9 行動開始
「どう? 少し楽になったかな?」
あれから何度も何度も同じ事を繰り返して、冬野は怪我の治療を続けてくれていた。
冬野は随分と疲れ切った表情を浮かべている。
当然だ。
例え肉体が再生しても痛覚は確かにそこにあって。
傷が塞がり血が止まってしまうが故に冬野は何度も何度も激痛を伴う自傷行為を続けていて。
だとすればこの短期間で消衰しきっていてもおかしくない筈で。
例えばもう大丈夫と嘘を吐けば、冬野はそれを止めるだろうか。
止めてくれるだろうか?
止まって欲しいなとは思う。
自分の為に此処までしてくれるような女の子に、これ以上痛い思いをして欲しくない。
「……もう、大丈夫だよ。ありがとな、冬野」
そう思って冬野にそう伝えたけれど、だけど冬野は言う。
「少しは楽になったかなって思って聞いたけど、大丈夫じゃないのは分かるよ……そりゃ、もう死んじゃう事は無いかもしれないけど」
「でも……」
「でもじゃない。もうちょっと……もうちょっとだけ」
結局冬野の自傷行為は繰り返される。これでは冬野が納得行くまで止まらなそうだ。
そんな冬野を見て、思わず聞いてしまう。
「……冬野。なんでそこまでしてくれるんだよ」
冬野雪が類稀に見る善良な吸血鬼である事は理解した。
冬野はきっと誰かの為に身を呈して動ける様な、人間を交えてでも稀に見る程の善人だ。
だけど……だとしてもだ。
「……自分が何をやってるのか、分かってるだろ」
「分かってるよ。自分のやってる事が殆ど殺してくださいって言ってるような物だって。だけどさ……友達には死んでほしくないじゃん」
「そりゃ……そうだろ。分かるよ……分かるけどさ」
分かるけど。冬野はそう言ってくれるけど。
「友達相手でも……絶対にやっちゃいけない事じゃねえのかこんなの」
冬野がやってくれている事というのは、善良な者が友達にやれる事の範疇を超えている気がして。
多分きっとあってはならない事で……ましてやそれが桜野隼人なら。
「それに俺は滅血師で。あとお前、ずっと俺に怯えてただろ。そりゃ友達かもしれないけどさ、よりにもよって怯えるような相手の為に。殺されるかもしれない相手になんで……」
百歩譲って普通の友達を助ける事は理解できなくもない。
だけど自分の為に命を賭けられた理由は、本当に理解できなかった。
「……桜野君だからだよ。いくらなんでもさ、誰にだってこんな事をやれる訳じゃない」
「俺だからって……逆じゃねえのかよそれ」
「逆じゃないよ。桜野君にしか……こんな事、できないから」
そして理解が追いつかない隼人に、冬野はゆっくりと語り出す。
「桜野君はさ、私の事、ずっと疑ってくれてたよね」
「疑ってくれたって……それ、碌でもねえ事だろ」
とてもではないがそれを肯定的に受け入れる事はできない。だけど冬野は言うのだ。
「……まあ、そりゃ滅血師に吸血鬼かもしれないって疑われるなんてのは間違いなく碌でもない事だよ。実を言うとさ、頑張って普通にしてたつもりだったんだけど……桜野君に疑われだしたあの日、多分今日死ぬんだろうなーってビクビクしてたんだよ」
そんな碌でもない事を、微かな笑みを浮かべて。
「だけど桜野君は何もしなかった。疑う必要なんてない。普通にやる事をやれば終わるのに態々私を疑ってくれたんだ。それってさ……なんか私個人の事を見ようとしてくれている気がしてね。桜野君ともっと仲良くなりたいって思った。そりゃ桜野君は滅血師だからさ、怖くなかった訳じゃなかったし、それが怯えてるって事なんだろうけど……それでも」
つまり冬野は当の本人以上に隼人の事を理解していたのだ。
冬野雪が吸血鬼だとしても殺さなくても良い理由を探す。ようやく辿り着いたその答えは、冬野の言う冬野個人を見るという事で間違いないのだから。
「だからね……桜野君は特別。私が吸血鬼でも受け入れてくれるじゃないかって。唯一そう思えた人間だから。だから……桜野君なら、良い。桜野君だから良いんだ。桜野君の為ならこの位頑張るよ」
「……」
冬野が語ってくれたそんな理由。その言葉に何か言葉を返そうとはしたけれど、それができずに視線を反らす。碌に言葉が纏まらない。だってそうだ。
(……そ、それどういう風に受けとれば良いんだよ)
他の誰でもない。
桜野隼人だからここまでしてくれる。
それはつまりそれだけの好感を冬野から得られているという事で。
そんな事をこの状況で本人から告げられる事になって。
そうなってしまえば……碌に言葉が出てこない。
嬉しい。
本当に嬉しくて仕方がない……が。
それでも平然と言葉を返せるような奴ならば、もうとっくの昔に今よりもうちょっと先の関係になれるように動いてる。
だけどそれでも何か言わなければならないとは思ったから。頑張って言葉を紡ぐ。
「あ、ありがと……冬野」
本当にそれだけだけど。せめてそれだけは伝えなければならないと思った。
そしてそれを言った頃には冬野もどこか顔を赤らめていて、そして静かに言う。
「……今の無し。聞かなかった事にしてよ」
「……わ、分かった」
言いながらも無かったことにはしたくないし、してはいけない事だと思うけど。
「さ、桜野君は?」
色々と誤魔化すように冬野が聞いてくる。
「なんで桜野君は……私を疑い続けてくれたのかな?」
「それは……」
答えようとは一瞬思ったが言葉を詰まらせる。
それが何故なのか。
それはもう明白に答えを持っているけど、他ならぬ冬野には言えない。
言える訳がない。
一目惚れしました。
それから疑い始めるまでの間普通に接して、心の底から殺したくないと思える位には本気で好きになりました。
そんな半ば告白紛いの事、言える訳がない。
そして言葉を詰まらせていると、冬野は催促するように言う。
「教えてよ。私も言ったんだからさ」
「……聞かなかった事にしてって言わなかったっけ?」
「それはそれ、これはこれじゃん」
「……言ってる事無茶苦茶じゃねえか」
とはいえ無言を貫けない空気な気がして。
「じゃあ、えーっと……察してくれ」
視線を反らしてそう答えた。なんの答えにもなっていないが、多分これが最適解だ。
そしてそれを自分がどんな表情で、そしてそれを冬野がどういう風に受け取ったのかは分からないけれど。
「う、うん……分かった、察する」
聞いてきた冬野もまた、表情を赤くして視線を反らしていた。
その理由を深く掘り下げる勇気は、まだない。
そしてそこから暫く二人して黙りこんでいた訳だが、やがて冬野が話を切り出す。
「……桜野君、これからどうする?」
「どうするも何も、まずはお前が今からやろうとしてる事を、まずやめて欲しいんだけど」
自傷行為。そんな事をしてくれる理由を聞いた今、よりその行為を止めて欲しいという感情は強くなった。
「一応……お前のおかげでほんと、もうだいぶ楽になってるからさ。もう大丈夫だ」
吸血鬼の血液を利用した治療法は吸血鬼の自然治癒能力と比べると遥かに劣るが、それでもこうして会話が成立する位には回復した訳で。
ただその程度では冬野が納得してくれないだけで。
決して大丈夫ではないのだけれど、それでも十分過ぎる程助けて貰った。
「……駄目だよ。まだ大怪我なのは変わらないんだから。もうちょっとだけ」
「お前のもうちょっとの基準絶対高いだろ……」
冬野なら、この怪我が軽症だと言えるところまで頑張りかねない。
……冬野のおかげでもう体はちゃんと動くから。ここまでだ。
「ずっと此処でこうしてたら、滅血師に見つかるリスクだってある。この辺が潮時だろ」
「あ……まあ、確かにそうかも。見られたら多分、桜野君にも迷惑掛かっちゃうね」
そう言って冬野は突き立てた爪を腕から離した。
爪の長さを元に戻して、そしてどこか解放された様な表情で息を付き、本当に無理をさせていたのだと、改めて実感させられる。
「で、改めてどうしよっか」
そしてこれからどうするか。どうするべきなのか。
「とりあえずお前を家まで送るよ。そんな血塗れで歩いてる所を滅血師にでも見付けられたらマズいだろ。多分俺がいればなんとか誤魔化せると思うし」
「確かに。じゃあお願いできるかな。それで、その後桜野君はどうするの?」
「その後……」
「まさかそんな怪我でこのままお仕事続けたりしないよね?」
「……まあな」
「そっか……よかった」
「流石に怪我が治るまでは休業するつもり。勿論今日もな」
心の底から、そんな言葉が零れだした。
流石にこの怪我だ。
上の連中がもういいと言ってくれればすぐにでも下がるつもりだし、なんとかして言わせたいところだ。
冬野には大丈夫とは言ったが苦痛である事に変わりは無く、仕事どころではない。
実際この怪我ならそういう指示は下るだろう。
脇腹に負った致命傷はある程度回復したものの、背中に負った怪我に圧し折れた腕は何も変わっていない。
かなりの重症患者だ。
正直雑魚ならともかく、ある程度の相手になれば全く太刀打ちできない。
……それに。
下がりたい理由がもう一つ。
元より決して高くなかった滅血師としてのモチベーションが著しく下がっていた。
致命傷を負う。
今まで経験してこなかった最悪な事態を経験したという事もあるけれど、多分きっとそれだけではなくて。
冬野という善良な吸血鬼と出会った今、果たして自分達のやっている事は正しいのか。
もしかしたら自分達は知らず知らずの内に、まともな吸血鬼も殺してしまっているのではないかという疑心が胸に広がる。
血を吸った吸血鬼だからこそ見鬼が反応する。
見鬼が反応するからこそ吸血鬼だと分かる。
それで分かるからこそ滅血師は吸血鬼と戦うのだ。
では怪我の治りが異様に早いなど、見鬼以外で吸血鬼と判明したケースについては?
「……」
そんな事を考えだすと、より気分が重くなってくる。
少なくとも自分はそういうケースを経験していない。
吸血鬼かもしれないと疑いを持ったのは冬野が初めてのケースだ。
だけどそれでも、滅血師という職業のあり方がこれでいいのかという疑問が付いて回る。
この先怪我が治った後。自分はこれまで通り滅血師を続けていてもいいのだろうか?
……答えは簡単には出てこないから。今やるべきだと分かっている事からやっていこう。
「とりあえずお前の家に向かおう。家どの辺だっけ?」
冬野の家には行った事が無い。たまに一緒に帰ったりはしていたから、大雑把な方向位はわかるけど、分かるのはそこまで。
「えーっとほら、郵便局の近くにちっちゃい本屋あるじゃん。あの裏」
「了解あの辺りね……っし」
言いながら隼人は立ち上がる。
「大丈夫?」
「まあこうやって、立ち上がれる位にはな」
逆に言えばそれだけなのだけれど。
「歩ける? アレだったら肩貸そっか?」
「いや、うん。大丈夫」
なんとか動けるし、今更な気はするが情けなく感じて嫌だし。
「じゃあ行こうぜ」
そう言って隼人はその場から歩き出すが、数歩歩いたところで冬野に止められる。
「桜野君ストップストップ。逆だよ逆。私の家あっちだって」
真逆の方向から路地を出ようとしていたので、止められるのは当然と言えば当然だ。
だけどこっちで良い。
「分かってる。でも流石にアイツがまだ近くにいるかもしれない方には行けねえだろ。面倒だけど迂回した方がいい」
普通に最短ルートで向かえば、件のコンビニ周辺へと向かう事になる。
あの時あの男が追ってこなかったという事は、もしかすると自分の身柄は冬野に譲られた形になっているのかもしれないと考えた。
だけどもう一度顔を会わせればどうなるかはわからなくて、それに冬野が吸血鬼にとって明らかに異常な行動をしているとあの男に思われれば、それはそれでどうなるか分からない。
まだ周辺にいるかは分からないが否定もできない以上、故に多少面倒でも。
歩くのが辛くても。迂回した方がいいだろう。
「確かに言われてみればそうだね。その方がいいかも」
「それに多分店員が通報してたりするだろうからな。なんかどっかでスマホ落としたっぽいから分からねえけど、滅血師があの場に回されててもおかしくは無いし、だとしたらお前にとっては結構面倒な……」
と、そこまで言って血の気が引いた。
「桜野君? どうかした?」
「あ、ああ! 冗談抜きでマジでヤバイ!」
去ったと思った危機は、形を変えて現在進行形で最悪な形で進行している。
下手をすればもう手遅れかもしれない。だけどとにかく今すぐにでも、大きなリスクを犯してでもあの現場へと戻らなければならない。
「コンビニの監視カメラ! レコーダーぶっ壊さねえとお前が吸血鬼だって露見する!」
「……ッ」
冬野も血の気が引いた表情を浮かべていた。隼人と同じく完全に頭から抜けてたらしい。
「と、とにかくコンビニだ! 戻るぞコンビニに!」
「う、うん!」
そう言って二人は走り出した。冬野に本気で走らせる訳にもいかなくて、隼人だけが先に行き冬野を一人にする訳にもいかないから。
あくまで一般的な全速力で。
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