第34話 記憶の中に

 あれからウリちゃんと別れたあと、一時間以上かけて神奈川の郊外まで足を運んだ。向かった先は小さな地域密着型のスーパー。モリモリフーズやデリシャスとは違い、個人商店に毛が生えたようなチェーン店。ここまで来たお目当てのモノが定番の端っこに陳列されていた。


 白地のカップに大きく紀州の梅とキャッチが踊る。


 これが、梅ラーメンか。メーカーに販売している店舗を問い合わせた甲斐があった。思わず抱きしめたくなってしまう。食べるのを我慢できずに、コンビニで適当なカップ麺を購入して、お湯だけ借りて、その場で梅ラーメンを試食。


 旨い。徳梅さんの言う通り、大きな梅が丸ごと入り、具材も抜かりない。だが、売価は498円と高い。これじゃ、どこも扱わないわけだ。ニッチだし、とてもエンドに並ぶ価格帯ではない。味が旨いだけでは通用しないのが売り出しだ。


 返す刀で多摩地区に戻り、ビジネス本を目掛けて大型書店に直行する。マーケティング関連でヒントを得られればと目論んだが、本の目利きが難しく、何時間もウロウロして家路に着いたのは十一時を過ぎていた。


 案の定、何で連絡しないのと、ひどく母親から心配された。夢中になり過ぎて、帰宅が遅くなる時は一報を入れる暗黙のルールを破ってしまった。ごめんごめんと謝り、自室の布団に寝転がる。



――自分の好きな気持ちを、棚森先輩が好きなやり方で。



 さっきからウリちゃんのアドバイスが頭の中をいったりきたり。浮かんでは消え、また浮上しては消えて。


 目を閉じると、瞼の裏に徳梅さんの笑顔が映る。


 彼女はこのバザールに秘めた想いがある。今、直面しているピンチを俺の手で助けてあげたい。本当は自分の中にぼんやりとした正解が見つかっているが、それを上手く実現させるアイデアもない。一体、どうすれば……。


 逡巡する俺のもとへ、ぶぶぶと布団の脇に置いたスマホが揺れる。誰だろうと確認すると、ウリちゃんからだった。


『夜ごはんは麻婆豆腐です!』というメッセージと共に、お皿を両手で持ち上げて、嬉しそうな笑顔もご丁寧に送られてきた。


 そういえば、ウリちゃんはインスタに食べ物の画像をせっせこ投稿していたよな。こんな写メが送られてくるってことは、名実ともに仲良くなったということか。彼女の活動を応援する意味でフォローもしてあげた。



 投稿か――。



 そう言えば、あの人も頑張って活動してたよな――。



◇◆◇◆



「お前も暇だったら描いてみたら」



 記憶の中にいる兄貴は諭すようにそう言った。



 俺は昔から冷めていた。何か、人が熱中しているものや、一生懸命になっているものに対して、どこか批判的に、冷ややかな目を向けるような子供だった。元々人見知りが激しかった俺は小学校、中学校とクラスに馴染めなかった。幸いクラスから苛めの標的にされるようなことは無かったが、友達もいなく、自室に籠ってゲームやマンガばかり見ている典型的な日陰者であった。


 だが、それでも良かった。なぜなら、俺はお前らとは違う。自分は特別で、その気になれば思った以上の力を発揮出来る人間なんだと、根拠の無い自信を持っていたからだ。


 要するに、弱かっただけ。人と上手く接することが出来ない負い目を直視せず、心の中で人を見下し、無意味な優越感に浸ることで自分を守っていたに過ぎない。自分でも、これではマズイと焦り、高校入学と同時に新しい自分に生まれ変わろうとした。しかし、培われたコミュ力も、誇れる趣味や特技も無い俺は、当然の如く高校デビューに失敗。


 別にいいや。楽しそうに輪になっている奴らと俺は違うんだ。適当に話だけ合わせて、再び元の薄暗い殻の中に安息の地を求めてしまった。その結果、行き着いたのは「お前らなんか」ではなく、「俺なんて」という自己否定に繋がる当然の帰結であった。



 そんな俺を見かねたのが、六歳離れた俺の兄貴だ。



 兄貴は昔から絵が好きだった。素人の俺から見ても上手いと言える腕の持ち主で、子供の頃はよく自作のマンガを読ませてくれた。ストーリーは大したことないね、そんな生意気な態度をとった憎たらしい弟は、この俺だ。


 兄貴は本格的に絵を学ぼうと美大を受験したのだが、この世界は狭き門であり進学は叶わなかった。普通の四大の経済学部に進学したのだが、どうしても夢を諦めきれず、中退して専門学校に入り直した。安定を求める両親と大喧嘩したのだが、卒業後はちゃんとサラリーマンになると約束をして渋々了承を得た。


 晴れて専門学校に入学した兄貴は精力的に活動を開始した。新人賞に応募したり、仲間内でコミケに出店したり、手広く活動していたらしい。


「俺は一位を目指してるんだ」と、事あるごとに楽しそうに語ったのは、イラストの投稿サイトだ。視界に映る兄貴は、常にカタカタとキーを叩いて投稿サイトと睨めっこ状態。何万と投稿される中に埋もれては新作を投稿し、一旦浮上してはまた埋もれる。ここで成功したら仕事が舞い込む。そんな目標に向かう日々が続いたが、才能という世界は残酷だ。精力的に取り組んだ兄貴の活動は大きな成果に繋がることはなく、卒業を迎えて、両親と約束した通り就職をすることになった。


 だが、社会はそれほど甘くなかった。


 言わずもがなであるが、デザイン事務所などは進学以上に狭き門であり、美大の上位出身者で閉じられ、大手や名の知れた会社も同様に、学歴の壁が立ち塞がる。

 エントリーシートの段階で弾かれて、面接すら辿り着けない。世間的な安定を求められるがままに何十社も受けたが、なんとか兄貴が入社出来たのは、飛び込みのマンション販売会社というブラック企業であった――。



◆◇◆◇



 俺は何かに突き動かされたように引き出しの奥から、染みのついたキャンパスノート『①』と『②』を取り出した。胸の高鳴りに合わせて、ノート①を開く。そこには、鉛筆で描かれた緻密な絵があった。模写された絵は様々。ページをめくるたびに、リンゴやミカンといった果物からはじまり、車の外観、女性の横顔、はてはゲーム機みたいな、よくわからないものも描かれていた。


 上手いよな、これ。このノートは兄貴が子供の頃に夢中になって描き連ねた練習帳だ。これがプロで通用するのかと問われればよく分からないが、まるで実写のような精巧さの中にもどこか温かみがある。まさかこの短期間のうちに、このノートを再び開くなんて。


 俺はノート①を机の上に置いて、次にノート②を手に取る。ノート②はあの日から一度も開いていない。そのため、ノート②は経年劣化がすすんでおり、古ぼけた印象をうけた。このノートを開ける時、なぜか緊張して手の平に汗をかいてしまった。手の平の汗をズボンでこすり、一呼吸置いて開いた。


 そこには、先ほどのノート①に比べて、お世辞にもうまいとはいえない色鉛筆の絵があった。描いているものも、始めはリンゴとミカンの模写であったが、ページをすすめるごとに、模写というよりアニメ調のイラストになっていった。それが、ページを埋め尽くすように描かれている。


 俺はなぜか笑ってしまった。懐かしさと、カッコ悪さと、恥ずかしさと、自分の内にある馬鹿みたいな感情に。


 兄貴から勧められたその日から、俺も見よう見まねで描いていた。今となっては、智良志が好きなラメンちゃんを求められるままに描くだけだが。今でも、この胸には。



 でも。



 俺はあの時――何であんなことを言ってしまったんだろう。



 胸を撃つ自責の念に駆られていると、布団に置きっぱなしのスマホが鳴った。


『今日、ウリちゃんから二人が仲良くパンケーキ食べてる写メがきたよ 笑』


 どうやら、ウリちゃんはSNSにアップしない代わりに、何の悪気もなく徳梅さんに画像を送っていたらしい。



『なんか二人は似合いそうね』



 さらっとした文字が飛んでくる。

 ……。これってどういう意味なんだ。彼女には俺の好意が伝わってないのか。それとも全てを理解した上で、敢えてのメッセージなのか。言うなれば体よくお断りしたい、とか。でも、また一緒にお勉強行こうねって言われたし。こんな些細なことに一喜一憂してしまう小物な自分が情けない。


『お似合いって、どういう意味ですか?』


 すぐに既読になるが、返信は一、二分遅れてきた。


『深い意味はないよ』


 シンプルな返答。貴女からしたらそうなんだろうけど。その深い意味じゃないっていうのが、逆に深い意味であって。ああもうっと頭をがしがし掻く。


『ウリちゃんとは友達なだけですから』


『?』とだけ返信がくる。


 もう、心の赴くままに文字を打ち込んでしまった。もういいや、言ってしまえ。なぜだが分からないが、あのノートを見てから不思議な熱が全身を包んでいた。



『俺は徳梅さんと、もっと仲良くなりたいんです』



 さっきまで、ぽんぽんとやりとりされたメッセージが急に止まった。

 そのまま十分経過。やばい。勢いで送ったけど、『ごめん』とか『彼氏いるから』なんて返されたら、それこそバイトに行き辛くなるだろ。せめて彼氏の有無だけは確認しとくんだった。押すしか知らない引き出しの無さが恨めしい。

 そこへ、ぶぶぶと返信。見たいような見たくないような。えーい、もう見てしまえ。俺は意を決して確認する。



『ごめん』



 この三文字。嗚呼、やっぱり。俺の無謀な恋はいま終わりを告げた。正真正銘、ジ・エンドだ。明日からどう接すればいいんだよ。そのまま音もたてずに闇に包まれていくかと思われた俺のもとに、遠くの世界から光(返信)が差し込む。



『さっきまで笑ってたから返信遅れました 笑』



 んん? どういうこと? 


『そういうのって、ラインなんかじゃだめだよ』

『す、すみません』

『そういうのは面と向かって言わなくちゃ。わかった?』

 どういうこと? とりあえず俺に打てることは、

『はい!』

『!マークって笑 よろしい。じゃあ、明日も商品補充よろしくね』


 って――俺と徳梅さんのお決まりのやりとりじゃねーか。これ、ラインでもやるの? 悶々とする俺にダメ押しメッセージも入る。



『女子とやりとりするのほんと下手だね 笑』







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