8th Single:手と手を繋いで

Track 01. 約束

「もう。お見送りくらい付き合えばいいのに」


 母親の甘ったるい声が鼓膜を震わせたとき、和希かずきはちょうど新曲の一番ファースト・バースの歌詞をルーズリーフに書き留め終えたところだった。速乾性のインクが乾くのを半秒ほど見届け、ちらりと目線を上げると、上機嫌な母の顔はもうすぐ前まで迫っていた。

 和希がルーズリーフを仕舞い込もうとするより先に、母の白い手がすっとそれをローテーブルの上から取り上げる。


「ふぅん? 『先駆者パイオニア』ベースなんだ」

「見るなって」


 ソファから立ち上がり、母の手から紙を奪い返すと、母はふふっと機嫌良さそうに笑った。


「『私だけの歌を――世界に響かせて――』」


 和希が書いたサビの最後の部分を、呟くような小声で往年のアイドルが口ずさむ。


「ここのところ、康元先生だったら『私たちの歌』にすると思うな」

「うるっせーな。二番でそうするんだよ」

「ふぅーん」


 ソファの上のスクールバッグにルーズリーフを突っ込み、和希は母の目を見返す。

 せめて二番の歌詞をその一節だけでも書き留めておけばよかった。その数秒の作業を怠ったばかりに、本当に考えていたアイデアがまるで後付けの言い訳のようになってしまった。


「今のユイちゃん達には、ぴったりの歌詞かもね」

「……ああ」


 母に見透かされているのはシャクだが、我ながら悪くない歌詞だとは思う。

 試練三日目となる今日、火群ほむら結依ゆいは遂に、和希の母――羽生はにゅうマユからの課題に答えを出してみせた。結依アイツの中でも、今度こそ確かに「私だけの道」が「私たちの道」に変わったことだろう。


「……母さん。ありがとう」


 母の口元あたりに視線を落としながら言うと、その赤い唇がふっとほころんだ。


「いいよー。カズ君がどれだけツンツンしてきても、わたしはあなたのママなんだから」


 頭を撫でようと伸ばされる手をかわし、一歩退くと自然な溜息が漏れた。

 まったく、この人と向き合うとどうしても拍子が狂う。微弱な静電気が機械に誤作動を生じさせるかのように、母の母らしい振る舞いは、桐山和希らしくありたい自分の感情や表情筋を容易く乱してくるのだ。

 ――それでも、この伝説のアイドルには感謝しなければならない。十六年前に自分を産んだのが彼女であったおかげで、自分はようやく結依の力になることが出来そうなのだから。


 そういえば、結依の母親はどんな人なのだろう――と和希が思ったところで、羽生マユはうーんと伸びをし、「それでそれで」と弾んだ声で聞いてきた。


「カズ君の今夜のお休みはどっちかな?」

「……自分とこに帰るって。歌詞も仕上げたいし、原稿も遅れてるから」


 母が親子の時間を持ちたがっていることを知った上で、それでも和希はその眼差しを突っぱねるように言った。実際、ここのところ結依達の件にかかりきりで、本業の締切に追われてしまっているのは事実だった。


「そっかー、ざんねん。十年ぶりにママが身体洗ってあげようと思ったのに」

「冗談キツイぜ、オバサン」


 和希がソファからスクールバッグを取り上げると、母もそれ以上は追及してこようとはしなかった。一瞬だけ分かりやすく唇を尖らせてみせてから、「気をつけてね」とだけ言って手を振ってくる。……結局、そういうところがこの母の優しさなのだろうとは、認めたくなくても和希にはしっかりわかっていた。


 時刻はとうに夜九時を回っていた。歌詞は電車の中で書いてしまえばいいとして、一人の部屋に帰り着くのは十時過ぎ。一応、学校の授業も進級できる程度には受けておかねばならないと考えると、今夜も原稿に掛けられる時間はそう多くない。

 そんな計算を脳内で巡らせながら、和希がシンクロ・プロダクションの裏の出口を出ると、ちょうどガレージにハイヤーが滑り込んでくるところだった。ドライバーにお礼を言いながら車から降りてきたのは、キャップとマスクで申し訳程度に顔を隠した東馬あずま有以ゆいだった。


「あっ、カズキ君。来てたんだ」


 こんばんは、と向こうがマスクを取って笑いかけてくるので、和希も軽く頭を動かしてそれに応じる。


「マユさん、今いるかな?」

「ああ」

「よかった。新曲の表現に自信なくって、今夜中に直してほしかったんだー」


 キャップの下のポニーテールは既に汗を吸っているように見えた。いわゆる「村ドラマ」で今期の主演を張っている東馬有以は、今日も撮影終わりで疲れ切っているのに違いなかったが、その目はまるで今から楽しいデートにでも出掛けるかのようにキラキラしていた。


「こんな時間からまた自主練かよ。熱心なこって」

「アキバちゃんはもっとやってる。オトハさんもカスミちゃんもカグラちゃんも。これ以上置いてかれたくないもん」


 微笑を絶やさぬまま有以が紡いだのは、エイトミリオンの選抜の中核を占める若き女神達の名だった。ふっと自分の口元がつり上がるのを自覚しつつ、和希は彼女の目を見て言う。


「相変わらず上ばっか見てんだな。……アンタを脅かす奴は、案外、下から来るかもしれないぜ」

「んー、なになに? それってツムギちゃんや瞳ちゃんのこと? ――それとも」


 すい、と上体を乗り出すようにして、有以が上目遣いに和希を見上げてくる。


のこと?」


 和希が肯定するまでもなく、有以はにこりと楽しそうに笑った。


「ネットで見たよ。今日のあの子達、すっごく話題になってた。……思ったより早くスタートラインには立ってくれたかな?」

「……ああ。誰かさんが痛め付けてくれたおかげでな」


 三日前、この東馬有以に叩きのめされたことが、少なからず結依の成長の糧になっていることは間違いなかった。そして、結依自身がどう感じていようと、和希はそのことに関して有以を憎らしく思ってはいなかった。あれが羽生マユの仕組んだ一種の茶番であったことは、和希も薄々勘付いている。

 ファンとの握手会以上に踏み込まない距離を自然に保ったまま、東馬有以は、柔らかくも芯の通った不思議な声で和希に尋ねてきた。


「ねえねえ。カズキ君はどう思うの?」

「何がだよ」

「あの子、ほんとに見込みがあるのかどうか」


 白い照明を映して揺らめく水晶の瞳は、本当に火群結依の才能を測りかねているという色ではなかった。女子の口から発せられる質問が分析ではなく共感を求めていることも、そして女神アイドルという生き物の生態が実は生身の女子と何ら変わらないことも、和希はよく知っていた。


「アンタが一番わかってるんじゃねーの。あんな大人気おとなげないマネしてさ」


 一秒の余韻も置かず、眼前の女子が答える。


「そうだねー。上手に僅差で煽ってあげてってマユさんには言われたけど……あの子、そんな余裕与えてくれなかったもん」


 少しだけ伏し目がちになった彼女の瞳に、そこで初めてらく以外の感情の色が灯った。


「本気になったあの子……本当にミレイちゃんが目の前にいるみたいで、ちょっと怖かった。手加減してたらわたしの方が持ってかれちゃってたかも。……んー、流石にそれはないかな? でも、そのくらいの気迫はあったよ」


 雪平ゆきひら美鈴みれいの名を口にするときの有以の目は、三日前、結依の前でその故人の名誉を汚したときの彼女とは、まるで違う色に染まっていた。


「……ミレイさんは、アンタの一年先輩だったか」

「加入はね。学年は二個上だったけど」


 美鈴の落命は三年前。今年、東馬有以は初めて先輩の年齢を追い越したという計算になる。

 有以はくるりと和希の前できびすを返し、ふわり、ふわりと二歩ばかり歩いてから、小さく息を吐いて言葉を続けた。


「わたしのこと、みんなユイユイって言うでしょ。あれねー、最初に言い出したのはミレイちゃんなんだ。『ユイちゃん』って呼び方は、あの子だけに取っておきたいから……って」


 生前の美鈴と話したことなど数えるほどしかないのに、和希の脳裏にも、携帯ミラホに映した幼い結依とのツーショットを楽しそうに有以に見せびらかす美鈴の姿が浮かぶようだった。


「笑っちゃうよね。ユイなんて名前、グループに何十人もいるのに」


 背中を見せたまま言う有以の声は、少しだけ切ない何かに震えていた。

 その何かを指で拭って、有以が再び和希に顔を向ける。


「でも、これでやっとミレイちゃんとの約束を果たせる」

「約束?」

「目をかけてあげて、って言われてたんだ。いつかあの子が……ユイちゃんがエイトミリオンに入ってきたら。その時、自分が選抜に戻れてなかったら、ユイユイがかわりにあの子を引き上げてあげて……って。……それが、わたしとミレイちゃんの最後の会話だった」


 その言葉には、和希も流石にハッと目を見開かされた。有以が作り話をしているようには到底思えなかった。

 美鈴はどんな気持ちで有以にそんなことを言ったのだろう。まさか死の運命を悟っていたわけではないだろうが。

 美鈴と有以が本店の序列争いに揃って名を連ねていた頃、和希はちょうど母親の世界から距離を置こうと必死だったので、エイトミリオンの若きエリート達の間で繰り広げられる物語には目を向けていなかった。かろうじて彼が把握しているのは、雪平美鈴が十七位に陥落したあの年の総選挙で、東馬有以は初めての選抜入りを果たしたのだということ。


「アンタ、知ってるのか。ミレイさんがどうやって亡くなったか」


 和希が問うと、有以は寂しそうな目をして「ううん」と首を横に振った。


「でも……どんな亡くなり方だったとしても、わたしが殺したみたいなものだよ」

「アンタ一人で押し出したわけじゃねーだろ。それに、ミレイさんは選抜に戻るのを諦めてなかった。俺はそう聞いてる」

「……そっか。うん、そうだったらいいな」


 翌年こそ七姉妹セブン・シスターズに――そしていつかはエイトミリオンのトップに立つと。死神に命を狩り取られるその瞬間まで、雪平美鈴はそう思っていたはずだ。

 だが、勝ちたいと思っただけで勝てるほど、総選挙は甘い世界ではない。自分を抜き去っていった後輩に望みを託さなければならなくなる可能性を、十七位で名前を呼ばれた美鈴はどこかで悟っていたのだろうか。


「……カズキ君。わたしとミレイちゃんのこと、ユイちゃんには内緒にしておいてね」


 哀愁を振り切るように、有以は真剣な目をして言ってきた。


「故人を冒涜した憎まれ役のままでいるってのか?」

「……それで、ユイちゃんが強くなれるなら」


 わかった、と言うかわりに、和希は軽く握った拳をそっと前に突き出した。有以はこつこつと彼に歩み寄り、すれ違いざま、笑って拳をぶつけ合わせてきた。


 有以と別れて敷地外に出ると、極限まで細くなった月が夜空に淡い光を放っていた。明日が新月だったか、と和希が思ったとき、ブレザーのポケットに突っ込んでいた携帯ミラホが短く震えた。


 ――プロットの進捗は?


 無機質な画面に踊っていたのは、担当編集の北村きたむらからのテキストメッセージだった。いつものように、若い女子が使うような変なスタンプが文末に押されている。


 ――明日の夜中には。


 こちらもいつものように、何の飾りも付けない一文を手短に返信する。……いつもならそれで既読が付いて終わりなのだが、和希が歩き出した直後、担当はもう一度ポケットの中の携帯ミラホを震わせてきた。

 何だろう、と思って再び見た画面には、今度はスタンプ無しの文字。


 ――Marbleの春日かすが瑠璃るり、ちょっとヤバイかもよ。


 春日ジュリナの娘、七光「暁のルリ」。結依達が全国大会に進むためには再戦が避けて通れない、ひがし東京エリア最大の強敵。

 二度ほど目をしばたかせた後、和希は、「何が」と返事を返さずには居られなかった。

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