Track 02. 銀河のヒトミ
冷たい床に膝をつき、
身体の底から溢れ出る震えを本能で抑えようとするように、結依の両腕は無意識に自分の肩を抱き締める。凍り付いた意識の片隅で、彼女の目は、ステージの上空を舞う
「夢と――
同じ出場者席にいたマリナが、
「
指宿瞳の歌詞と重なって、スタッフの女性の心配そうな顔が視界に映る。スタッフと仲間達がしきりに言っている。大丈夫、無理をしないで、医務室で休みましょう、とか何とか――。
「わたしはいいから……あれを……とめて」
自分の唇がかろうじてそんな言葉を捻り出すのを、結依は喉の震えで認識した。
結依の目は皆の肩越しに指宿瞳の姿を追っていた。
「やっとキミに、キミに、キミに――この世界で巡り会えた――まだ見ぬその――瞳を探してた――」
ドライブ感のある
結依は
指宿瞳を虚空に舞わせているそれは――
三年前、自分から大切な人と未来を奪った、悪夢の
「もっとキミを、キミを、キミを――あの夢より知りたい――」
どうして目が離せないのか。漆黒の輝きを宿した彼女の瞳から。
「微笑むキミは――女神以上の――僕には
結依の脳裏にふと、先日の父の言葉をフラッシュバックさせた。
――大人ってのは……結依が知ってる以上に、怖いものだからね――。
◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
「どうして……あの装置がここにあるんですか」
一回戦の途中でスタッフに連れ出され、半ば強引に医師の診察を受けさせられた後、結依は、医務室に様子を見に来てくれた男性スタッフに反射的にその質問をぶつけていた。先日、出演打診のために学校を訪れた、あの男性だった。
「装置って、『ガルーダ』のことですか? あれは、実はこの番組が初お披露目というか、実用化前のプロモーションを兼ねてるんですよ。つい先月、実証実験を終えて
「……ダメです。あれは……危険なんです」
結依は男性の目を見上げ、静かに訴えることしかできなかった。男性は困った顔で「しかし……」と唸っている。
「資料を見た限り、人体には影響がないようですし、落下事故が起きるようなことも原理上ありえないと聞いています。……
「……わたしは……」
全てを打ち明けたくなる気持ちをギリギリの理性で抑えて、結依は唇を噛んだ。
ここでこの男性に事情を話したところで、何が変わるわけでもない。彼が装置の開発サイドにノータッチなのは明らかだった。それどころか、テレビ局の誰一人として、三年前の事故のことは知らないのかもしれない。
それに、現に指宿瞳は、あの装置を使って危なげなく宙を舞っていたのだ。
結依達の事故から三年。一度は凍結されたはずの磁気浮遊フィールドシステムの開発が再開されていたのは青天の
いや、間違いなくそうだろう。恐れ多くも大臣の娘に使わせようというのだ。安全性に不安が残る状態で表に出してくるはずがない。
……結依だって、そのくらいのことは理屈でわかっている。だが、それでも……。
「……なんでも……ないです」
医務室を出て、男性に
「無理をしないで下さいね、火群さん」
男性は最後まで結依の身を案じつつ、持ち場に戻るからと断って足早に廊下を去っていった。
彼の気遣いが結依の胸を静かに締め付けていた。きっと自分は今、相当に青白い顔をしているのだろう。心を制御できない自分が情けない。この業界は何が起きてもおかしくない魔窟であると、身に沁みて知っていたはずなのに……。
「ユイちゃん」
「ユイちゃん、大丈夫?」
「華子さん、あいりちゃん……」
二人に見せる顔をどう作ったらいいのかわからなかった。先日の大会に続いて、自分はまた仲間を心配させ、動揺させてしまっている……。こんな自分をもう皆に見せたくないと、その時誓ったばかりなのに。
「一回戦、マリナさんも、レオンちゃんも勝ったよ。……あいりちゃんは……」
華子の言葉と、隣で無理に笑顔を作っているようなあいりの表情を見れば、言わんとすることはわかった。
自分のせいだろうか。戦いの前に、自分が動揺させるようなことをしたせいで、彼女は――。
「あいりちゃん――」
ごめんね、と結依が謝ろうとしたところで、あいりはふるふると首を振った。
「ユイちゃんのせいじゃないですよ! わたくし、ユイちゃんや先輩がお稽古を付けてくれたダンスで、精一杯パフォーマンスできました。……自分で言うのは恥ずかしいですけど……今までで一番、楽しく踊れました」
涙交じりのその目を見れば、あいりが単に結依への気遣いでそんなことを言っているのではないことは察せられた。あいりは華子の渡した真っ白なハンカチで涙を拭くと、まっすぐ結依の目を見てくる。
「ユイちゃんは……負けないですよね」
この自分を励まそうとしているのではない。発破をかけているのでもない。純粋に結依の力を信じて希望を託してくる、その目……。
「……わたし……」
すぐに肯定の頷きを返せない自分が、無性に悔しかった。
戦えるだろうか、自分は。こんな心の状態で。己を律し、気持ちを奮い立たせ、満足に力を出し切ることができるだろうか。
華子が、あいりが、温かい眼差しで自分を見つめている。一回戦を勝ち抜き、出場者席で二回戦を待っているはずのマリナと怜音も、自分の勝利を望んでくれているはずだ。
だが、わたしは……。
結依が焦燥に奥歯を噛み締めた、そのとき。
弾丸のようにVRレイヤーに割り込んできたのは、新しい誰かの
「あ、
廊下の反対側からやって来たのは、青いステージ衣装に身を包んだ一人の少女。自分の一回戦の対戦相手に決まった彼女の顔を、結依はもちろん覚えていた。大阪・
「アンタ、一回戦、出るの?
彼女は片手を腰に当てて結依の前に立ち、遠慮の欠片もない調子で
「棄権するんやったら、
はぁっと大仰に溜息を
「
よくあるマウンティングだ、相手にすることはない、と結依の理性が告げている。だが、どうしても無視しきれない言葉があった。わたしが、「しょうもない目立ちたがり」?
「ユイちゃんの何が目立ちたがりなんですか……?」
後ろからあいりが声を上げてくれた。結依はあいりと華子に振り向き、小さく首を振ったが、相手の長居聖麗奈はお構いなしでその言葉を掘り下げてきた。
「明らかに目立ちたがりやろ。何やねん、さっきのスタンドプレー。ダメー、ダメー、
「棄権しませんよ、わたし」
特に何を考えたわけでもなかった。ただ、結依の声帯は勝手に震え、唇は勝手にその言葉を紡いでいた。
「そうなん。残念やわ。ま、アンタみたいな子に
結依ら三人をまとめて見下すように、腕を組んでふふんと笑い、敵はぺらぺらと
「東京モンは知らんかもしれんけど、
敵の言葉を意識の表層で読み取りながら、結依は自分の中ですうっと何かが
「自慢やないけどな、
「……言いたいことは、それだけ?」
結依はぽつりと言って相手の目を見た。瞬間、びくっと相手の気勢が後退するのが見えた気がした。
「……何や、その目……」
「それ以上何も言わないほうがいいよ。……わたし、あなたの心を折っちゃうかもしれないから……」
臆する相手の目をじっと見据えたまま、結依は意識のどこかで思う。
……本当は、仲間の声だけで立ち上がれた方が、ずっとよかったのかもしれないが。
まあ、これはこれで悪くない。敵の挑発で立ち直るくらいの方が、未熟なわたしにはちょうどいい――。
「……な、何や、気味悪い子やな。……何やねん、
捨て台詞にもなっていない何かを吐き捨てて廊下を駆け戻っていく敵の背中を見て、結依は先程までの自分自身の情けない姿を笑うように、ふっと頬を緩めた。
自分は何のためにここに来た?
過去の栄光に浸るためか。トラウマを思い出して震えるためか。仲間の敗北に動揺するためか。
違う。
戦うために、ここに来たのだ。
「ユイちゃん――」
「心配しないで。蹴散らします」
華子達だけではない。あの長居聖麗奈にも感謝しなければならない。彼女のおかげで思い出すことができた。わたしが何者だったか。
あとは彼女にも教えてやるだけだ。わたしが何者なのか……!
「あっ、火群さん。あと少しで出番が――」
自分を呼びに来てくれた女性スタッフに会釈を返し、結依は華子達に笑いかけて戦士の回廊を行く。
スタジオのライトの下に出ると、ちょうど、春日瑠璃の欠場のため、第七試合が神奈川の子の不戦勝に終わった旨がアナウンスされているところだった。
このトーナメントで再び相見えるかもしれなかった瑠璃が、この場に来ていない……。だが、それも今はどうでもいい。二回戦でぶつかる神奈川の子のことも。指宿瞳のことも。浮遊フィールドのことも。出場者席から自分に無言のエールを送ってくれるマリナと怜音の姿も、客席から注がれる無数の視線も、今の自分の目には入らない。
今はただ、目の前の相手を全力で蹴散らすだけだ。
『
己の中に燃え上がる戦いの炎を、髪と一緒に撫でつけ、結依は壇上の敵を見て笑った。
――
『続いて、後攻――』
邪魔な
観客の驚きが、高まる期待が、スタジオの空気を震わせて結依の肌を刺す。
ポップな火花に弾むイントロは、在りし日の「灼熱のユイ」の代名詞。満員の客席で、全国のお茶の間で、ネットの中継で、今、誰もが昔の自分の姿を思い出してくれているだろう。
さあ、今こそ皆に見せつけるのだ。昔とは違う自分の姿を!
「みんなの心に、火をつけます!」
灼熱の血を全身に
ターンと同時にスタジオ全周を見渡し、撮影機器の動きを確かめる。メインカメラの位置は、そこと、そこと、そこ。真ん中の一つが主に表情のアップを抜いてくる用だろう。上からはAI制御のクレーンが二基とドローンが三台。笑顔を向けるべき角度は目を閉じていてもわかる。
カメラが自分を追いかけてくるのと同じように、結依の視線も吸い寄せられるようにカメラを追っていた。
特別でも何でもない、当たり前の動き。この身体に刻み込まれた
幾百万、幾千万の視線に己を晒す電波の世界。今夜限りでも何でもいい。わたしは今、この場所に帰ってきた!
「みんな、ただいま! ユイちゃん改め、『ELEMENTS』の火群結依です!」
間奏で一気に会場の視線を引きつけ、
慣れ親しんだこの曲だが、今の自分は子役時代とは違う。子供の頃は踏めなかったステップが今は踏める。二周しか回れなかったターンが今はもっと回れる。鍛えた歌声が、磨いた笑顔が、今ならもっと多くの人にまで届く!
カメラの向こうの「みんな」を全身全霊の炎に巻き込み、結依はステージの中心でパフォーマンスを終えた。上気する頬に汗が伝う、その感触がどこか心地良い。
ステージの
『審査員票、会場票、データリンク票、出揃いました! 軍配は――「ELEMENTS」火群結依! 圧倒的票数で二回戦進出決定!』
「アナタはやってくれると信じてたわ、ユイちゃん」
チアリーダーの意匠を取り入れたステージ衣装を纏い、マリナがその目に熱い炎を
「でも、残念だけど――指宿瞳は、あたしが倒すからね」
マリナの熱い台詞が結依の眼前に踊る。一回戦を突破したことによる自信か、元々の気性か、彼女の表情には、このスタジオに足を踏み入れたときの緊張の色はもう微塵もない。
二回戦はすぐに始まる。第一試合はマリナと指宿瞳の対決だ。
「楽しみにしてます、マリナさん」
結依がマリナに笑みを返すと、マリナの横で怜音も白い歯を見せた。
「先輩、気負わずどうぞ。玉砕したら骨は拾って差し上げます」
「誰が玉砕するって? 見てなさい、春の大会でのあたしとは違うんだからね」
マリナが胸の前で拳を握ってみせたところで、新たなアナウンスが場内に響くのを結依の
『さあ、白熱のアイドルトーナメント、これより二回戦です! 第一試合、
結依と怜音に見送られ、マリナが確かな足取りでステージへと向かう。
大画面の表示と連動したカウントダウン、眩しく明滅するスポットライトの演出。両手に黄色い
大きく足を振り上げ、マリナはインカムで歌い始める。結依のレイヤーに流れる
「マリナさん……がんばって」
アイドルダンスにチアのアクションを取り入れたオリジナルの振り付けは、まさしくマリナの全力全開。思った以上に、と言うと失礼かもしれないが、ステージの上の彼女は、結依の予想を遥かに上回って善戦していた。
学園の
――だが。
そんな結依の期待は、次の瞬間、完膚なきまでに打ち砕かれることになる。
『続いて後攻、「
一瞬の暗闇の後、スタジオの天地を貫いて、ステージの中心に一条の光が降りた。
その光の中を、一人の少女が――指宿瞳が、ゆっくりと落ちてくる。仰向けの姿勢で目を閉じて、艷やかな黒髪にふわりと風を含ませて。
レイヤーに映る音符の並びが、会場に溢れる幻想的なメロディを結依に教えてくれた。
自然の重力に逆らってゆっくりと空を落ちながら、指宿瞳は微かに顔を客席に傾け、
くるりと身を翻してステージに降り立ち、神の
歌に合わせて滑らかに腕を振りながら、客席の全周を見渡していく瞳の姿が、大画面にも映し出される。
「……!」
息をするのも忘れ、結依は座席から身を乗り出して、画面に映る瞳の眼力に惹き付けられていた。
衝撃と混乱の中で観察した一回戦のときとは、まるで違う。あのときは、浮遊フィールドの存在が
ひとたびその眼に
星雲の輝きを宿す漆黒の瞳が、会場全てを真空の渦に飲み込んでいる。
「次元が……違う……!」
春日瑠璃の炎熱に膝をついた時とも。ひょっとしたら、幼き日に秋葉原の劇場でアイドルの輝きと出会った時とも。
同じなのはあの人くらいだ。見る者全てを引き寄せて飲み込む、その眼の引力は――
アイドル史上最強の女王、
「ありがとうございました。この後も、わたしの歌をお楽しみくださいね」
ふわりと会場にお辞儀をして、指宿瞳はステージを去る。対戦の勝敗は今さら見るまでもなかった。
「マリナさん……」
「……よく戦いました、先輩」
悔しさに拳を震わせるマリナに、怜音と一緒に励ましの声を掛けながら、結依は思う。
――
――大人ってのは、怖いものだからね――。
大人達の言葉の意味を、自分はまだ、心のどこかで甘く見ていたのかもしれない。
戦う意味を見失わせるほどの力量差。あれほどの怪物を
本当に怖いのは、浮遊フィールドのような小道具ではない。
こんなトーナメントを考えたこと自体が、大人の怖さなのだ。
『指宿瞳、二回戦も圧勝でしたね。審査員の先生方、いかがでしょう』
『圧巻と言うほかありませんね。眼の引力が違いますよ』
『この子が出てきたことで、スクールアイドル界は今後ますます盛り上がるでしょうね』
司会者と審査員達のやりとりを流し読みしながら、結依は、堂々たる歩みで出場者席に戻る指宿瞳の姿を目で追っていた。
『いわゆる
『そんな、考えて付けるようなものじゃないんですけどね。しかし、仮に名付けるなら、そう――』
彼女を形容するには、この言葉しか見当たらない。
会場を埋め尽くす観客達も、テレビの向こうの視聴者達も。誰に煽られるでもなく、誰もがその二つ名を思い描いたのに違いなかった。
『――
結依の視界に走る、無機質なその文字の向こうから――
指宿瞳は着席の間際、ブラックホールの如きその眼力で、はっきり結依の目を見て微笑んできた。
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