第17話 ラストターン

『いいか、言悟。お前にこの語彙を教えといてやる。相手の語彙の強さを受け止めてそのまま跳ね返す……そんな一枚だ』

『すっげぇ。父ちゃんは、大会でこの語彙使ってんの?』

『いいや、大会ではまだない。いつか使ってやろうとは思ってるけどな。いつの日か……本当にこの俺のライバルだと思える奴が現れたら』



 在りし日の父の姿を脳裏に思い返し、言悟は最後のカードを切った。父がついに公式戦で一度も使うことのなかった語彙カード――

 この決勝戦、白馬との一騎打ちを睨んで入れておいた、その一枚を。



『叩き付けてやるのさ。俺が認めたソイツに、この語彙を』



「オレの最後の一枚――それは『ライバル』! 『神の裁き』は下界に対して下されるもの。同格の神には通用しない!」


 対面に立つ白馬とバチリと目が合う。一瞬の視線の交錯が、永遠の時間に引き伸ばされたような気がした。


「おおっ、黒崎選手の最後の一枚は『ライバル』! 優勝を懸けた黒崎選手のラストターン、白馬選手の逆詠唱はっ!?」


 言悟の一手に観客がざわめき、会場じゅうの視線が二人に注がれる。実況者も観客も、誰もが信じ、期待しているのだ。言悟の最後の一枚を白馬が黙って通すはずがないことを。二人の間に熱い詠唱戦が繰り広げられることを――


唯一神ゆいいつしんにライバルなどいないよ」

「いや、いる!」


 白馬の余裕の笑みに負けないように、言悟は声を張った。言悟が組み立てた詠唱の筋道は、他ならぬ白馬自身の発言から手がかりを得たものだ。


「あんたはそのカードを出す前、キリストの復活がどうのと言っていた。直後に出てきた『神の裁き』の語彙から、あんたが、そして皆が思い描いたのは、間違いなくキリスト教の神!」


 キリスト教の神は万物を支配する唯一神。白馬の言う通り、聖書の世界にはそのライバルたりうる存在などいない。

 だが、唯一の神を信じる宗教はキリスト教だけではない。そう、神は一人ではない――


「別の宗教の神……アラーみたいな同格の神には、『神の裁き』は及ばないはずだ!」


 力を込めて言悟が言い放つと、客席からおおっと歓声が上がった。

 だが、まだだ。まだ白馬は余裕の表情を崩していない。


「……惜しかったね、言悟君」


 ふっと口元をほころばせ、彼は告げてきた。


「詠唱の筋道は悪くなかった。だけど、そこでアラーと言ってしまったのが余計だったね」

「何だって?」


 既に勝敗が決したかのような彼の一言に、ぞくり、と言悟の背に冷たいものが走る。


「ユダヤ教、キリスト教の神と、イスラム教の神は同一人物だよ。宗教の違いは、人間が神と結んだ契約の違いに過ぎない。彼らは同じ神を信じながら別の道を生きているんだ……同じ初代語彙大富豪の教えを受けたボクとキミが、決して同じではないようにね」

「っ……!」

「前提知識を誤ったキミの詠唱は無効。キミの語彙『ライバル』は――通らない!」


 心臓を鷲掴みにされるような衝撃とともに、言悟は言葉を失った。思わず振り仰いだ審査員席では、審査員達が白馬の言葉に頷いている。

 全身から血の気が引いていくような気がした。前提知識を誤った詠唱は無効――白馬によるその明快な説明が、羞恥の洪水と化して言悟の心を襲っていた。


「審査員の判定は――」


 実況の声が鼓膜を揺らした。ダメだ――


「――異議チェックが五票! 黒崎選手の切札『ライバル』、最終局面で痛恨のバウンスです! 初代語彙大富豪の忘れ形見、黒崎言悟選手、あと一歩のところで白馬選手に敗れました! 場には引き続き『神の裁き』!」


 溢れかえる歓声が鋭く言悟の全身に突き刺さる。白馬の勝利を称えるその観客達の声が、全方位から矢衾やぶすまのように。

 あと一歩のところまで白馬に迫ったのに。語彙カードは決して弱くなかったのに。最後は自分自身の力不足のために、詠唱で完敗を喫してしまった――


「そして今、柳瀬選手からパスの意思表示が出ました! この瞬間、語彙大富豪の王子プリンス・白馬選手、東京都大会優勝決定ーッ!」


 最後の一枚「綺麗な金持ち」を卓上に出し、きらりと白い歯を見せて白馬は笑った。勝利を誇る彼の姿が大画面に大映しになり、鳴り止まないスタンディングオベーションの波がスタジアムを覆っていく。

 言悟は残された「ライバル」のカードを握って立ち尽くし、呆然と彼の笑顔を見上げていた。

 信じられない。本当に勝ってしまった。ただ一人カードを二枚残したあの絶望的状況から、二度の三タテを決めて……!


「阿仁川さん、今の一戦振り返られていかがですか」

「いやあ、ただただ白馬の強さが光る決勝戦でしたねえ。途中、あわや一人負けという状況にまで追い込まれながら、この逆転劇ですよ。デッキ構築、詠唱戦術、芸術点、何もかもが素晴らしかった。全国大会でも是非その強さを見せつけてほしいですね」


 ひとしきり白馬を称える言葉を並べたあと、解説者はふいに言悟にも目を向けてきた。


「敗れた黒崎少年も、父譲りの詠唱力が冴える場面が多くて大変良かった。知識と経験はこれからの課題でしょうが、白馬の良きライバルとして語彙大富豪界を盛り上げていけるよう、今後も頑張ってほしいものです」


「……!」


 解説という体裁でありながら、彼の言葉は明らかに直接言悟に向けられていた。詠唱を誤った恥ずかしさや、白馬に敗れた悔しさに代わって、胸の奥にじいんと熱い何かが広がっていく。


「ボクも解説の方に同意見だよ、言悟君」


 白馬が柔らかな笑顔で言悟を見てきた。


「『ライバル』という言葉は……いいものだ」


 言悟はしっかりと目を上げ、彼の顔を見て頷いた。次こそは勝つぞという決意を込めて。

 その健闘を称えてくれる四方八方からの拍手の渦が、五感一杯に広がっていった。




 試合ステージを降りたところで、白馬がそっと言悟に耳打ちしてきた。


「ボクは表彰式に出なきゃならない。を頼むよ」

「え?」


 瞬間、ぐいっと白い手が言悟の腕を引いてくる。コトハだった。彼女につられて視線を振れば、いち早くステージを降りた神田川が人目を盗み、そそくさと通用口から出ていこうとしているところだった。


「あいつ……!」


 あのオタク野郎をこのまま行かせるわけにはいかない。何としても捕まえて、八百長疑惑の件を問い詰めてやらなければならない。

 白馬への別れの言葉も早々に、言悟はコトハに手を引かれるがまま神田川の背中を追った。通用口を抜けた先は広い階段だった。僅かに聞こえる足音を追い、言悟は逆にコトハの腕を引いて階段を駆け下りる。


「ちょっと、アンタ、早いわよ! ちょっとはレディをいたわる気持ちってものを――」

「あいにく、レディが見当たらねーからな!」


 一階はコンクリート打ちっぱなしの廊下になっていた。いかにも関係者以外立入禁止といった風情だ。息を切らしたコトハが言悟の手を放し、手近な扉へと駆け寄る。間取りの雰囲気的に、扉の向こうは野外のようだった。


「! 気配がするわ」


 彼女に手招きされ、言悟はその隣に並んで扉に耳を寄せた。……間違いない、あのオタク野郎の声が聞こえる!


「や、約束が違うじゃないか! お、お前達に協力すれば、ミレイちゃんに会わせてくれると――」

「だが、貴方達はしくじった。我々の筋書きに反し、白馬を優勝させてしまった」


 神田川は別の男と会話しているらしかった。言悟の知らない声だった。

 その声を聞いた瞬間、目の前のコトハはさあっと表情を凍りつかせていた。


「試合を見てたならわかるだろう!? 想定外のケースだったんだ! そ、それに、協力さえすれば結果は問わないと、最初に約束したはず――」

「おやおや、愉快な方だ。まさか本気で信じていたのですか。我々が約束を守るなどと」


 コトハの手がかたかたと震えている。言悟が思わず自分の手を重ねようとしたとき、彼女はぐっと自ら拳を作り、ふるふると首を振ってきた。

 屋上での彼女の話が否が応でも言悟の脳裏に蘇る。コトハら姉妹の前に現れ、彼女の姉に八百長を強要してきた存在――


(闇の……語彙大富豪……!)


 言悟がその言葉を胸中に噛み締めたとき、扉の向こうから神田川の裏返った声が聞こえた。


「こ、告発してやるぞ! ネットの力を甘く見るなよ! お前ら如き、10万人のフォロワーがいる拙者がツイートで告発すれば――うぐっ!」


 それは明らかに悲鳴だった。

 もう隠れてなどいられない。言悟は重たい扉を蹴り、コトハの手を引いて外に出た。

 だが、時既に遅く――


「!」


 言悟達の眼前で、ぐったりと力を失った神田川を後部座席に乗せ、黒塗りの高級車がその場から走り去るところだった。


「クソッ……!」


 あっという間に見えなくなる車を前に、言悟は拳を震わせる。


「言悟……あいつらが」

「わかってる。オレの父さんも……きっと奴らが……!」


 雪の降り積もるクリスマスの夜、幼い自分の目の前で命を落とした父。その下手人げしゅにんと思しき奴らが、今の今までここに居たのに――


「逃げられた……何の手がかりも掴めず……クソッ!」


 焦燥のままに言悟が吐き捨てたとき、扉の向こうから誰かの駆けてくる足音がした。扉が開いて姿を現したのは、僅かに息を切らせた白馬だった。


「神田川さんは!?」

「連れて行かれたよ……車で」

「……遅かったか……」


 首から無造作に金メダルを掛けたまま、白馬は端正なその口元を悔しそうに歪ませていた。


「……大丈夫かい、コトハちゃん」


 肩を震わせているコトハに彼が歩み寄ったところで、コトハは「触んないでよ」と腕を振って彼を押し返す。

 白馬が素直に身を引いたところで、彼女は目を上げて言った。


「間違いないわ。あの神田川ってヤツ、アンタを負かせようとして八百長してたのよ。あたし達がハッキリこの耳で聴いたわ」

「……まあ、そうだろうね。柳瀬さんもいつの間にか会場から姿を消していた」


 ふう、と息を整え、白馬は言悟とコトハを交互に見て尋ねてくる。


「キミ達は何か知っていそうだね。八百長を仕組んだ何者かについて」

「ああ、奴らは――」

「たとえ知ってても、アンタには教えないわよ。これは、あたし達の問題なの」


 言悟が言おうとした言葉をコトハは遮ってきた。その水晶の瞳が鋭く白馬を見上げているのを見て、言悟も、ひとまず今は言わないでおこうと思いとどまった。

 白馬は余裕の調子で「そうかい」と笑い、思い出したように言悟に再び顔を向けてきた。


「言悟君。さっきの戦いだけど、あれはボクの勝ちじゃない」

「何だって?」

「キミは八百長通りに勝たされることを嫌って、ボクの『RX』を前にパスをした。キミがあの時『ライバル』を出していれば、詠唱次第ではキミが勝っていたかもしれないじゃないか」


 白馬の言葉に間違いはなかった。言悟はあの時、RXに対して「ライバルシャドームーン」なら勝てるかもしれないと思いながら、それでもパスを選択したのだ。八百長を仕組んだ何者かの思い通りになることが我慢ならなくて。何より、そんな勝利は父にも誰にも誇れないと思って。


「……仮にそれで勝ったとしても、そんなのはオレの実力じゃねーよ」

「どうかな」


 白馬はふっと笑い、言悟の前に手を差し出してきた。


「ボクの中では引き分けということにしておくよ。決着はまた次の舞台で付けよう」

「……今度は負けねーからな」


 彼我ひがの間にばちりと火花が散るのを感じながら、言悟は彼の手を握り返した。イケメン野郎の手は、悔しいことに、幼き日に握った父の手と同じように暖かかった。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



 言悟の自宅に意外な人物から電話が掛かってきたのは、その日の夜のことだった。母は夜勤に出ており、家には言悟一人だった。


『く、黒崎君か……? 私だ、柳瀬だよ』

「オッサン……?」


 受話器の向こうから聞こえてくるのは、八百長の片割れだった柳瀬の、ひどく慌てたような声だった。


『大会の事務局から、君の家の番号を聞いたんだ。私の身に危険が迫る前に……このことだけは伝えておかなければと思って』

「危険? 伝える? あんた、何言って」

『君も気付いているだろうが……私と神田川君は、あの決勝戦、君を勝たせる八百長に加担させられていた。す、すまない。奴らの言う通りにしなければ、子供達を狙うと脅されて――がはっ!』

「!? お、おい、オッサン!?」

『ぐ……』


 どさりと身体の崩れ落ちる音がした。


「オッサン! どうしたんだよ、オッサン!」


 柳瀬も奴らに――。魔物の舌に撫ぜられるような悪寒を背筋に感じたとき、


『――黒崎言悟君、ですね?』

「っ……!」


 聞き慣れない――いや、あの時神田川と話していたのと同じ男の声が、電話を通じて言悟の意識に分け入ってきた。


『ご安心ください、貴方の命を狙うようなことはありませんよ。初代語彙大富豪・黒崎先生のご子息である貴方には、まだまだ表舞台で活躍して頂かなければならないのでね』

「お前ら……お前らが、父さんを……!」


 縮み上がる声帯からやっとのことで声を絞り出すと、電話の向こうの男はさらに言葉を重ねてきた。


『しかし、今日貴方が見聞きしたことを口外しようものなら……その時は、貴方の家ごと焼き払うことになります。お父上の命を奪ったのと同じ、神の炎でね』

「……!」

『貴方には将来がある。命を大事にすることです、黒崎言悟君』


 それきり電話は切れた。受話器からのツーツー音が聞こえなくなったとき、言悟は初めて、自分が受話器を取り落とし、床に膝を付いていたことに気付いた。

 ポケットに入れたままだったカードの束が、拍子にばらけて床に散っていた。


「……許せねえ……」


 恐怖でも絶望でもない――何より強い怒りの炎が、胸の奥から全身をなめ尽くす勢いで沸き上がっている。

 会場で柳瀬を応援していた子供達の顔を思い返すと、奴らへの怒りが止まらなかった。

 父の命を奪い、コトハの姉を昏睡に陥れ、今なお多くの人達を苦しめ続けている諸悪の根源。闇の語彙大富豪を名乗る謎の集団――


「絶対……絶対追い詰めてやる……!」


 父に託された「勇気」の語彙を床から拾い上げ、言悟はさらなる戦いを胸に誓った。


(東京都大会編 完)

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