言い付けた。
「いいか。出されたもんは何も食うな。何も飲むな。特に苦いもんには気を付けろ。カンパリとかグレープフルーツとか。自分で開けた缶ジュースだけ飲んどけ」
菜々未は何を言われたのか分からなかった。代わりに舞依が立ち上がって鳴沢の左肩を押しながら、金切り声で「そんなことするわけないでしょ! さっさと行け!」と怒鳴った。凍りついたように菜々未はその光景を見つめていた。
鳴沢は菜々未にまだ何か言いたそうにしていたが、ポケットに手を突っ込んで車のキーをがちゃりと掴むと踵を返してドアを出て行った。
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