三番目の彼女

白瀬天洋

三番目の彼女

 雷、と聞いて、三番目に思い出すのが彼女だった。一番目はもちろん大地を揺さぶるトールのあの一撃で、二番目は京都国立博物館で見た風神雷神図屛風である。そして彼女は三番目だった。その順位が高いのか低いのかはよくわからない。というのも、四位以降は存在しないからだ。


 彼女とは西池袋駅の裏手にあるこぢんまりとしたバーで出会った。それは不快指数 の高い初夏の日だった。家を出たときには日本晴れだったのに、いつの間にか土砂降りになり、僕は店の中で足止めを食らっていた。理由はとうに忘れてしまったが、その日の僕はひどく落ち込んでいて、そこにこのような追い打ちをかけられてもう何もかもどうにでもなれという気持ちになっていた。

 雨が止むのを待っている間、僕はだいたい雷鳴が一度聞こえるごとに、チェイサーを一口飲んだ。そんなときに彼女に話しかけられたのである。あるいは僕から話しかけたのかもしれない。しかしそんなことは、本当はどっちだっていいのだ。どちらかが話しかけて、どちらかが応じた。とにかくその日、僕たちはホテルで一夜を過ごした。

 「雷が鳴るとぞくぞくしちゃうの」と彼女は打ち明けるように言った。それは僕が思い出せる限り最も奇妙なピロートークだった。「そういうのって変だと思う?」

 「いいや」

 「本当に?」

 「うん。歯磨きで感じてしまう人の話を聞いたことがある」

 「どういうこと?」

 「そのままのことだよ。歯を磨くと、気持ちよくなってしまう。あくまで人から聞いた話だけど」

 「おもしろいわね」彼女は本気で面白いと思っているようだった。「きっと歯がお綺麗なこと。もしみんながそうだったら歯医者さんは失業ね」

 「それが、実はその人はマウスウォッシュしか使わないらしい」

 変なの、と言って彼女はくすくす笑った。雷と歯磨き、どちらに興奮するほうが変のか、僕には決めかねた。


 彼女と会うのは決まってひどい天気の日だった。夏はバテてしまうくらいの頻度で、冬は一度か二度きり。日本には四季があるということを再発見せざるをえなかった。そのとき僕は吉祥寺に住んでいて、彼女は最寄りすら教えてくれなかったが、帰りの電車から察するに世田谷かその南の方に住んでいるはずだった。それで、場所は最初の西池袋を除けばほとんどが神泉のホテルだった。

 一度だけ、井の頭公園で試したこともある。井の頭線と中央線の終電が行ってしまうのを待ってから、できるだけ人目につかない奥の方を選んで、声を押し殺して手短にことを済ませた。トールはこのような人間の営みを見て何を考えるのだろうか?

 すべてを片付けてから、始発が動くまで、近くのあずまやで時間をつぶした。二人ともびしょびしょに濡れていた。

 「こういうのって最高ね」と彼女はまだ落ち着かない呼吸のまま言った。

 「たしかに、悪くはないかも」

 「ねえねえ、今度はもっと森って感じの大自然の中でもやってみようよ」

 「やっぱり嵐の中で?」

 「もちろん!」

 「いつかね」

 「約束?」

 「約束」

 そして僕たちは指切りをした。彼女の指は血が巡っていないかのように冷たかった。

 僕たちはそれぞれの生活の中のどうでもいい出来事とそれに対する意見を話し、話すことがなくなると仮眠をとった。

 翌朝、あずまやを発つときに彼女が尋ねた。

 「『言の葉の庭』を観たことはある?」

 「ないね」

 「観てみるといいわ」

 「どうして?」

 「わたしたちのことみたいだから」

 そう言うと彼女は悪戯っぽく笑って見せた。


 未だその映画は観ていない。

 彼女から突然連絡が途絶えたのは出会って三年目の夏の終わりだった。人間と人間の関係として考えてみれば、二年以上も続いたのは奇跡だといってもよかった。特に悲しくもなかったけれど、天気予報を見るときだけ少しばかりの寂しさが込み上げた。

 木枯らしが吹く頃、僕は思いつきで市立の中央図書館に足を運び、三か月分の新聞を取り寄せて調べてみた。見落としがなければ今夏の落雷による死亡事故は二件限りだった。雷に打たれるのはどうも宝くじに当たるよりも難しいらしい。長野県小諸市の畑近くでの三十代男性が一人目で、東京都多摩市の森林の中での二十代女性がもう一人だった。

 彼女が東京都多摩市の二十代女性だったとしても矛盾はない。しかし世の中に東京都多摩市を訪れた二十代女性がいったい何人いるというのだろう。彼女が東京都多摩市のこの二十代女性だったかもしれないし、そうじゃないかもしれない。それは神のみぞ知ることである。

 そもそも僕はどうしてこんなことをわざわざ調べているのだろうか。僕は自分の馬鹿らしさに呆れるしかなかった。しばらく躊躇して、結局その記事をコピーして持ち帰った。

 あれからというのも、雷が激しく鳴り轟く嵐の日には僕はひとりで果てるようになった。相次いで浮かんでくるトールと風神雷神図のイメージを、思い出の中での彼女の不敵な笑みで掻き消しつつ。

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