Track 03. 勝負

 ――ひとり、ふたり、三人、四人……。


 自分わたしを見ている観客ひとがいる。二回戦を終えて出場者席に戻ったばかりの自分に、ステージから目を離してまで視線を向けてくれている人達が。

 あの人は博多駅の演説で握手した人。あの人は選挙カーの上のわたしに声を掛けてくれた人。あの人はの後援会で挨拶した人。あの人は一回戦で初めてわたしを知ってくれた人……。

 出場者席に腰掛けたまま、指宿いぶすきひとみは静かに観客席へ顔を傾け、それらの人々と順番に視線を合わせていく。目が合った瞬間、誰もがハッとした顔で息を呑むのがわかる。

 あの人にはウインクを。あの人には控えめな笑みを。あの人には小さく手を振って。あの人は三秒ほど長めに目を見つめて。

 計十秒ほどで全てのファン対応を終えてから、瞳は再びステージに視線を戻した。

 自分が主役ではない瞬間こそ、振る舞いに気をつけること。それも養母ははの教えの一つだ。今この瞬間にも、どこのカメラが自分の横顔を抜いてくるかわからない。他の出場者のパフォーマンス中に、露骨にキョロキョロと観客席ばかり見ていたのでは、真剣さが足りないのではないかと叩かれる隙を与えてしまう。


『続いて後攻、逆瀬川さかせがわ怜音レオン――』


 アナウンスに導かれ、軍服調の衣装を纏った白皙はくせき麗人れいじんが、きらりと白い歯を見せながらスポットライトの下に姿を現した。勇壮なメロディをバックに始まるのは、ミュージカルを思わせる朗々たる語り。

 春暁しゅんぎょう学園の高蔵寺こうぞうじユーリアと、双柱ふたばしら学園の逆瀬川怜音の対戦。これに勝った方が、自分の三回戦の相手となる。


「思った通り、ミュージカル対決やねぇ」


 隣に座る薩摩さつま芳乃よしのが小声で言ってきた。そうだね、と小さく頷いて、瞳はステージ上の熱演に視覚と聴覚を集中させる。

 双柱学園の逆瀬川怜音。一回戦を観たときにも思ったが、あのパフォーマンスの完成度は明らかに急ごしらえのものではない。恐らく彼女は、どこか専門のスクールで厳しい訓練を受けてきた経験があるはず……。

 事前に聞いたところによると、双柱学園のアイドル部は昨年まで公式戦で何の実績もなかったらしい。今年の春の地区予選も、春暁学園の「Marbleマーブル」に敗れベスト8に終わっている。それにも関わらず、瞳の養母ははは、このトーナメントに双柱学園の子を四人も呼んだ――。

 新顔しんがおが怒濤の勢いで序列を駆け上がってくることなど、アイドルの世界では日常茶飯事。無名のチームといえど油断はできない。

 先程自分が対戦したみなとマリナも、歌唱は荒削りながら、ダンスのセンスや勝負度胸の強さを感じさせる相手だった。まして、あの逆瀬川怜音のパフォーマンスの力量は、それよりも数段上に見える。


「瞳ちゃんは、どっちが勝つって思うとや?」

「……六十対四十で逆瀬川さん、かな」


 審査員と観客の評点を脳内で予想し、瞳は答えた。

 先攻の高蔵寺ユーリアも素晴らしい魅力の持ち主だった。歌と語り、そしてダンスをハイレベルに融合させた彼女の一人芝居モノドラマは、中学ミュージカルの全国グランプリの看板に違わぬものだった。

 だが、それでも恐らく逆瀬川怜音には勝てないだろう。単純な技量は互角であったとしても、二人の間には気迫や覚悟の面で大きな差があるように見える。

 逆瀬川怜音はきっと本気で優勝を狙っている。対して、高蔵寺ユーリアの青い目は、悟っているのだ。この二回戦が己のゴールであることを。続く三回戦、わたしに勝つことはできないと。

 トップを目指していない者が本気の戦いに勝てるはずがない――。養母ははの教えの中でも、瞳の意識に最も強く焼き付いている言葉だ。


「すごっ。また瞳ちゃんの言う通りなった」


 大画面に表示された判定結果を見上げ、芳乃が両手で口元を覆った。戦いに敗れて引き上げる高蔵寺ユーリアの目は、案の定、「ここまでだ」という諦めの色に染まっていた。

 両者がステージからけ、すぐに次の試合の呼び出しアナウンスがかかる。


『二回戦、第三試合を開始します。東方ひがしかた清學館せいがくかん高校「Venus+ヴィーナスプラス」一年生、薩摩芳乃! 西方にしかた――』


 カメラに笑顔を向けて立ち上がる芳乃に、瞳は穏やかな笑みをひとつ投げかけた。


「がんばって、ヨシノちゃん」

「うん。……ここまでは、やけん」


 ステージの上手かみてに向かう芳乃の細い背中が、瞳には何だか寂しかった。

 ここまでなら勝っていいとか、ここから先は勝っては駄目とか、いつまで芳乃はそんなことを言うのだろう。自分が清學館中学に転入し、初めて顔を合わせた頃の彼女は、もっとキラキラした自信に燃えていたのに。


 あなたの存在に潰される程度なら、それがあの子の限界なのよ――と。いつだったか、養母ははが自分と芳乃の関係をそう評していたことがある。

 だが、同時に養母はははこうも言っていた。サクラの血を引くあの子がそんなところで折れるはずがないと。だから、決して油断せず、いつ彼女が牙を剥いてきてもいいように、迎え撃つ準備を整えておくようにと。


「人は皆――恋すれば――誰もが超能力者エスパーになる――」


 瑞々しい恋の歌にマッチした歌声を耳に捉えつつ、瞳は大画面に映し出される芳乃のパフォーマンスを眺めた。

 そこに居るのはいつも通りの薩摩芳乃だ。歌もダンスもハイレベルだが、彼女の眼は勝負の色をしていない。弾ける魅力を客席に振りまく彼女の眼は、大人の決めた筋書き通りの役目を淡々とこなす人形の眼だ。

 それでも、芳乃の実力なら、今回の相手に負けることはないだろう。

 トップを目指す気概の差が勝敗を分けるというのは、あくまで実力の伯仲はくちゅうした者同士の話。そもそもの技術スキルに大差があれば、戦いは、決意の比べ合いに至る遥か手前で決着する。


悪戯いたずらっぽく微笑んで――時を止めた――数秒間――!」


 目を閉じてキスを待つようなラストの振り付けで、芳乃は一曲を締めくくった。

 溢れ返る歓声を浴びて上手かみてに控えるその姿は、「桜花おうかのヨシノ」の二つ名に恥じぬ満開の花。

 後攻の子も工夫を凝らした選曲で頑張っていたが、いかんせん、力の差は埋めがたい。薩摩芳乃は腐っても伝説級のアイドルの娘。並大抵の相手では敵うはずがないのだ。


『判定は――大差で「Venus+ヴィーナスプラス」薩摩芳乃の勝利! 七光ななひかり・桜花のヨシノ、三回戦進出を決めました!』


 予定調和のような勝利を収め、芳乃はカメラ用の笑顔を崩さぬまま出場者席に帰ってきた。

 労をねぎらういとまもなく、次の対戦が始まる。


『さあ、いよいよ二回戦ラストの対戦です! 第四試合、東方ひがしかた、双柱学園高校「ELEMENTSエレメンツ」一年生、火群ほむら結依ゆい! 西方にしかた千城せんじょう学園高校「DOLLSドールズ」一年生、成田なりた梨央りお!』


 真紅のフレームの眼鏡を取り払い、ポップな曲調メロディに乗ってステージに躍り出る小柄な少女の姿を、瞳は客席の様子と同時並行で観察した。

 双柱学園の火群結依は、恐らく自分の決勝戦の相手として養母ははが白羽の矢を立てた一人。抽選とは名ばかりのトーナメント表で、彼女が自分の反対側に配置されていることからもそれは察せられる。

 本当はそこに春暁学園の春日かすが瑠璃るりも絡んでくるはずだった。春の予選で激戦を繰り広げたという火群結依と春日瑠璃が二回戦でぶつかり、勝った方が三回戦で芳乃を破ってわたしとの決勝に臨む――。それが大人達の描いたシナリオだったのだろう。

 春日瑠璃が欠場した今、その役目を果たせるのは火群結依しか居ない。

 事実、一回戦でのパフォーマンスを見た限り、火群結依がこの二回戦で負けるとも思えなかった。

 後攻、千城学園の成田梨央は、中学時代からスクールアイドルの公式戦で活躍し、歌唱力なら上級生を差し置いてチーム随一とも言われる実力者。だが、歌の上手さだけで勝てるなら誰も苦労はしない。一戦ごとに全身全霊を絞り出すような火群結依のパフォーマンスには、神奈川の歌姫ディーヴァと呼ばれる成田梨央でも太刀打ちできないだろう。


『勝者、「ELEMENTS」火群結依! 破竹の勢いで三回戦進出決定! これにて、スクールアイドル・ニュースターズのベスト4が出揃いました!』


 勝ち名乗りを受け、メインカメラに向かって笑顔を弾ませる火群結依の燃える眼は印象的だった。

 観客達が熱狂に溢れ返る中、司会者が三回戦前の休憩なかいりを告げ、ステージでは秋葉原エイトミリオンの新人研究生達のミニライブが始まる。いよいよトーナメントは佳境を迎える――。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



「……アイとアイ、重ね合えば……情熱は無限大……」


 芳乃と一緒に楽屋に戻り、次の対戦に備えて衣装を着替えながら、瞳は先ほど耳にしたばかりの火群結依の持ち歌を何とはなしに口ずさんでいた。

 可愛らしくて素敵な歌だ、と素直に思う。曲調も歌詞も火群結依のイメージによく合っているし、子役アイドル時代の歌を今再び歌うというのもドラマ性があっていい。幼い頃の自分はテレビなど観られる環境にいなかったので、子役時代の火群結依を目にしたことはないが、きっと当時からのファンにはたまらない演出だったことだろう。


「……結依ちゃん、か……」


 着替えを終えた自分の姿を手早く姿見でチェックしつつ、瞳は残る二戦の展開を頭に思い描いた。

 三回戦の第一試合は自分と逆瀬川怜音。第二試合は芳乃と火群結依。順当にいけば決勝戦で自分は結依と戦うことになるが、果たして養母ははの期待通りに勝つことはできるだろうか――


「瞳ちゃん、あの子んことばっかり」


 突如、瞳の思考は、後ろから姿見に映り込んできた芳乃の言葉に遮られた。


「瞳ちゃんの中でも、もう決まっとるん? 決勝の相手はあの子やって」


 口を尖らせるでも頬を膨らませるでもない。芳乃は怒りと寂しさの入り混じった色をその目に宿している。瞳は自分が図らずも彼女を不快にさせてしまったことを瞬時に悟り、ごめん、と謝ろうとした。

 それさえも遮る勢いで、芳乃は鏡の中の瞳に向かって、いつになく饒舌に語り続けてくる。


「わかっとるよ。この三回戦、あたしは勝ったらいけないんでしょいかんとやろ? 決勝が同校対決なんか、盛り上がらんもんね」

「そんなこと――」

「じゃあ、いいのよかや? あたしがあの子に勝っても。あの子に勝って、決勝で瞳ちゃんの前さい立ったら、瞳ちゃんはあたしをライバルって認めてくれるとや?」


 鏡越しに訴えてくる芳乃の目は、今まで見たこともない悲愴な感情に染まっていた。

 瞳がハッと言葉に詰まった次の瞬間、誰かが楽屋の扉をノックしてくる。瞳の返事を受けて扉から顔を覗かせたのは、番組のスタッフの女性だった。


指宿いぶすきさん、三回戦の舞台装置の段取りは予定通りでいいでしょうか?」

「ええ、お願いします――」

「スタッフさん!」


 芳乃がいきなり横から声を上げた。驚く瞳をよそに、彼女は女性に向かって畳み掛ける。


「次のあたしの対戦、先攻がいいです。そいで、あたしにも『ガルーダ』ば使わせて下さいちゃらんね

「え……?」

「あたしも今日まで『ガルーダ』の訓練ば受けてきてます。お願いします」


 芳乃は女性に正対して頭を下げた。女性が困ったように瞳の顔を見てくるので、瞳も思わず「お願いします」と言ってしまった。

 芳乃が言ったことは嘘ではない。今後、チームのライブでも使えるように、磁気浮遊フィールドシステム「ガルーダ」で宙を舞う訓練は彼女も受けてきている。

 スタッフの女性はまだ迷った顔をしていたが、やがて「わかりました」と頷くと、そのまま瞳達の楽屋を後にした。


「……ヨシノちゃん」


 瞳は背中を強張らせたままのチームメイトにそっと声を掛けた。芳乃は振り向いて、瞳と目を合わせてきた。


「瞳ちゃん。あたし、おかしい? どんな手ば使っても勝ちたいって思うたらいけん?」

「……おかしくないよ」


 勝利が全てだと教えられてきた瞳には、そう答えることしかできなかった。

 一回戦のとき、火群結依が浮遊フィールドの存在に動揺していたことは瞳にもわかっている。何があったのかは知らないが、あの時の結依の目は明らかに恐怖の色をしていた。

 だから、芳乃は確信しているのだろう。あれを使えば結依の戦う力を削ぐことができると。


「……今やけん言うけど、あたし、今までずっと悔しかったんだよっちゃん。瞳ちゃんと戦う舞台にすら立たせてもらえなかったのんやったんが」


 衣装の裾を握って語り始めた芳乃の述懐に、瞳は僅かに目を見開いた。芳乃はまっすぐ瞳の目を見たまま、心の叫びを吐き出すように感情を発露させてくる。


「高校さい上がって、『Venus+ヴィーナスプラス』 のセンターは無条件で瞳ちゃんに決まっとって。……あたしより瞳ちゃんの方が凄いのはわかっとるよ。だけどばってん、競わせてすらもらえんって、そんなそげなことあると!? あたしはせめて……ちゃんと戦ってセンターば奪われたかった」

「ヨシノちゃん……」


 こんな芳乃の姿は見たことがなかった。彼女はずっと、こんな思いを抱えたまま自分と笑い合っていたのか――。


だけどばってん、今は、この三回戦を自力で勝ち上がりさえしたら、瞳ちゃんと戦える。約束してよしやい、瞳ちゃん。あたしが決勝で瞳ちゃんと向き合ったら、あたしをライバルって認めるって。あたしだって、七姉妹セブン・シスターズの娘なのよっちゃん!」


 芳乃の燃える両眼が、呆気に取られる自分の姿を映していた。瞳は初めて見た。この友人の眼が、本気の戦いの色に染まるのを。


「……わかった。約束するね。ヨシノちゃんが決勝に上がってきたら、わたし、ヨシノちゃんと本気で戦うよ」


 瞳がそう答えると、芳乃は無言で頷いてきた。


 休憩なかいりの時間はもうぎりぎりだった。急いで楽屋を出て、スタジオに入った直後、逆瀬川怜音と自分の対戦を告げるアナウンスが会場に響き渡った。

 先攻は、逆瀬川怜音――。


「皆、今こそ聴いてくれ。我が魂の咆哮ほうこうを!」


 爆音の如き歓声に迎えられ、怜音は本日三戦目のパフォーマンスを開始した。

 出場者席の火群結依は手に汗握る表情でステージを見ている。ベンチエリアからは、上級生らしき女子生徒と、男子生徒、大人の男性、それに戦いを終えた網野あみのあいりとみなとマリナが彼女を見守っている。そして、客席のあちこちからは、「レオン様」と彼女の名を呼ぶ黄色い声が上がっている。

 高蔵寺ユーリアとのミュージカル対決を制したことで、今や逆瀬川怜音はこの会場の誰からも実力を認められているようだった。自分だって、彼女のパフォーマンスの迫力は純粋に凄いと思う。彼女がこのトーナメントで優勝するようなことがあれば、それはそれで番組的には大成功だろうとも。

 だが。

 芳乃とあんな約束をした以上、間違っても自分が三回戦で消えるわけにはいかない。いや。芳乃の言葉があろうとなかろうと、自分にはただの一度も負けることなど許されてはいない。

 このトーナメントで優勝し、きたるべき公式大会でスクールアイドルの頂点を獲ったのちにプロ入りする。それが、養母ははの定めた自分の運命なのだから。


『続いて後攻は、「Venus+ヴィーナスプラス」指宿瞳――』


 アナウンスに呼ばれ、ステージの中心に静かに歩み出ると、瞳はそっと観客席の全周を見渡した。

 皆が自分を見てくれている。皆が自分の声を聴きたがっている――。


「皆さん。もうわたしの名前は覚えてくれましたか?」


 マイクを通じた瞳の問いかけに、客席の至る所から「瞳ちゃん」や「ひとみん」と名を呼ぶ声が溢れ返った。その全ての声に耳を傾け、瞳は、名を呼んでくれた一人一人と丁寧に目を合わせていく。


「あなたのために歌います。聴いてください、『君と聖夜の塾帰り』」


 イントロの開始と同時に、電磁浮遊レヴィテーション力場・フィールドが稼動を始め、裾長の衣装を纏った瞳の身体をふわりと宙へ押し上げる。天を舞う高揚感に身を委ねながら、瞳は客席に向かって歌声を響かせてゆく。

 完全に時期外れの歌詞だが、瞳には自信があった。養母ははに教わった通りに目を合わせさえすれば、お客さん一人一人の心の中で、五月のスタジオを二人きりのクリスマスに塗り替えることも不可能ではないと。

 敗北は許されない。勝つことこそが自分の存在理由だ。

 パフォーマンスを終えて瞳がステージに降り立つと、放心していた観客達は我に返ったように拍手喝采を贈ってくれた。判定の表示後、逆瀬川怜音がすっと自分にお辞儀をしてきたので、瞳も深く頭を下げて礼に応えた。

 さあ、これで残すは決勝戦のみ。その相手は果たして芳乃か、火群結依か――。


『続いて、三回戦、第二試合です! 東方ひがしかた、清學館高校「Venus+ヴィーナスプラス」一年生、薩摩芳乃 ! 西方にしかた、双柱学園高校「ELEMENTS」一年生、火群結依!』


 望み通りに先攻を取った芳乃が、ふわりと衣装の裾をひるがえし、浮遊フィールドの力場に乗って宙に舞う。おおっと客席から驚きの声が溢れ返った。

 芳乃までもが空中パフォーマンスを披露するのは観客達にも予想外だったに違いない。そしてそれは、下手しもてに控える火群結依にとっても――。

 魂の籠もった芳乃の熱唱を耳に捉えながら、瞳は火群結依の様子に意識を向けた。彼女は息苦しさをこらえるような顔で、両の拳を握り、眼鏡のレンズ越しにじっと芳乃のパフォーマンスを見上げていた。その拳の微かな震えまでもが、瞳にはありありと見て取れた。

 しかし、それもステージ外だけのこと。

 芳乃が曲を終えてステージに降り立ち、一礼して上手かみてに戻り――

 アナウンスが火群結依の名を告げ――

 眼鏡を外してマイクを手にした瞬間、火群結依は、

 宙を舞う芳乃を見て拳を震わせていた、一人の少女の姿から。

 私情のさやを払い、炎の刃を振りかざす、灼熱のアイドルの姿に。


「みんなの心に――火をつけます!」


 気合の入ったキャッチフレーズで瞬時に衆目を惹き付け、火群結依は――「灼熱のユイ」は歌い始める。己の魂を炎の嵐に変えて撃ち出すような、熱く激しい一曲を。

 あれも子役アイドル時代の持ち歌なのだろうか。会場全てを焼き尽くす彼女の歌声は、ダンスの勢いと相俟って、煉獄れんごく業火ごうかの如き輝きを放っていた。

 芳乃がステージに咲かせた満開の桜花おうかなど、もはや問題にもならない。花の都を焦土に変えんばかりの火勢かせいを煽り、紅蓮の炎が見る者全ての心に灼熱の刻印を叩き込む。

 火群結依がパフォーマンスを終えた瞬間、瞳は察してしまった。決勝のステージで自分と向き合いたいと願った芳乃の命脈は、今、無残にも焼き切られてしまったのだと。


『判定は――審査員票、会場票、データリンク票、いずれも火群結依の勝利! 「ELEMENTS」火群結依、決勝進出決定――!』


 会場の歓声が、灼熱のアイドルの眩しい笑顔が、瞳の意識を上滑りしていく。

 芳乃は肩を震わせてステージを後にした。後を追わねばならないと瞳は思った。決勝戦が始まるまでには、確か十分ほどのインターバルがある――。


「ヨシノちゃん!」


 スタジオ外の廊下に出て、瞳がその背中に追いつこうとすると、芳乃は涙を散らして振り向いてきた。


「あたし……勝てんやった。あれだけ大口叩いたのにとに、あたし……!」

「ヨシノちゃん――」

「同情なんかええよ! 瞳ちゃんにはわからん。強すぎる瞳ちゃんには、あたしの気持ちなんか……!」


 吐き捨てるように叫び、芳乃は身をひるがえして廊下を駆けていく。後を追おうとした瞳の肩を、後ろからそっと掴む者があった。


「今はそっとしておきなさい」

「! お母さん――」


 今にも駆け出そうとしていた足がぴたりと止まった。瞳が振り向いた先に立っていたのは――

 瞳の養母にして、伝説のアイドル女王。芸能大臣、指宿いぶすきリノその人であった。


「あの子は今日、一つの壁を超えたのよ」


 芳乃が走り去った廊下をそっと見やり、養母ははは言った。どこか満足げな笑みを口元に含ませて。


「あの子の母親、薩摩サクラは、博多エイトミリオンの生え抜きエースだった。後発グループだった博多を発足の時から支え、メンバーで初めて総選挙にもランクインした。……その直後、何があったかは知ってるわよね」

「……お母さんが、博多に移籍に」


 瞳がぽつりと答えると、養母ははは「ええ」と頷いた。

 アイドルに詳しい者なら誰もが知る出来事。エイトミリオングループの歴史を変えた大事件。

 新人アイドルの若い力で頑張っていこうとしていたグループに、突如、秋葉原の本店からトップ級メンバーの一人が送り込まれた。元いたメンバー達がどんな気持ちで彼女を迎えたのか、その心境は察するに余りある。


「サクラはそれでも折れなかった。わたしが博多に来たことをチャンスと見て、わたしの存在を最大限に利用し、グループ内での自分の地位を上げようと貪欲に藻掻もがいた。……あの子にも、そんな強者の血が流れているのよ」


 養母ははの言葉を聴きながら、瞳も思わず、芳乃が泣きながら走っていった廊下を振り返っていた。

 昨日までの芳乃なら、あの涙を流すことはなかったかもしれない。自分と戦うことを本気で望まければ、彼女は火群結依に敗れても顔色一つ変えなかったのかもしれない。


「だけど、本気になったからって、誰もが勝てるとは限らない……」


 女王の放った一言が、瞳の身体をびくりと震えさせた。

 そうだ。瞳だってそれはわかっている。勝ちたいと願っただけで勝てるなんて、漫画や映画の中だけの話だ。

 技量に優れた者は気持ちと関係なく勝つ。技量が互角なら気持ちの強い者が勝つ。そして、気持ちが互角なら、やはり技量で優る者が勝つのだ。


「あなたはどうするの? 瞳」


 問われるまでもなく、瞳は思っていた。

 火群結依と本気で戦ってみたいと。

 養母ははに敷かれたレールの上を行くのではなく。大人達の描いたシナリオに従うのではなく。

 純粋に、今の自分の力で、あの炎を受け止めてみたい。今の自分の全てを懸けて、彼女と「勝負」がしてみたい。


「……わたしは、『ガルーダ』なしで戦います」


 養母ははの眼をまっすぐ見て、瞳は宣言した。

 火群結依があの装置に何か思うところがあるのはわかっている。万に一つでも、億に一つでも、自分が装置を使ったせいで彼女が全力を出しきれなかったという展開にはしたくない。

 小細工も小道具も無しで、試してみたいのだ。芳乃を一蹴したあの灼熱のアイドルよりも、今の自分の実力は本当に優っているのか。


「いいのね?」


 自分に全てを与えてくれた女王の眼が問うている。せっかくの武器を自ら手放して本当にいいのか、それで負けた時の覚悟はできているのか、と。


「大丈夫です。あんなものがなくても……わたしの背中には、お母さんがくれた翼がありますから」


 瞳が答えると、養母はははふっと口元をほころばせた。


「そうよ、瞳。戦いなさい」

「必ず勝ちます」


 養母ははの前からきびすを返し、瞳は再びスタジオへの扉をくぐる。その先で己を待ち受ける運命が楽しみだった。


『スクールアイドル・ニュースターズ、遂に決勝戦です! 激戦を制し、ラストバトルに駒を進めたのはこの二人! 燃える炎を纏う灼熱のアイドル、「ELEMENTS」火群結依! そして、銀河の重力を宿す愛の女神、「Venus+」指宿瞳! 新人スクールアイドルの最強を決する戦いの火蓋が今、切って落とされます!』


 けたたましく鼓膜を震わすアナウンス、そして最高潮に達する客席の盛り上がりを全身にびりびりと感じながら、瞳はステージへと歩み出た。

 ピンク色の衣装を纏い、艶やかな黒髪を汗にきらめかせた火群結依が、ステージの中心を挟んで瞳と向かい合っている。まっすぐ自分を見据えてくるその両眼には、いかなる逆風にもかき消されない、強い戦意の炎が踊っている。

 数秒の間、そうして見つめ合いながらも、瞳も結依も一言も相手に言葉を掛けようとはしなかった。

 きっと二人の間に言葉は要らない。互いがここに立つ理由は十分にわかっている。

 戦うために、ここに来たのだ。


 結依と離れてステージの片側に立ち、すう、と瞳は深呼吸した。

 客席から無数の声が聴こえる。わたしという偶像を通じ、神の降臨を待ち望む多くの切なる声が。


 ――瞳ちゃん。

 ――ひとみん。

 ――一番可愛い。

 ――超絶可愛い。

 ――負けるな。

 ――勝てよ。

 ――応援してるぞ。

 ――絶対勝って。


 その声以外、今は何も頭に入らなかった。芳乃の無念も。養母ははの望みも。己の使命も。

 ステージの外での事情など、今この場では関係ない。

 自分はただ、耳を傾けるだけだ。偶像に祈りを捧げる無数の声に。


 火群結依ちゃん――


 

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