Track 04. 全ての力

『子役アイドルのユイちゃんと秋葉原で握手してもらった! めっちゃキュートだった』

『写真可愛すぎ』

『昨日もやってたよ。多分今日で二日目』

『こないだのスクールアイドルの番組に出てた子じゃん』

『遠目にも衣装の手作り感がヤバイんですが』

『なんでこんなことしてんの? この子』

『かつてのスーパー子役様がキモオタ相手に握手会www』

『盛者必衰の理。売れっ子の末路がこれかよ』

『高校生はもうBBAババア

『ロリっこのユイたんは居なくなってしまったんや……』

『一昨日の番組ではすっきーの娘にボロ負けしてた』

『この子引退したんじゃなかったの?』

『一度は一般人に戻ろうとしたけど、やっぱり芸能界に未練があったんだろ』

『残念、十五歳ではもうチヤホヤしてもらえません』

『今でも十分可愛いと思うが』

『え、ていうかユイちゃんスクールアイドルやってんの? なんで今さら?』

『芸能界で通用しなくてアマチュアに落ちるのはままあること』

『私立双柱学園高校 普通科 1年B組 火群結依』

『聞いたことねえ学校w』

『春暁や千城じゃないってことは本当にもう芸能活動からは手を引いてんのかな』

『【悲報】灼熱のユイちゃん部活アイドルに都落ちwww』

『逸材と騒がれた子供が成長してみたら凡人だったなんてのはよくある話だよ』

『同じ学校の生徒のツイートによると、この子、聴覚障害らしい』

『ガセネタ乙w普通に歌ってたじゃねーかww』

『子役アイドルやってた頃は、てっきりそのままエイトミリオンに入ると思ってたんだけどなあ……』


「……」


 ネットの海に延々と溢れ続ける下世話な雑言に見切りをつけ、結依ゆい携帯ミラホのブラウザを閉じた。疲れ切った身体を電車リニアの座席に預け、スポーツバッグを抱えて息を吐くと、この二日間の挑戦の記録が苦い記憶と化して結依の心を締め付けてくる。

 今日もたったの八十人としか握手を交わすことができなかった。昨日の六十人よりは増えたとはいえ、マユに言われた三百人という目標には程遠い。ネットではこんなに多くの人が自分を知ってくれているのに、現実の人達はほとんど自分を相手にしてくれない……。

 汗を吸った衣装を詰め込んだバッグが、実際の質量よりもずっと重たく身体にのしかかる。

 乗客達の人いきれの中、結依は身を縮めて俯き、惨めさに溢れそうになる涙を必死に抑えていた。きっとここで泣き出しても、周りの乗客の誰一人として自分を気にかけはしないのだろうなと思いながら。


 ――リノちゃんもわたしも、一日五千人はさばいてたからね――


 知識としては知っていたその事実を。彼女達と自分の生きる世界の違いを、ここにきて強く思い知らされる。

 神と呼ばれて一時代を築いた彼女達だけではない。生前の美鈴みれいも、現役選抜の東馬あずま有以ゆいも、そしてリノに翼を与えられた指宿いぶすきひとみも。何千何万という人々と毎日のように握手を交わし、視線を、言葉を、心を通じ合わせてきたのだ。

 自分だけがその世界を知らない。自分だけが……。


 電車を降り、シンクロ・プロダクションの入口をくぐる結依の足取りは重たかった。マユの教えを楽しみにこの門を叩いた昨日のことが、遠い昔のように感じられた。


「お帰りなさい、ユイちゃん。今日はどうだった?」


 あくまで柔らかな笑みを絶やさないマユの姿は、菩薩の如き笑顔とは逆に、閻魔の厳しさで自分を断罪しているようで――


「八十人……です。ごめんなさい」


 謝る必要はないと言われていたのに、それでも頭が下がってしまった。


「うーん、今日もダメダメだね。どうしちゃったの? 握手券三百枚分なんて楽勝のはずでしょ。わたしの計算、間違ってないと思うんだけどなー」


 口元に指を添え、わざとらしく首を傾げてくるマユに、結依は言葉一つ返すことができなかった。

 三時間で三百人なんて間に合うはずがない、なんてとても言えない。仮に東馬有以や指宿瞳が同じことをすれば、三百人どころかその何倍だって余裕だろうとわかっているから。


「マユさん……。わたし、どうしたら……」


 汗の滲む手でスカートの裾を握り、やっとのことで声を絞り出すと、マユが「どうしたら?」とその言葉をオウム返ししてきた。


「そんなのわたしに聞かなくても、ユイちゃんはもう、この試練をクリアできるだけの武器を持ってるはずだよ。本当にわからない?」

「……わたし」


 真空に放り出されたような緊張の中、何か答えなければと結依は藻掻もがいたが、思考は暗闇の渦に押し潰されるばかりで一向に纏まらなかった。

 武器なんて、自分にはもう、何も……。


「なーんか、ユイちゃんの気持ちがわかんなくなってきちゃったな。日本一のスクールアイドルになりなさいって言ったよね。そうなりたいって気持ちはあるの?」

「あ、あります!」


 その詰問には、無条件に喉が反応した。


「わたし、全国大会アイドライズで優勝して、ドラフトに呼んでもらわないと――」

「じゃあ、ユイちゃん」


 口をついて出る言葉を遮って、マユが結依の目を覗き込んでくる。


「日本一のスクールアイドルになるって、どういうこと?」

「えっ――」

「ちゃんと考えたことある? 日本一のスクールアイドルって何なのか。どうやってそれになるのか」


 マユの黒いまなこに、心身を金縛りにされた自分の姿が映っていた。この質問に答えを出せなければ全ては終わりだと、その目が告げているような気がした。


「……日本一の、スクールアイドルになるには……」


 片時も忘れられない敗戦の記憶を悔しさと共に反芻し、結依は暗黒に飲まれた意識の中で必死に思考を導こうとする。

 美鈴と音を失ってからの三年間、一人きりで磨いてきた炎の刃――その切っ先が全く届かない敵の存在。あの日、瞳と戦って思い知らされたことがある。今の自分に足りないもの。瞳と自分の決定的な差。


「歌とダンスと可愛さを極めて……でも、それだけじゃ足りないんです。一番大事なのは、直にお客さんの心を掴むこと……。わたしに一番足りないのはそれで……。だから、足りないそれを伸ばさないと、全国では勝てない……」


 だからこそ、マユも自分に握手の試練を課しているのだろう。結依にもそれはわかっているつもりだった。今の結依に歌やダンスを教えても意味がないとマユが言ったのは、そういうことなのだと。


「まあ、リノちゃんが言ったのはそういう意味だよね。今の瞳ちゃんのファン対応を百としたら、ユイちゃんは五くらいかな? ルリちゃんが三十でツムギちゃんが九十くらいでしょ」


 世間話のようにさらりと春日かすが瑠璃るり壬生町みぶまち紡姫つむぎの名を出しながら、マユはやっと結依から視線を外し、一歩離れてふうっと息を吐いた。


「でも、全然ダメ。今のユイちゃんはそれ以前の問題。もっともっと、ずーっと大事なことが、今のユイちゃんには見えてない」

「っ……!」


 とうに金縛りにされていたはずの自分の身体が、今まで以上にびくんと強張るのを感じる。


「それがわからない内は、瞳ちゃんにもツムギちゃんにも勝てないし……大切な仲間を泣かせることになっちゃうよ」


 ロングの茶髪を翻してきびすを返したマユに、結依は追いすがることもできない。


「アツコさんやユーコさんや、リノちゃんやわたしが、どうやって女王になれたか……よく考えてみて」


 最後にその言葉を残して、マユの背中は廊下の向こうに消えてしまった。


 付き添ってくれたスタッフにお礼を述べ、結依は独りで荷物を持ってプロダクションの建物を出た。夜九時を回っても煌々と光る窓の明かりが、目の前の道に自分の影を長く伸ばしていた。


『ユイちゃん、大丈夫?』


 携帯ミラホの画面には華子はなこからのメッセージが光っていた。一緒にレッスンできないことを申し訳なく思いながら、結依は手短に返事を打つ。


 ――大変だけど、大丈夫です。心配かけてごめんなさい。


 普通の人みたいに電話ができたらいいのにな、と、いつもなら思わない感傷がふいに胸に差し込んできた。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



 その夜もまた音の付いた夢を見た。皆と揃いの衣装に身を包み、夏の地区予選のステージに立つ夢だ。

 華子が、マリナが、怜音レオンが、あいりが――仲間達のそれぞれが、死力を尽くしたパフォーマンスで、地区最大の強敵である「Marble」の面々と渡り合っていく。互角のまま迎えた最後の一曲、自分の前にはあの春日瑠璃の燃えるような笑みがあった。

 チームの命運を背負い、結依は歌う。雲を貫いて太陽をも焦がす灼熱の炎を纏って。

 だが――


『もっともっと、ずーっと大事なことが、今のユイちゃんには見えてない』


「……!」


 失速した炎は、空に届く前にかき消え――


「みんな――」


 チームは瑠璃達に敗北を喫してしまう。自分の力が及ばなかったために。


「ごめんなさい――」


 夢の中の華子達が、嗚咽を飲んで結依を睨みつけてくる。


『大切な仲間を泣かせることになっちゃうよ』


 ……そんなの、絶対に嫌だ。自分が弱いせいでチームが勝てないなんて。


『ちゃんと考えたことある? 日本一のスクールアイドルって何なのか』


「……!」


 いつのまにか結依の意識は覚醒していた。胸を押さえ、パジャマの袖で涙を拭きながら、結依は暗闇の中で何度も首を横に振っていた。

 勝ちたい。もう誰にも負けたくない。仲間のためにも、美鈴のためにも。だけど……。


「……わからない。わからないよ……!」


 どうしたら、日本一のスクールアイドルになれるのか。

 微睡まどろみと覚醒を何度も繰り返しながら一晩中考え続けても、何も答えは思いつかなかった。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



 眠れなくても目を閉じてじっとしていれば八割は休める――と、子役時代に教え込まれた休息法をただ機械的に実践して、結依は次の朝も制服に袖を通した。仕事に出掛ける父を見送り、自分も通学鞄と衣装のバッグを持って家を出る。立ち止まっている時間は微塵もなかった。


「苦労してるみたいだな」


 学校に着くなり、昇降口で待ち構えていた和希かずき文字こえ眼鏡グラスに映り込んできた。

 腕を組んで壁にもたれた彼の隣には、いつもの三つ編みのあいりの姿もあった。あいりは携帯ミラホから顔を上げ、朝の挨拶も早々に、心配そうな目で結依を見つめてくる。


「……あいりちゃん。わたしは、大丈夫だから……」


 彼女に何か言われる前に、結依は思わず口を開いていた。上履きに履き替えて近くに寄ると、あいりは結依の言葉を否定するように小さく首を振った。


「マユさんは、どうしてこんなことをユイちゃんに……。わたくし、見てるのが辛いです」


 携帯ミラホを握るその手が微かに震えていた。口さがないネットの住人達の反応をあいりも目にしたのだろう。結依が言葉に詰まっていると、和希が口元を歪めて言葉を被せてきた。


「まあ、あの人は、秋葉原アキバのビラ配りから国民的アイドルに成り上がった世代だからさ。やっぱ感覚が違うんだよ。泥臭い努力こそ尊い、みたいなさ」


 うそぶくような棘を抱いた彼の言葉に、結依は苦笑いして、あいりにもう一度「大丈夫」と言った。彼女にというより、自分に言い聞かせたいのかもしれなかった。


「……あの」


 意を決したような顔で、あいりが結依の目を見てくる。


「放課後、わたくしも一緒に秋葉原に行かせてください。先輩達だってきっと来てくれるはずです。お客さんを集めるのをみんなでお手伝いしたら、今より少しは……」

「そんなのダメだよ」


 視界に流れるあいりの言葉を、結依は反射的に遮っていた。


「わたしの試練に、みんなを巻き込めないよ。それに……」


 それに、の後を結依は言い淀んだ。あいりの真剣な眼差しが結依を見つめている。ただの思いつきで言っているのではないとわかるからこそ、なおのこと、そんな手助けをしてもらうわけにはいかないと思った。

 夏の大会に向けて、初心者の彼女が今何をするべきか。それは、間違っても、自分の特訓に付き合って基礎練習の時間を減らすことなんかではないはずだ。


「それに、なんですか?」

「ほら、次の大会ではあいりちゃんももっと――」

「……わたくしが初心者だからダメなんですか? ユイちゃんのお手伝いをする時間すら惜しいっていうんですか!?」


 あいりがふいに声を張ったのは、声量のゲージを見るまでもなく表情と勢いでわかった。結依は思わずびくりと身を引いた。結依が知る限り、彼女が会話の中でそんな声を出すのは初めてのことだった。

 和希さえもハッと目を見張り、周りの生徒達もきょろきょろとこちらを振り返っている。


「違うよ、そこまで言ってない――」

「言ってますよ、ユイちゃんの目が。黙って基礎練をしていなさいって」


 あいりはまっすぐ結依から目を離さなかった。彼女の澄んだ瞳には、怒りではなく悲しみの色が映っているように見えた。

 決してあいりを傷付けるつもりで言ったのではない。しかし……。

 自分も冷水を浴びせられたような気持ちになるのを必死に振り払いながら、結依はあいりに歩み寄り、「違うよ」と繰り返した。


「わたし、あいりちゃんにもいつか、チームの柱になってほしいから……。それに、あいりちゃんだけじゃなくて、練習が大事なのはみんな同じだからっ」

「そうやって……自分だけ、わたくし達とは別の存在みたいに……。ユイちゃんとわたくし達は仲間じゃないんですか!? 一緒に戦うチームじゃないんですか!?」


 あいりの声のトーンが一層上がったのが察せられた。周囲の生徒達のざわめきが、空気を通じて無音の世界にも伝わってくる。

 結依が返す言葉を見つけるより先に、あいりは涙を散らして足早にその場を去ってしまった。その華奢な背中を追おうとして、結依は見えない腕に足を掴まれたかのように立ち尽くした。

 彼女にどんな言葉を掛けられるというのだろう。一緒に練習したいという願い一つ叶えてあげられない自分が。


「……まあ、素人は大人しく基礎練してろなんて言われて黙るようなタマなら、最初からお前を追ってアイドル部になんか入ってねーよな」


 和希の文字こえが斜め上から降りかかる。

 自分は何をしているのだろう。あいりにあんな思いをさせてまで――。


「カズキ君……お願い。わたしの代わりに、みんなのレッスンを見てあげて」


 結依には、自分の代わりを和希に頼むことくらいしか思いつかなかった。


「俺でいいのか?」

「立ち止まってられないの。わたしが強くならなきゃ、みんなに合わせる顔がなくなっちゃう」

「……わかった。授業始まるぞ」


 和希が顎を上げて言った。こくんと彼に頷いて、結依は自分の教室へと急いだ。

 ――辛かったらやめてもいいんだよ、と、父の言葉がふと脳裏に蘇る。結依の前にいつでも残されている、しかし、絶対に選ぶことのない選択肢が。 

 ここで諦めたら皆に申し訳が立たないというだけではない。自分が立ち止まったら、その時こそ美鈴の夢は本当に死んでしまう。

 そう。立ち止まっている時間はないのだ――。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



「こんにちはっ。アイドル、好きですか?」

「え? まあ、好き……ですけど……」

「じゃあ、わたしと握手しませんか。お願いしますっ」


 本日十人目の男性の手を握り、結依はにこっと微笑む。戸惑った顔で首を傾げる男性に、畳み掛けるように自己紹介を繋げる。


「わたし、『ELEMENTS』のユイっていいます。覚えてくださいねっ」

「は、はあ。ありがと」

「ありがとうございますっ!」


 最後まで戸惑いながら去っていく男性に、作れる限りのアイドルスマイルとともに手を振って、結依は次のお客さんを求めて歩き出す。

 ピンクの衣装は洗って乾かしているため、今日は華子が最初に作ってくれた皆と揃いの制服調スクールルックの衣装だ。アイドルの装いで雑踏に出る恥ずかしさも、もうどこかに吹き飛んでいた。今日こそは。挑戦三日目となる今日こそは、必ずやマユの課題をクリアしてみせる――。


「こんにちはっ。あの――」


 しかし――


「あの、わたしと――」


 今日の秋葉原の人々は、昨日までよりもずっと忙しなくどこかを目指しているように見えた。

 彼らの目的が何なのかはすぐにわかった。秋葉原駅からほど近い秋葉原エイトミリオン劇場の前に、いつにもまして黒山の人だかりが出来ていたのだ。


「おいおい。今日のキャン待ち、やべえな」

「そりゃ、神田アキバの生誕祭公演だからな。ロビ観も満員だろ」

「神田が公演出るの半年振りとかだっけ?」

「まあ、一位様はご多忙でいらっしゃるからな」


 眼鏡グラスのレイヤーに映る会話を流し読みして、結依はその場から引き返そうとした。今日の劇場周辺はとても無理だ。そんな一大イベントが行われているそばで、誰も自分なんかの相手をしてくれるはずがない。

 ――いや、待て。

 これをチャンスと捉えないでどうする。せっかくアイドル好きの人達が何百人とあの場に集まっているのに、その中に飛び込まないでどうする。

 手のひらの汗を衣装の裾に染み込ませ、結依は覚悟を決めて一歩を踏み出した。今は五時過ぎ。秋葉原エイトミリオン劇場の夜公演が始まるのは多分六時とか六時半とかだから、キャンセル待ちやロビー観覧での入場を目論む人達の群れは、あと一時間はこの場から捌けないだろう。今が千載一遇の好機だ。


「あの。こんにちはっ」

「え?」


 秋葉原エイトミリオンのメンバー達の名前がプリントされたシャツを着た男性に結依が話しかけると、男性は、連れらしきもう一人と一緒に結依を振り返った。連れのほうも同じシャツを着ていた。

 二人とも熱心なアイドルファンなのは間違いない。気持ちを弾ませ、結依は二人との距離を詰める。


「好きなんですか? アイドル」


 だが……。


「え、何?」

「知り合い?」

「いや、全然」


 一瞬で結依から目を離し、男性達はまた雑談に戻ってしまった。


「あっ……あの……」


 ふいに自分が恥ずかしくなって、結依は俯いて彼らの前を離れる。一歩二歩と歩いたところで、じいっと自分を見ている視線を察し、おずおずと顔を上げると。


「何あれ。コスプレ?」

「掲示板で見た。スクールアイドルの子だって」

「なんで劇場に居んの?」


 レイヤーに流れる文字の向こう、何人もの人々が結依を指差して、にやついた笑いを浮かべているのが目に入った。


「可哀想じゃね? お前、握手してやったら?」

「俺はいいよ。週末また握手会だし」


 握手会……。その一言に僅かな光を見出して、結依がその文字こえの主達に向かって笑顔を作って歩み寄ると、彼らはたちまち虚を突かれたような顔をした。


「あの、わたしと――」

「イヤイヤイヤ、いいって、遠慮します」

「ホラ、俺ら、エイトミリオンで目が肥えてるからさあ」

「ていうか、一般人がアイドル気取りで接触イベントやるのって普通に痛いよ」

「うわ、辛辣ぅ」


 くひひ、とオタク特有の笑いを口元に滲ませて、彼らはすぐにそっぽを向いてしまった。


「……邪魔して、ごめんなさい」


 彼らに涙を見せるのが悔しくて、結依は唇をぐっと噛んだまま足早にそこから離れようとした。俯いたまま角を曲がろうとしたところで、どん、と誰かと身体がぶつかった。


「あっ、ごめんなさ――」

「って、えっ、ユイちゃん!?」


 名前を呼ばれて顔を上げると、それは一日目にこの秋葉原で握手を交わした肥満体の男性だった。誰より長く、誰より熱く結依と話してくれた人だ。


「あっ、あの――」


 自分を見下ろしてくる彼の姿を見上げ、結依は思わず手を差し出していた。かなり厄介なファンには違いなかったが、それでも、自分と話したがってくれている人と今ここで出会えたのが何故か無性に嬉しかった。

 しかし、次の瞬間――


「ごめん、どいて。急いでるから」


 それきり結依に目もくれず、男性は早足で立ち去ってしまった。えっ、と咄嗟に結依が目で追った先には、劇場前の人だかりに嬉々として混ざる彼の姿があった。


 ……今の本店はだらしないとか、ユイちゃんが入って立て直してよとか言っていたのに。


「……うそつき」


 自分の呟いた言葉でついに涙腺が壊れ、結依は気付けば路地裏に駆け込んで泣いていた。見張り役のスタッフの男性は、そっと清潔なハンカチを渡してくれたが、何もするなとマユに言われているのか、結依に慰めや励ましの言葉を掛けてくれようとは決してしなかった。


『これが今のあなたの立ち位置――』

『素人のコピーなんかお呼びじゃないんだって――』

『わたしの娘には勝てない――』


 現実を突き付ける強者達の言葉が何度も脳内でリフレインする。どんなに頑張っても越えられない壁がここにはある。決意こころ一つでは決して打ち破れない壁が――。


「……」


 スタッフの男性がじっと自分を見ている。何も言わないが、彼はきっと自分の態度を測っているのだろう。ここで音を上げてしまうのか、それとも歯を食いしばって挑み続けるのか。


「……わたし……」


 白いハンカチに涙を染み込ませながら、結依は次に発する言葉を錯綜する感情の中から必死に引き当てようとしていた。

 いっそ、マユに頭を下げて、稽古の話は無かったことにしてもらおうか。そして華子達と一緒にレッスンに励んで、自分達の力で大会に出るのだ。自分の身の丈に合ったパフォーマンスで……。


『わたしの後ろには春日ジュリナがいる――』

『わたしに翼を与えてくれた養母ははと――』


 ……そんなのダメだ。大会で待ち受ける七光ライバル達はそれで勝てるほど生易しい相手ではない。あの瑠璃が同じ手でもう一度勝たせてくれるはずもないし、まして瞳や紡姫つむぎ達には……。

 やっぱり、ダメだ。ここで諦めるなんて。スクールアイドルの大会で好成績を収め、ドラフトに呼んでもらう以外、自分が秋葉原エイトミリオンに入る手段はない。こんなところで諦めてしまったら、美鈴との約束は永遠に叶えられなくなる。


「……わたし、続けます」


 男性にハンカチを返し、衣装の襟を整え直して、結依は路地を出る。もう日は暮れかけていた。

 残り約二時間で二百九十人……。もう、こうなったら手段を選んでいる余裕はない。恥ずかしくても、みっともなくても、道行く人達にもっともっと強くお願いして、泣き落としででも握手してもらうしかない。

 ネットでどんな姿を晒すことになっても構うものか。恥や外聞ではなく、命まで懸けて追いかける夢だったはずだ。


「あの、わたしと――」

「あれ?」


 結依が一人の男性に声を掛けると、彼は何かに気付いたような顔をして、結依の姿をじろじろと見下ろしてきた。


「その格好、キミもスクールアイドル?」

「え? は、はい、そうですけど……」

「さっき似たような格好の子達と握手してもらったよ。キミも頑張ってね」


 それだけ言って結局握手もせず、男性は足早に雑踏に消えてしまった。自分以外にどこかのスクールアイドルがイベントをやっているのだろうか、と考えを巡らせながら、結依は駅への道を辿りながら次々と人に声を掛けて回る。


「こんばんはっ。わたしと握手してくださいっ」


 何人目かに声を掛けた二人連れの男性達は、結依の差し出す手を握り返しながら、「今日は何かあんのかな」と彼らの間で言い合っていた。


「ねえ、キミ、今日はイベントか何かあるの?」

「えっ。あの、わたしは一人でやってるだけで――」

「ふうん。じゃあ、たまたまかな。駅前にいた子達と衣装が同じように見えたから」

「えっ……?」


 まさか――?

 頭によぎった一つの可能性を追って、結依は彼らへのお礼も早々に駆け出していた。

 人混みを縫って走り、秋葉原駅前の大広場へと出る。近くを通りすがった数人連れの男性達が、あ、と何かに気付いたような顔で結依を見た。


「あれがじゃね?」

「へえ、確かに可愛いな。時間あったら握手すんのに」


 視界にポップアップしてくる文字の奥で、彼らが広場の一角に顔を向ける。結依が視線を振った、その先には――


「みんな――!?」


 見紛うはずもない、仲間達の姿が――


「こんにちはっ。双柱学園『ELEMENTS』です!」

「サプライズ握手会です。いかがですか」

「よろしくお願いします……!」

「このチャンスを逃したら、次はないからね!」


 全員揃いの制服調スクールルックに身を包み、行き交う人々に声を掛ける、華子達四人の姿があったのだ。


「みんな、なんで……!」


 人々の群れをかき分け、結依は彼女達の前に出た。汗を散らし、息を切らして駆け寄った結依に、男性客と握手を終えた華子がにこりと笑顔を向けてきた。

 華子の後ろから、マリナが結依を手招きする。


「やっと来たわね、スーパーエース。お客さんがお待ちよ」


 言われて目をやり、結依は気付いた。華子達四人の向こうで、手持ち無沙汰そうにたむろしていた何人もの男性達が、結依の姿を見つけて「おお」と嬉しそうな顔をしているのを。


「お客さんって……え……?」


 男性達が我先にと結依の前に歩み出てくる。状況を飲み込みきれないまま、結依はそれでも笑顔を作り、彼らと握手を交わした。男性達は口々に、「ユイちゃん可愛いね」とか、「これから『ELEMENTS』を応援するよ」とか、好意的な言葉を述べてくれた。

 その様子に興味を持ったのか、周囲の人達が一人また一人と足を止め、じろじろと結依達を見回してくる。怜音レオンが彼らに如才なく声を掛け、このあと握手できるから並んでお待ち下さい、などと案内しているようだった。


「華子さん。どうして来たんですか!?」


 お客さんが途切れたところで、居ても立ってもいられず、結依は半ば噛み付くような勢いで華子に尋ねた。華子は皆の方を一度振り返り、少し照れたような笑みを浮かべて言う。


「わたし達のレッスンより、こっちを優先したいなって思っちゃった。ごめんね」

「まあ、あいりちゃんにどうしてもって言われちゃったらね」


 そう言葉を続けたのはマリナだった。あいりはどこかバツの悪そうな表情で、二人の背中に隠れるようにして結依を見つめていた。


「そんな。ダメですよ。みんなだって時間は一日でも惜しいはずです。わたしに付き合って練習時間を削るなんて、そんなの――」


 結依が華子達に詰め寄ったところで、怜音レオン文字こえが「ユイちゃん」と名を呼ぶ。


「キミと自分達がバラバラに強くなったとして、それに何の意味があるんだ?」

「えっ――」

「言われたんだろう、全ての武器を使えと。この試練を突破することが今のキミにとって第一なら、そのための武器に自分達を使ってくれたらいい。火群結依の夢は『ELEMENTS』全員の夢――自分達はキミを守る盾であり、キミが戦うためのつるぎだ」


 彼女らしく格好付けた怜音の言葉に、華子も、マリナも強く頷く。

 結依が呆然と言葉を返せずにいると、あいりが上級生達の間から歩み出て、まっすぐ結依の前に立った。


「ダメなんて言わせませんよ、ユイちゃん」

「……あいりちゃん」

「いつかじゃない。今すぐユイちゃんの力になりたいんです」


 その瞳には、いつか見た気弱な涙とは真逆の、強い意志の炎が燃えていて――

 その炎を燃え移されたかのように、胸の奥がじわりと熱くなるのを感じたとき、結依の背後から和希の文字こえが飛んできた。


「ま、そういうことだ。ここに来るの、誰も反対しなかったぜ」


 結依が思わず振り向くと、彼はポケットに両手を突っ込んだまま、ふん、と口元を歪めて笑った。


「まさか、カズキ君が……?」

「俺は正論を言っただけだよ。アイドル初心者が四人集まって練習してるより、さっさと羽生マユの課題を片付けて、皆で稽古を付けてもらった方が得だってな」


 客の前で男が出しゃばるべきではないとわきまえているのか、和希はそれだけ言ってきびすを返し――

 去り際、こみ上げる何かに霞んだ結依の視界に、うそぶくような言葉を置き去りにしていった。


「まあ、ようやく握手会らしくなったんじゃねーの。やっぱ人数ってのは武器だよ」


 さっと片手を振って去っていく彼と入れ替わるように、待たされていた人達が我先にと結依達の周りに集まってくる。怜音が「お待たせしました! 順番に!」と彼らを仕切っているのがきこえた。

 案内役の怜音との握手を皮切りに、男性達はあいりと、マリナと、華子と順々に握手を交わし、最後に結依の前にやってくる。片手の袖で涙を拭い、結依は精一杯の笑顔を浮かべて彼らに応じた。

 それは不思議な光景だった。結依一人では、ほとんどの人は見向きもしてくれなかったのに。皆が揃いの衣装を着て並び立った途端、むしろ道行く人々のほうから結依達に目を留め、進んで握手をしようと寄ってきてくれるのだ。


「『ELEMENTS』って初めて聞いたけど、どこのグループ? 東京の学校?」

「こないだの番組見たよ。みんな凄かったじゃん」

「やっぱユイちゃんがセンターなの?」

「俺、プロアイドル専門だったんだけど、これからスクールアイドルも見てみようかな」


 結依達に興味津々の男性達の様子、そして彼らの言葉を見ていると、抑えたはずの涙がふいにまたこぼれた。

 大事なことが今のユイちゃんには見えてない――マユの言葉がふわりと優しく心に蘇る。

 今初めてわかった。自分に何が見えていなかったのか。


「……わたし……」


 次のお客さんを待たせてしまうのも構わず、結依は眼鏡グラスを外した目元を袖で押さえて、暖かな震えに身を任せていた。仲間と一緒に多くの人に囲まれて、今やっと、なろうとしていたものになれた気がした。

 ここにきてやっと、人々の自分を見る目が変わったのだ。から、に。

 マリナがとんとんと肩をつついてくる。眼鏡グラスを掛けるまでもなく、彼女が何を言っているのかは唇の動きでわかった。


「ホラ、泣いてる場合じゃないでしょ、ユイちゃん」

「……はいっ!」


 華子の、怜音の、あいりの笑みに自分も微笑みを返し、結依は待たせていたお客さん達と向かい合った。


 ――そうだ。

 マユさんやリノさんが、女王になれたのは――。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



 シンクロ・プロダクションの窓からは今夜も光が漏れていた。結依が華子達とともにエントランスをくぐると、ロビーのソファに和希と向き合って腰を下ろしていたマユが、紅茶のカップをローテーブルに戻してすっと立ち上がった。


「お疲れさま、ユイちゃん。華子ちゃんも。……マリナちゃん、レオンちゃん、あいりちゃんは初めましてだね。会いたかったよ」


 結依達の五人揃った姿を見ただけで、マユは既に満足そうな笑みを口元に浮かべていた。


「今日はどれだけ握手できたの?」

「……握手券五百三十枚分、です」


 結依はマユの目を見上げて答えた。結依一人で集めた十二人の分と、それから――「ELEMENTS」の皆で集めたお客さんが百人程度。その人達との握手の回数が、五百十八回。


「やるじゃん。五人レーンで握手会一部ぶん、クリアしちゃったね」


 そう、気付いてしまえば明快なことだった。マユは最初から、握手三百回とか、握手券三百枚分という言い方しかしていなかった。三百人の客を集めろとも、結依一人で三百回握手しろとも言っていない。

 マユが何度も言っていた通り――仲間すべての力を合わせれば、三百回は決して無理な目標ではなかったのだ。


「そのぶんなら、答えも見つかったのかな? 日本一のスクールアイドルって何なのか」


 どこか楽しそうに結依の目を見つめてくるマユに、結依は、「はい」とはっきり頷いた。


「わたしはずっと……一人一人の磨いた要素エレメントを合わせて、強いチームが出来上がるんだと思ってました。……でも、そうじゃなかった。何のためのグループなのか、何のために仲間と一緒にいるのか、わたしは本当のところをわかってなかったんです」


 道行く人々に見向きもされなかった苦い記憶。どんなに可愛い衣装を着て、笑顔を振りまいたって、ステージに立っていない自分のことは誰もアイドルとは思ってくれない。

 誰かがステージに上げてくれて、初めてアイドルはアイドルになれる。握手会会場のプロアイドル達や、指宿リノに連れ回された指宿瞳がそうであるように。

 スクールアイドルの結依にとっては、揃いの衣装で仲間と並び立つのが、その「ステージ」を作る方法の一つだったのだ。


「みんなが助けに来てくれて、やっと気付いたんです。一人じゃできなくても、みんなと一緒ならできることがあるって。一人一人の輝きを集めるんじゃなくて、みんなで一つの光になればいいんだって」


 華子が横からそっと差し出してきた手を、結依は笑って握った。同じく手を出したそうにしていたあいりには、自分から手を伸ばした。


「マユさんもリノさんも、一人で女王になったんじゃない。グループの中に居たから……支え合える仲間達と最高のグループを作ってきたから、最高のアイドルとして輝くことができた――」


 マユの黒い瞳を見据えて、結依は告げる。仲間とともに辿り着いた答えを。


「日本一のスクールアイドルになるとは、日本一のチームをみんなで作ることです! そうですよね、マユさん!」


 その言葉に、マユはふっと口元をほころばせ――


「合格っ!」


 顔の前でそっと手を合わせて、小さく拍手をしてくれた。


「今のユイちゃん達になら、歌だってダンスだって、何だって教えてあげられる。みんなの力を合わせて、夏の大会に向けた最高のセットリストを作りましょう。そこに作家先生もいることだしね」


 マユが振り向くと、和希はソファに背中を沈めて腕組みしたまま、結依達を見て微かに頷いてきた。


「ありがとうございます、マユさん。よろしくお願いし――」


 姿勢を正してマユに挨拶しかけたところで、ふらりと自分の脚から力が抜けるのを結依は感じた。我ながら限界だったかな、と刹那の内に認識した次の瞬間には、くずおれかけた身体を華子がそっと背中から支えてくれていた。

 マリナ達も口々に何か言いながら寄ってくる中、結依はかくりと首を傾け、華子と目を合わせた。


「……華子さん」


 トーナメントで瞳に負けてから四日、何だかんだで毎日何らかのやりとりは交わしていたはずなのに――


「なんだか……久しぶりに華子さんの顔見た気がします」


 結依が思ったまま言うと、華子はそっと微笑んで。


「……お帰りなさい、ユイちゃん」


 もやの晴れた結依の心を、優しい言葉で包み込んでくれた。



(7th Single:強くなりたい 完)

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