子どもたちが屠殺ごっこをした話

 転移を終えたメリーさんは、辺りを見回し困惑した。

 ここがどこだかわからない。

 道に迷ったわけじゃない。どこにいるのか判断するための手がかりが無い。


 足に重みがかかっているから、地面に立っているのはわかる。だけどその地面が見えない。透明なガラスの上に立っているみたいだ。向こう側には何も無い。薄明かりに照らされた灰色の空間が、どこまでも広がっているだけ。

 足元だけじゃない。右も、左も、上も同じ。灰色で塗り潰された空間に、メリーさんは立っていた。


「何よここ……」


 不思議に思いながらも、メリーさんは歩き出す。

 早く聖杯を見つけないと、翡翠が死ぬ。不安に駆られて、自然と足が早まる。

 だけど、どこまで行っても灰色の景色は変わらない。目印になるものが何も無いから、先に進んでいるのか、あの灰色に近付いているのかどうかもわからない。

 わかってるのは、こうしている間にも翡翠は死にそうってことだけだ。だから、すぐに聖杯を手に入れて戻らなくちゃいけないのに、それっぽいものはどこにも見当たらない。


 全然、何も、変わらない。

 まだ間に合う? 翡翠は大丈夫? 考えれば考えるほど、嫌な想像が頭にこびりついて離れない。

 翡翠に死んでほしくない。聖杯が見つからなかったらどうしよう。私のせいなの? こんなに頑張ったのに! 翡翠は何も悪く……いや、悪い人だけど!


 灰色がぼやけている。メリーさんは目元をぬぐった。鼻をすすって、前へ踏み出す。


「おおい、ちょっと待て」


 横から声が聞こえた。メリーさんは驚いて飛び上がり、それから声がした方に顔を向けた。


 怖い人がいた。上半身が裸で、その上に直接コートを羽織っている。コートの柄は黒と黄色の虎模様で、凄く趣味が悪い。ズボンは白で、靴は革。ここは普通だけど、何だか高級そうだ。顔にはサングラスを掛けていて、目つきはわからないけど、翡翠に負けず劣らず怖そうだ。

 全体的にかなり怖そうな人。しかも筋肉がしっかりついていてマッチョ、なのにファッションセンスが最悪。そんな人が、この灰色の異空間に立っていた。意味不明すぎる。


「ぴええ……」

「声かけただけで泣かないでくれよ……」


 指摘されたメリーさんは、首をブンブンと横に振って、胸を張った。


「泣いてないもん! ちょっと焦っただけだもん!」

「焦るような事があったか?」

「急に変な格好の人が出てきたから……」


 サングラスの男は、まじまじと自分の格好を確かめた。初めて服が変だと言われた人間の反応だった。


「……わかった。この話は止めよう」

「そう。行っていい?」


 メリーさんは先を急ごうとする。よくわからないけどあまり近付きたくないし、関わりたくない。

 ところが男は言った。


「どこに行ってもしょうがないぞ。ここがゴールだ」


 そこでメリーさんは気付いた。男が手に持っているものに。

 木を削り出して作ったコップだ。何の変哲もない、それこそ子供が遊びで作ったか、原始人が使っていたかのようなコップだ。細かい彫刻もされていなければ、金銀宝石で飾り付けられているわけでもない。

 だけどメリーさんの目には、それがこの世で最も尊いものに見えた。


「聖杯!」


 叫ぶと同時に飛び出して、男が持つ聖杯に手を伸ばす。だけど手が届く直前に、男は腕を持ち上げて聖杯を手の届かないところにやってしまった。


「あっ!」

「まあちょっと待て」

「何するの! いじわるやめて!」

「意地悪じゃないんだよ。まあちょっとな、話を聞けって」

「それが欲しいの! 必要なの!」

「だから落ち着けって……痛い、痛い!」


 男の脛を蹴るメリーさん。マッチョでも脛は痛い。それでも男は手を降ろさない。


「話を聞けって、頼むから」

「でも、早く持っていかないと、翡翠が死んじゃう!」

「それは大丈夫だ」

「でも」

「大丈夫だ」


 そう告げる男の言葉には、根拠はないのに不思議な説得力があった。しぶしぶ、メリーさんは男から離れる。


「それで、話って何よ。どうして聖杯を渡してくれないの?」

「大事な話だ。まず、この聖杯は本当だったら世界にあっちゃならないものだ。それこそ世界をひっくり返すだけの力がある。それは、見ればわかるだろう?」


 メリーさんは改めて聖杯を見つめる。ただの木のコップなのに、物凄い大事なものだと思える。

 例えるなら、とても大きな山。あるいは水平線が広がっている海。見上げるほどに大きな木。そういうものを見た時と同じ気持ちが湧いてくる。


「だけどこれの真髄は、願いを叶えるとか、傷を治すとか、世界を支配するとか、そんなちゃちなものじゃあない。

 聖杯を手にするということは、主のお膝元、天国への切符を手に入れるということなんだ」

「誰でも天国に行けるの?」

「そうだ」

「どんなに悪い人でも?」

「そうだ」

「私みたいな怪異でも?」

「そうだとも」


 例え人としての生を受けたことのない怪異であっても、死後の安らぎを約束させる。世を儚んで天に召された円卓の騎士、ギャラハッドのように。聖杯の真の力はそういうものだ。


「じゃあ、翡翠を治して、その後天国に行けば……」

「それはできないんだよ」

「なんで?」

「父と子と聖霊は三位一体であり、彼が流した血は父の血と同じだ。つまりこいつは神の血、世界の創造主の力を受けた容れ物だ。

 人が手にするだけでも畏れ多い。ましてや力を勝手に振るえば、主の怒りは確実だ。


 メリーさんの表情が強張った。

 彼女は怪異だ。人の理はとっくの昔に外れている。その物語が語られ続ける限り、この世に存在し続ける。

 逆に言えば、語り継がれなくなり、誰にも顧みられることがなくなった時、怪異はこの世から消え去る。

 その先、怪異はどうなるか。人と同じような死を迎えるのか。誰にも認識されないまま、独りでこの世を彷徨い続けるのか。死を迎えるとして、意識はどうなるのか。人と同じような魂は持ち合わせているのか。天国はありえないとして、怪異も地獄に落ちるのか。


 わからない。人と同じように、怪異もまた死後を知らない。


 そこに神がいたのなら、一抹の希望にはなるだろう。ひょっとしたら、という可能性が生まれる。だが、神に見捨てられれば、その可能性も潰れてしまう。自分が無くなる瞬間に、全くの未知に放り出される。


 それはどんな怪談よりも古く恐ろしい物語だ。


「願いを抱かず、無垢のまま主の下へ召されるか」


 男の右手には赤いリンゴ。


「願いを叶えて、罪を犯して主に見捨てられるか」


 男の左手には木の杯。


「二者択一だ。さあ、全部聞いて、知った上で、どっちを選ぶ?」


 メリーさんは迷わず左手の杯を掴んだ。

 びくともしない。


「ふんぐっ……ちょっと、放してよ」


 力いっぱい引っ張るが、男は聖杯を掴んで放さない。


「ちょっと待て。話は聞いてたか?」

「当たり前じゃない。そっちが聞けって言ってきたから、大人しく聞いてたのに」

「……それじゃあ、俺が言っている意味はわかったんだよな? 正直に答えろよ、知ったかぶりとかダメだからな」

「わかってるわよ。子供扱いしないで」


 ぐいぐい腕を引っ張るが、男は微動だにしない。


「そっちを取ったらあの男は助かるけど、後で一生……いや、永遠に苦しむことになるんだぞ?

 逆にこっちは死んだ後、どんな罪も許されて天国で永遠に平穏に過ごせる。

 一瞬楽しんで永遠の苦しみを味わうのと、一瞬苦しんで永遠の平穏を手に入れるのじゃ、どっちが良いかなんて考えるまでもないだろう?」

「はあ!? 何言ってるの!?」


 メリーさんは男をキッと睨みつけた。


「翡翠を見捨てて天国に行ったら、永遠に後悔することになるじゃない! それだったら、私が苦しい思いをして翡翠を助けた方がずっといいわ!」

「いや、だけどな、落ち着けって……」

「落ち着いてるわよ。ちゃんと考えてる。子供がかんしゃくを起こしてるって思われてるのも、わかってる」


 男の手が僅かに緩んだ。


「だけどね、ちゃんと考えてるの。ずっと考えてたの。もしもこういう事になったらどうしようって。

 翡翠に会うまでは殺すか眠るかしかできなかったけど、翡翠の側で遊ぶようになってから、いろいろ考えられるようになったんだから」


 メリーさんは力を緩めない。


「そういう事をできるようにしてくれたのよ、翡翠は。だから翡翠を助けるためならなんだってする。

 ううん、翡翠が助からないのなら、天国なんて行かない方がいいわ!」


 渾身の力で腕を引っ張る。すると、聖杯はあっけなく男の指の間からすっぽ抜けた。


「あっ、えっ?」


 男は驚いた顔で聖杯を放した自分の手を見つめ、それから天を見上げた。


「……これ以上は、俺のワガママですか?」


 男はそうしてしばらく上を向いていたが、やがて顔を下ろすとメリーさんに手招きした。


「何よ。返さないからね!」

「そこまでみみっちくねえよ。餞別だ。その聖杯を出しな」


 メリーさんは訝しみながらも聖杯を前へ出す。

 すると男は、聖杯の上にリンゴを握った右手を掲げた。


「ふんっ!」


 そしてリンゴを握り潰した。赤い果実が砕け、リンゴの果汁が聖杯に注がれる。


「うわぁ……」

「持っていきな。普通の水でも、何なら海水でもいいんだが、こっちの方が飲みやすいだろ」

「ゴリラ……」

「ゴリラじゃねえよ。虎だよ、虎」


 虎柄のコートだから虎だろうか。趣味が悪いと思いつつも、メリーさんは頭を下げた。


「ありがとう。それじゃあ、私、行くから」

「おう。あー……一応言っておくが」

「まだあるの?」

「いや、二千年前の『大人』からのアドバイスだ」


 咳払いをして、男は告げる。


「自己犠牲は大いに結構。だけどそれで何もかも解決するわけじゃないし、お前が死んで悲しむ奴だっているはずだ。

 自分も大切にしろよ。自分を愛せなきゃ、身近な人を大切にすることもできないからな」


 メリーさんは黙って頷いた。いまいちピンと来ないけど、大切な話だと思った。その言葉はしっかり覚えていようと思った。


 そしてメリーさんは、両手でしっかりと聖杯を握って、叫んだ。


「私、メリーさん。今、翡翠のうしろにいるの!」

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