元カノは有名人

川上龍太郎

人は皆、殻を被る

 誰しも本当の自分を他人に見せることはそうそうない。

 人は殻を被ることで社会の中に溶け込み、人間関係を円滑にしていく。

 自分が他人に受け入れられないと考える人ほどその殻は厚くなっていく。

 僕、安形光明もそんな厚い殻をもつ一人に違いない。

 夜の通勤電車の窓に反射した男は、疲れ切った顔をした不愛想な一人のサラリーマンだ。

 これが本来の自分。

 他人と騒ぐよりも、落ち着いた空間にいたい。

 人混みは嫌いで、空いているところへ行きたい。

 残業のない日の仕事の後は、帰宅ラッシュを避けるためにカフェで時間を潰す。

 そんな僕が、今や若手の中のリーダー的存在だ。

 入社三年目の僕は、周囲と所謂円滑なコミュニケーションというのをとってうまく仕事を進めている。

 本当は他人に合わせ、他人と話をすることが嫌いな僕が。

 でもこんな毎日も嫌いじゃない。

 矛盾しているが、僕は他人と一緒に過ごしている時間は好きだ。

 気の置けない友人や仲間と過ごす時間は何にも代えがたい。

 詰まる所、僕は親しくない人間に、気を遣って話をしなくてはならない状況が嫌いなのだ。

 いや、本当のところは話す前に嫌がっているだけで、話しているときはそんなに苦ではないのかもしれない。

 だから、その時を過ぎれば案外楽しいことに気づく。

 人と接するのも嫌なことばかりではない。

 それに気づいたのはいつだったか。

 そう、美野美月、彼女と会ってからだ。


「ただいま」

 誰もいない部屋に向かって声を掛ける。

 当然返事はない。

 ネクタイを外し、ソファへ座り、テレビをつける。

 そのまま十分くらいぼーっとするのが、いつものルーティーン。

 せっかく新卒の時にテレビを買って、受信料まで払っているのに、このタイミングしかテレビを見ない。

 いや、もったいないからわざわざテレビをつけているとも言える。

 しかし、今日はタイミングが悪く、番組の間の宣伝の時間だ。

 それでもテレビを見続けていると、新しいドラマの宣伝をしている。

 主演は八年前にブレイクしてからメディアに出ずっぱりの若手女優。

 黒くきれいな長い髪に大きな瞳、天真爛漫な笑顔に明るい性格。

 さらに演技が上手いとあって、まさに無敵。

「昔から変わらないな」

 僕は呟く。

 この女優こそ美野美月。

 昔から演技が上手かった彼女は、常に人の輪の中心にいた。

 そんな彼女と僕が初めて話をしたのは、高校二年へ上がったばかりの時だった。

 僕はもう戻らない高校時代に思いを馳せる。

 

 美野美月は高校入学の時から異色のオーラをまとっていた。

 明るい性格で、周囲の人を魅了する雰囲気がある。

 そして圧倒的な可愛さ。

 彼女を芸能界の人間が放っておくはずがなく、地方ながら芸能事務所に所属していた。

 クラスの中心人物でもあり、いわゆる陽キャのグループの中心人物。

 天真爛漫で常に笑顔。

 怒ったところなど見たことがない。

 先生にも好かれるような、誰から見てもいい子だった。

 かくいう僕はクラスの端っこで、どこのグループにも属さない、影が薄く暗い男子生徒。

 二年になり同じクラスとなっても、僕らに接点などあるはずもない。

 当時は互いにクラスメイトとして存在を認識しているに過ぎなかった。

 

 一日の最後が体育の日は、校舎裏の自動販売機へ寄って、いちごオレを飲むのが僕の習慣だった。

 田舎にある僕らの高校は、住宅街に囲まれた場所にありながら、家に帰るまでに自転車でいくつもの坂を越えなくてはならず、帰る前に何か飲んでおかなければ帰り道で喉が渇いてしまうからだ。

 いちごオレなのは単純に自分の好みだ。

 春が終わり、夏が近づいてきたある日、いつも通りいちごオレを片手に自販機前のベンチに腰かけていると、女子生徒が自販機駆け寄り小銭を入れ始めた。

 そして、ボタンを押したのは…いちごオレだ。

「は?うそでしょ!」

 どうやら品切れになってしまったようで怒っている。

「チッ!お茶でも飲むか」

 そう言うと、何とげんこつでボタンを殴ってお茶を購入した。

 荒々しくお茶を取ると、キャップを開けながらこちらのベンチの方をくるりと向く。

「「あ」」

 僕と彼女とで互いに目が合う。

 彼女は驚いたことに、常にみんなに笑顔を振りまく美野美月だった。

 普段の彼女からは怒る姿など想像もつかない。

 彼女は不機嫌な顔から、目が合ったことで驚きの表情となり、最終的にいつもの笑顔に変化した。

「ごめん!ちょっと騒がしかったよね」

「いや、別に…」

「そっか、よかったー!それじゃあね」

 すぐに向きを変えると立ち去ろうとする。

 それを見て僕は立ち上がった。

「あ、あの!」

 普段は他人と関わりを持とうとしない僕が、その日は珍しく声を上げる。

「なに?」

 彼女は笑顔で振り向く。

 だが、気のせいか目が笑っていない気がする。

「そ、その、いちごオレ僕が飲んで品切れになったんだと思う。ごめん」

 その言葉を聞いた彼女は一気に不機嫌な顔に戻った。

「あなた、私をバカにしてるの?」

 彼女のものとは思えない、冷たい声。

「いや、違うって。これ、そんなに飲みたかったのかなって…。飲む?」

「あなたの飲みかけなんて飲むわけないでしょ。やっぱりバカにしてるのね」

「そ、そうじゃないよ。ごめん」

「こんなやつだったなんてって幻滅させたところ申し訳ないけど、このこと誰かに言いふらすんじゃないわよ」

 こちらを睨みながらそう言うと、今度は突然嘲るように笑った。

「まぁ、あなたが私について何を言ったところで、あなたと私でどちらが信じてもらえるか、考えるまでもないけれど」

 勝ち誇ったような笑みを浮かべると再び来た方向へ帰っていった。

「…なんなんだよ、一体」

 驚きはしたけれど、あの行為に幻滅したわけではなかった。

 そもそも彼女に大した興味は持っていない。

 それに、誰しも他人に見られたくない一面というのは存在するのだ。

 ゴリラのように自販機を殴るのはいいことではないが、彼女も日々ストレスを抱えながら生きているのかもしれない。

 しかし、最後の態度は何なんだ。

 彼女のことを天使と呼ぶヤツもいるそうだが、口止めに加えてマウンティングをして去っていったその様は悪魔のようだった。

「あの態度のほうが幻滅したよな」

 僕は一連の流れを思い出し、彼女をマウンティングゴリラと名付けた。

 

 僕もあまり優れた人間ではなく、マウンティングゴリラ以外にも心の中であだ名を勝手に付けていた。

 例えば美野美月の取り巻きは二人いて、僕は『牧場の牛』と『内股ギャル』と名付けた。

 牧場の牛はアイドルが好きなようで、もうイケメン!もう最高!などと叫んでいるのがよく耳に障る。

 モウモウとうるさいことと、その少しふくよかな容姿と合わせ、失礼ながら牧場の牛と名付けさせてもらった。

 内股ギャルは美容系に関心があるようで、派手なネイルや化粧をしてワーワーと騒ぎ立てていた。

 背は高めでスタイルはいいものの、びっくりするほどの内股なので内股ギャルと名付けた。

 このように不快な印象を持った者には、失礼なあだ名をつけることで、小心者の僕はストレスを発散していた。

 不快というだけで何か悪いことをしたわけでもないのだが。

 彼女らと一緒にいる美野美月を不快に思ったことがなかったが、不快どころか暴言を吐いて去っていった彼女は、今回めでたくマウンティングゴリラの称号を得ることになったのである。

 尤も、彼女らに直接苦情を伝えることができないので、そうやって名付けることで僕が多少なりとも勝った気になりたいというだけであり、深く考えると惨めになる。


 ある日、ホームルームの時間に内股ギャルが教壇に立って叫んだ。

「今から文化祭について決めていきまーす!まずはメインテーマから!」

 初夏に行われる文化祭は僕にとって最も退屈な時間の一つだった。

 去年は人気のない地味な大道具づくりに専念し、当日の非番の時間はすることがなく、いつもの校舎裏のベンチでぼーっとして時間を潰していた。

 テーマが何であれ僕には関係ないことだ。

 僕は話し合いの途中から本を読みだした。

「それでは今年の文化祭はお化け屋敷に決定!」

 ハイテンションな声とクラスのざわつきで、ふと黒板をみるとお化け屋敷に決まったようだ。

 続いて役割分担の時間になったので、僕はメインでない余り物の大道具担当を希望した。

 僕以外誰も志望しなかったので、他の担当のじゃんけんで負けた佐藤君とともに担当することになった。

 美野美月は衣装担当および当日のキャストになったようで、この役は最初、人気がそれほどでなく枠が余っていたものの、残りの枠は彼女がいることで人気が集中し、大人数でじゃんけんをしていた。


 文化祭直前になり、いよいよ準備も大詰めになった頃、僕ら余り物の大道具担当は工具が必要なこともあり、二人で工作準備室に籠って作業をしていた。

「そろそろ昼休憩にしようぜ」

 この班のリーダーである佐藤君がそう言ったので僕らは教室へ戻り、昼ご飯を食べた。

 他の仲間と食べ始めた彼とは対照的に、僕は教室の隅でひっそりと食べる。

 食後に本を読んでいると、佐藤君が近づいてきた。

「安形!すまん。俺、買い出し頼まれてさ。一人か、間に合わなそうなら暇なやつに手伝ってもらって、やっといてくんね?」

「え、あー」

「そんじゃ、頼んだ!」

 返事を返す前に頼まれてしまった。

 呼び戻そうとしたが、何やら意気揚々としていた彼はもうすでに去っていた。

 僕は弁当箱を片付けると、再び工作準備室へ戻った。


「これ、終わらないよなぁ」

 僕は材料の山を見ながら呟いた。

 人手が足りないのは明らかだが、僕には手伝ってもらえるほど親しい人はいない。

 こういう時にぼっちというのは辛いのだ。

「兎も角、やるしかないよな」

 工具を片手に作業に取り掛かろうとしたその時、準備室の戸が開いた。

「佐藤くーん!養生テープとガムテープも頼みたいんだけど…」

 そう言いながら笑顔で入ってきたのは美野美月だった。

「なんだ。あなた一人なのね。他の人はどこ?」

 すぐに笑顔が消えて威圧的な態度になる。

「買い出し頼まれたって言って行っちゃったけど」

「チッ、遅かったか」

「あれ?頼んだのって美野さん?」

「そうだけど…」

 彼らが喜んで買い出しへ出かけた訳が分かった。

 一人納得していると、彼女は準備室を見渡していた。

「あなた、これ一人でできるの?」

「ん-、どうかな」

「どう見ても間に合わないでしょ」

「かもね」

 彼女は深いため息をついた。

「手伝うわ。何するの?」

「え?自分のところは大丈夫?」

「大丈夫よ。作業は男子がやってくれたし、代わりに頼まれた買い出しもやってもらってるし」

「そうなんだ」

「私のせいで遅れが生じるのは嫌なのよ。ここの作業は余裕って言ってたから買い出し頼んだのに、使えないわね」

 どうやら彼女は自分の魅力を自覚し、それをうまく使って楽に過ごしているようだ。

 やはりマウンティングゴリラにふさわしい最悪な性格だ。

「で、何するの?」

「今この仕掛けを作ってるんだ。この材料はもう切ってあるから、あとはこの図の感じで組み立てるだけ」

「ふーん」

 そっけない返事をすると黙々と作業を始めた。

 僕も黙って再開する。


 途中でふと我に返り、美野美月が作業しているか確認する。

 彼女は意外にも真面目に作業をしている。

 しかもかなり要領がいい。

 そもそもこのようなイベントに真面目に取り組み、自分のせいで遅れを生じたくないということは、案外そこまで悪いやつではないのかもしれない。

「何?」

 彼女を見ていたことに気づかれた。

「いや、真面目に作業するんだなと思って」

「したらおかしい?」

「そういうわけじゃないけど」

「ごめんなさいね、自販機殴るような女で」

「そのことだけど、何でそんなに自分の性格を隠すのさ。」

「あなたに関係ある?」

「…」

 関係あるかと言われれば、ないに決まっている。

 彼女とはただのクラスメイト。

 それ以上でも、それ以下でもない。

 僕は黙るしかなかった。


「すごい、だいぶ片付いたよ」

 彼女のお陰で作業はかなり捗った。

「まだまだよ。あなた、作業遅いから」

「…ごめん」

 再び沈黙が訪れる。

「いちごオレ、そんなに好きだったの?」

 この間から気になっていたことを聞いてみた。

「…別に、そんなにでもないわ」

 一瞬間があった。

「苺、好きなの?」

 いちごオレが好きだという前提で話を進める。

「苺というより、苺と牛乳とかクリームとかとの組み合わせがいいのよ」

「なるほど、苺のショートケーキとかもうまいよね」

「まぁ、そうね。たまーに食べるわ。校門を出て坂下ったところにケーキ屋さんあるの、分かる?」

「あ、春風堂?あそこのショートケーキってオーソドックスなんだけど、クリームの甘さがちょうど苺と合っていておいしいんだよね」

「そうなのよ。奇抜なデザインとか甘すぎるクリームとかじゃなくて、普通のショートケーキなのに凄くいいのよ」

「よく行くの?」

「んー、行くことは行くわよ。でも高いじゃない」

「そうなんだよね」

「だから苺砂丘を食べるのよ」

「苺砂丘か!あれは安いのにホントにおいしいよね。苺味のクリームをスポンジで挟んで粉砂糖がかかってて」

「そうなのよ!クリームは凄く濃い苺の味で、スポンジも柔らかくて」

 いつも穏やかな笑顔の彼女が、満面の笑みで目を輝かせながら話している。

 まるで好きなものを親に話す子供のようだ。

 やはり根はそんなに悪い子ではないみたいだ。

 またしても見たことのない彼女の一面を見た気がした。

「僕も学校の帰りに食べてくことがよくあるんだ」

「わたしも親に迎えに来てもらうときは、あそこで食べながら待ってるのよ」

「そうなんだ。店内も程よくおしゃれだから落ち着くよね」

「そうね。でも最近は火曜の定休日に迎えに来てもらうことが多いから、あんまり行けていないのよね」

「なるほど。それでいちごオレ…」

「!」

 返事が来ないので隣を見ると固まっていた。

 どうやら彼女は、いかに苺が好きかということを、ずっと大して親しくもない僕に向かって熱心に話していたことに気づいたらしかった。

 我に返った彼女は、再び仏頂面に戻る。

「あのときはキレて悪かったわね!」

 悪かったと言っている割には全く謝っている気配はない。

「いや、今の話を聞いて納得できたよ。ホントに苺好きなんだね」

 僕がそう言うと彼女は少し俯いて目を逸らした。

「どうして、そこまでして他人の目を気にするの?」

 床を眺めていた彼女はゆっくりと口を開く。

「逆にあなたはどうしてそこまで他人と関わらないのよ」

 僕も少し俯いてそれに答える。

「…他人に同調して生きていくのが面倒だから。自分の考えや行動は、他人に影響されたくない。他人との興味のない会話は僕に対して何も生み出さないし、そんな時間があるなら本でも読んでいた方が役に立つ。他人と頑張って同調して何も楽しくない時間を過ごすなら、自分が楽しいと思ったことや自分に役立つことをしていたい」

 彼女はこちらを向くと、眉を顰めた。

「つまんない人間ね」

「そんなことはないよ。僕はそれでいいと思ってる」

 再びお互いに俯く。

 すると落ち着いた口調で彼女が沈黙を破った。

「人は一人では生きていけないのよ。例え自分がそれを望まなかったとしても。誰かと時間を共有して、他愛ない会話をする。それ自体が楽しいことだってある」

 いたずらっ子の顔になって、彼女はこちらを見て話を続けた。

「それに、あなたさっき春風堂のこと話してたとき嬉しそうだったわよ」

 僕は少し照れくさく、目を逸らす。

「そんなにでもないよ」

「嘘ね。あなたも人と話していて楽しいと感じるときはあるはずよ。そうではない人もいるかもしれないけれど、少なくともあなたはそういうタイプの人間ではないことは私には分かる」

 僕はどこか言い負かされた気分になり、言い返す。

「そんなこと言ったら君だって普段見ないような顔で話していたじゃないか」

「べ、別に私は!」

「私は?」

 嬉しそうな様子を見ていた僕に、今更話を楽しんでいなかったなどと返せずに黙り込む。

「そのままでいいじゃないか」

「え?」

 突然放った僕の言葉に、彼女は戸惑いの表情を見せた。

「他人にいい顔なんてしなくても、自然な自分でいいじゃないか」

 再度彼女に言う。

「無理よ」

 沈んだ声が返ってくる。

「誰しも素の自分でいられることなんてないのよ。多かれ少なかれ人間は殻を被って人と接する。受け入れられる人物像に合わせるために。私は他人に酷い態度をとってしまう。空気が読めず自分だけが楽しんでしまう。私という人間が社会に受け入れられるためには、それだけ厚い殻を被って過ごすしかないのよ」

 彼女はどこか諦めたような顔をしていた。

「君は殻を被った自分が万人に好かれていると思っているみたいだけど、正直、僕は君にそれほど関心がなかったから、あれを見ても多少驚くくらいだったよ」

「ふーん」

「案外、そんなに無理に自分を作らなくても受け入れてくれる人はいるんじゃないかな」

「分かんないわよ、そんなの」

「別にいいじゃないか。ゴリラみたいに自販機を殴ったり、マウンティングしたり。君の周囲の人間ならともかく、もともと関わろうとも思わなかった僕にはそんなこと…」

 関係ない、と言おうとしてさすがに言い過ぎではないかと口を噤んだ。

 彼女は肩をプルプルと震わせていた。

 親しくないとはいえ、さすがに自分には関係ないなどと言われたら彼女も悲しむだろう。

 これだから他人と話すのは気を遣うので面倒なのだ。

 僕は謝ろうとしたが、彼女が何か言っていることに気づいた。

「…ですって?」

「え?」

「誰が!マウンテンゴリラですって!?」

 彼女は僕の発言に悲しんでいるのではなく、何とゴリラと呼ばれたことに怒っていた。

 これは予想していなかった展開だ。

「違うって!マウンテンじゃなくてマウンティング!マウンティングゴリラだよ」

「そんなことどうでもいいわよ!」

 慌てて頓珍漢な答えをしてしまったところ、火に油を注ぐ結果となってしまった。

 すると突然戸が開いた。

「あ、佐藤くん!」

 般若のような顔が一気に笑顔に変化する。

 僕はその変化に舌を巻いた。

「美野ちゃん!これ買ってきたよ!」

「ありがとう!」

「ところで、なんで美野ちゃんがここに?」

「実は養生テープとか買ってほしいものがもう少しあったんだけど、それを伝えに来たらもうすでに出かけたっていうから」

「ごめん!買いに行くよ!」

「ううん。また誰か行く人がいればその人に頼むよ。それで、この部屋に来たら安形くんが大変そうだったから手伝ったの」

「え!手伝ってくれたの?別によかったのに」

 よくねーよ、と僕は心の中で呟いた。

「私が佐藤くんに頼んじゃったからだし、時間もあったから大丈夫だったよ。作業も楽しかったし」

「そっか。それならいいけど」

「でも私が力仕事頑張ってやってるのを見て、安形くんがゴリラみたいって言ってきたの」

 突然矛先が僕の方に向いた。

「え、さすがに安形はそんなこというやつじゃ…」

 二人が僕の方を見るが、嘘が混じっているとはいえゴリラみたいと言ったのは本当なのでうまく言葉を返せない。

「え、本当に言ったのか?」

「え、えーと、ゴリラみたいっていうのは、その、僕はゴリラが好きで、かわいいと思うから、ぼ、僕の誉め言葉として言ったわけで…」

 苦し紛れの言い訳をしていると佐藤君がコイツマジで言ったのかと言いたげな表情でこちらを見てくる。

 僕は冷や汗がダラダラと湧き出してくるのを止められない。

 そして彼の後ろでは、こちらを指さして無音で大爆笑しているマウンティングゴリラ。

 クソッ!

 やっぱり彼女の性格は最悪だ。


 文化祭当日になり、クラスのお化け屋敷が始まった。

 担当箇所は、準備の時に製作したものと同じ人がほとんどだ。

 僕と佐藤君はトロッコなどの目立つ大道具などとは別の、地味な仕掛けを担当したので、当日もトンネルで音を鳴らすなど地味な演出を担当していた。

 僕は午前中の担当で、午後からは佐藤君と交代する。

「安形、交代の時間だ」

「あ、うん。じゃあよろしく」

「おう」

 狭い場所でお互いに体の位置をなんとか入れ替えて、僕は教室の外に出た。

 教室の外には長蛇の列。

 どうやら想像以上にウチのクラス展は人気なようだ。

「ここのトロッコの完成度エグいらしいぜ」

 列に並んでいる男子生徒かそう言っている。

 どうやらトロッコが評判らしい。

 あれは大人数で作り上げた力作だ。

 僕らが作った地味な装置よりも格段にインパクトがある。

 佐藤君はともかく、僕は最初からそれが分かっているので別に落胆などはしないが。

「トロッコか。にしても、さっきここの宣伝して回ってた人知ってる?」

「知ってるよ、美野先輩でしょ。超有名人じゃん」

 女子生徒に男子生徒が答える。

 どうやらこの二人は一緒に来ているらしい。

 全国的に有名というわけではなかったけれど、美野美月はおそらく校内一の知名度を誇っていたと思う。

 生徒会長の名前を知らない人も、彼女の名前は知っているということは多々あった。

「あの人すごいかわいいよね。同じ人間なのかって感じ。芸能活動してるって聞いて納得」

「ほんとにな。見た目だけじゃなくて性格もいいんだよな」

「どうせ美野先輩目当てにここ来たんじゃないの?今はいないみたいだけど」

「そんなことないさ」

「どうだか」

「ほんとだって。かわいいといえばキミだって…」

 男子生徒と女子生徒が見つめ合い、顔を逸らす。

 ベタなことやりやがって。

 どこの学校でもそうだろうが、この文化祭でカップルが成立することは非常に多い。

 そしてそのカップルが別れる割合も非常に高い。

 この二人もくっついたところでどうせ別れるのだろう。

 高校生カップルが数年続くことも珍しければ、結婚までいく割合は相当低い。

 ならば付き合うという行為は結局のところ何の生産性もない無駄な時間なわけだ。

 彼が云々、彼女が云々と文句を言う人間がこの世に多いが、そんなに嫌ならば初めから付き合わなければいい。

 友人関係に文句を言う人間も同様だ。

 僕はそのために下手な馴れ合いは良しとしない。

 自分が楽しいと感じたことをし、自分がやりたいように生きる。

 それこそ人生で求めるべきことではないか。

 僕はそんなことを考えながら教室を後にした。


 孤独な人間に文化祭というのは酷なものだ。

 自分がいなくとも誰も困ることはないだろう。

 そして居たとしても誰も喜びはしないだろう。

 文化祭を休んだとしても孤独を感じ、行ったとしても誰かと回ることもなくひたすら孤独な時間を過ごすことになる。

 午前に役目を終えた僕は、午後は自由時間なわけだが果たしてどこに行けばいいのだろう。

 普通の人間は友達と展示を回ったりするのだろうが、僕には共に回る友人さえいなければ、そもそもあれらの何が楽しいのかわからない。

 大層つまらないテーマパークよりも低クオリティなアトラクションのどこがおもしろいのか。

 とはいえ本人たちが楽しんでいるのであれば何も言うことはない。

 邪魔者はどこかで時間を潰すだけだ。

 僕はいつもの自販機前のベンチへ向かう。

「あっ、ちょっとぉ、やめてよぉ、あはは」

 妙な声がして、ベンチを死角から覗き込む。

 カップルが二人でいちゃついていた。

 チッ、ここもか。

 僕は彼らから死角になる壁にもたれかかった。

 何気なく空を見上げると雲一つない青空が広がっている。

 僕もこれくらい澄んだ心を持っていれば、彼らを素直に祝福できるのだろうか。

 もっと文化祭を楽しめたのだろうか。

 もっと他人と当たり前の日常を過ごすことができたのだろうか。

 不意にこの間のことを思い出す。

 美野美月に言われた、僕が本当はもっと他人と話したいと思っている言われたこと。

 今思えば、僕も他の人と同じように楽しみたいと考えているのかもしれない。

 しかし、楽しむことができないというのもまた事実だろう。

 僕には普通の人間の考えや感覚なんてものは備わっていないのだ。

 他人が幸せだと捉えるものを、僕には幸せだとは捉えられない。

 ふと耳を澄ますとカップルの音が聞こえなくなった。

 やっとどこかへ去ったようだ。

 僕は壁から離れ、ベンチへ向かった。

「「うぉ!」」

 急に反対側の壁から出ててきたゾンビとお互いに驚きの声をあげる。

 よく見るとゾンビの仮面をかぶった女子生徒。

「なんだ、あなただったのね」

 聞き覚えのある声を発した女子生徒はその仮面を外した。

「あ、マウンティングゴリラ!」

「あ?」

 ムスッとしている顔はまさにゴリラそのものだった。

「ごめんごめん、美野さん。まさか美野さんだと思わなくて。その仮面どうしたの?」

 ゴリラみたいと言って怒らせたことを思い出し、慌てて話題を変える。

「午前中に宣伝して回ってたら、いろいろもらったのよ。これもその一つ。私がいると人が集まっちゃうからこれ付けて逃げてきたとこ」

「そうなんだ」

「っていうか、もしかしてあなたもここにいたカップルを待ってた?」

「そうだよ。美野さんも?」

「そうね。さっさとそこの扉から校舎へ入っていってくれたからよかったけれど」

「美野さんはここに何しに来たの?人が寄ってくるから避難?」

「それもあるけれど、そもそもこういうイベントはそこまで好きなわけじゃないのよ」

 意外な反応が返ってきた。

「あ、別に嫌いなわけじゃないのよ。さっきも宣伝しながら友達と回っているのも楽しかったし。でもずっとはしゃいでいるのは疲れちゃう」

「それでここに来たのか」

「ここなら誰も来ないと思ってね。でもカップルはいるし、あなたはいるし」

「ご、ごめん」

「別にいいわよ。でもあなただけよ、この私をゴリラなんて呼ぶのは」

「それはごめん」

「まぁ許してあげなくもないわ。このいちごオレを奢ってくれたらね」

「え」

 女の子をゴリラ呼びした手前、奢らないわけにはいかない。

 それでもどこか嵌められたような気がして悔しい。

「わかったよ」

「そ。じゃあよろしく」

 僕は渋々ポケットから財布を取り出そうとする。

 しかし、彼女は突然僕の手首をむんずと掴んだ。

「こっち!きて!」

 僕の腕を引いて走り出した。

 彼女のか細い腕のどこにそんな力があるのかと思うほどの強力な力で引っ張られ、腕が外れそうだ。

 僕らはふたたびベンチからの死角に入り込んだ。

「いてて。なんだよ、急に」

「しっ!」

 人差し指を唇に当ててそう言うと、自販機前のベンチを覗き込む。

 僕もそれにならって同じく覗き込む。

 すると五人組の男子生徒たちが戸を開けて出てきたところだった。

 なるほど。

 彼女はこれを察知して隠れたのか。

 少なくとも校内では有名人である彼女は、人が近づいてくることに敏感なようだ。

「どうしよう。待とうか?」

「たぶんしばらくかかるわよ」

 見ると彼らは飲み物を買ってベンチで談笑していた。

「残念だけどまたにするわ」

 たしかに時間がかかりそうだ。

 だが僕はここで妙案を思いついた。

「この後何か用事ある?」

「別に?ないけど?」

「よかった。なら春風堂へ行かない?」

「んー、学校から出ていいのかな」

「ばれないし大丈夫だと思うけど…」

 薄々感じてはいたが、彼女は意外にも真面目な人間だ。

「この時間なら人通りも少ないし、行くなら今だよ」

「わかった。行くわよ」

「まぁ怒られたらその時考えればいいよ」

「あなたって意外と不真面目ね」

 彼女は穏やかな笑みを浮かべてそう言った。

 不真面目なんてことはないだろうが、かなり現実主義的なところがあることは間違いない。

 大抵のことは利点と欠点を天秤にかけて決めている。

 文化祭中は学校の外に出るなとは言われていないし、もしバレたとしてもお咎めくらいで済むだろう。

 そんなことは春風堂に行けるのであれば、甘んじて受け入れようということだ。

 早速僕らは春風堂を目指して歩き始めた。


 坂を下った先にある、古い木造建築の建物が春風堂だった。

 和洋折衷の独特な雰囲気の店だ。

 店に入ると清潔ながら過度な装飾もないシンプルな店内。

 僕はこの雰囲気が好きだった。

「あれ、美月ちゃん。いらっしゃい。どうしたの?こんな時間に」

「こんにちは。文化祭ちょっと抜け出して来ちゃいました。」

 店主であろう中年の女性に、小悪魔のような笑顔を向ける。

「あらそう。あれ、君もよく来てくれるよね」

「あ、はい。いつもお世話になっています。安形光明といいます」

「こうして話すのは初めてだね。いつもありがとう」

「いえ、こちらこそ」

 普段から思っていたが、やはり店主さんもこの店のように優しい雰囲気だ。

「ここで食べてく?持ち帰る?」

「あの、いつもの席で」

 いつもの席とは何だろう。

「え、いいのかい?」

「ええ」

「ふーん・・・」

 店主さんは僕らを交互にまじまじと見つめる。

 そして僕の方見て言った。

「キミは美月ちゃんの彼氏か何か?」

「え?」

「あははは。やだなぁ、ただの友達です。私に彼氏なんていませんよ」

「そうなの。ごめんね、変なこと聞いちゃって」

 さすがに彼女の恋人になるとは考えたこともなかったが、友達と言ってもらえたのは素直に嬉しかった。

 こうして誰かに友達と言ってもらえたのは何年ぶりのことだろうか。

「じゃあどうぞ。ゆっくりしていって」

「ありがとうございます」

 店主さんがそう言うと、美野美月は机が並ぶ左側と逆の右側へ向けて歩き出した。

「え、どこ行くの?」

「いいから。来なさいよ」

 彼女はまたしてもその怪力で僕の腕を掴むと、奥へと進む。

 奥にあったのは個室だった。

 僕らは席に座る。

「すごい、こんなところがあったのか」

「私の特等席よ」

 自慢げな顔でそう告げる。

「もともとはあっちの普通の席で食べてたのよ。でもほら、人が集まっちゃうでしょ?」

「そういうことか」

「お店の迷惑にもなるし、しばらく持ち帰ったり外で食べたりもしたんだけど、店主さんが物置になってたこの部屋をあけてくれたのよ」

 そう言われて見ると、この部屋は全然飾り気がない。

 僕はメニューを手に取った。

「いちごオレは奢れなかったけど、ここは僕が奢るよ」

「何言ってるの?当然じゃない」

 遠慮されたりお礼を言われるのが普通だと思うのだが、当然という答えが返ってくるところはさすがだ。

「まぁ文化祭の準備も手伝ってもらったしね。ショートケーキでもいいよ」

「最初からそのつもりよ」

 何て図々しい女なんだ。

 遠慮というものがまるでない。

 僕はお冷を持ってきた店主さんにショートケーキ二つを頼んだ。

「ここで送迎してもらうのは毎日じゃないのか」

「仕事が次の日にあるときだけよ。親に荷物持ってきてもらって駅まで送ってもらう」

「仕事は東京?」

「そう。前日の夜に新幹線で向こうへ行くのよ。向こうでは安めのホテルに泊まるわ」

「大変なんだな」

「そりゃね」

 よくやるなと感心した。

 自分ならそんなに面倒なことをすることはないだろう。

 大学へ行って就職するというようなレールに乗った生き方は、面白味に欠けるが自分で道を切り開くよりも遥かに楽な生き方に違いない。

 僕の学力では、大学のランクが下がっても就職できないということはないだろうが、芸能界というのは当たらなければ生活さえまともにできない状況に陥るだろう。

 彼女であれば何かしらの職に就けそうな気もするが、それでも大変なことは変わらない。

「芸能事務所に入ってるんだっけ。アイドル?」

「あなた何も知らないのね」

「ごめん」

「女優よ。目指しているのは」

 女優と言われて納得した。

 常日頃から完璧に猫を被った彼女はきっとやっていけるはずだ。

「何よ、その顔は」

「へ?」

 突然不機嫌な顔をされた。

「女優ってピッタリじゃないかとか思ってるんでしょ?悪い意味で」

「いやー、まぁそうなんだけど」

「別にいいわよ。私だってそう思って始めたんだから」

「そうなの?」

「そうよ。別に有名になりたいとかそういうのがメインじゃない。ただ、私は容姿に恵まれて、これだけキャラづくりができる。この力を女優なら活かせると思ったのよ。そりゃ、上手くいくまで大変だろうし、そもそも上手くいくかは分からない。でも、挑戦してみる価値はあるでしょ?」

 そう話す彼女は輝いて見えた。

 僕は将来のことをあまり深くあれこれと考えたことはなかった。

 自分は何が得意で、何が好きで、ということが分からないから考えても仕方がないと思っていた。

 でも、だからこそ挑戦してみることが大切で、やってみないことには自分が向いているのか向いていないのかということさえ分からない。

 彼女はそう考えているのだろう。

「そっか。君らしいな」

 僕はふふっと笑った。

「何よ」

「ううん。別に」

 彼女は怪訝そうな面持ちでこちらを見ている。

「ところで、今のところ女優の方はうまくいきそうなの?」

「まぁ割と高評価は貰ってると思うわよ。ちゃんと媚も売ってるし」

「媚売ってるって…」

 こんなことは普通堂々とは言わないだろうが、そこが彼女の彼女たる所以だ。

「でも芸能界って変な人とかいるんじゃない?」

「そりゃいるわよ。でも私はそういうのに関わらないと仕事が来ないなら、別に関わらなくてもいいと思ってるから。女優だけが私の人生じゃないもの」

 彼女にとって女優というのは、自分の中の可能性の一つに過ぎないのだろう。

 一つの可能性も考えられない僕とは大きな違いだ。

「そういえば来月にオーディションがあるのよ」

「へぇーどんな?」

「帝国テレビの日曜ドラマのヒロイン」

「は?」

 僕は耳を疑った。

「もう一回言って」

「だから、帝国テレビの日曜ドラマのヒロインよ。何度も言わせるんじゃないわよ」

「えっ、それって全国区の、しかもゴールデンタイムのドラマじゃないか!」

「そうよ」

「すごいな」

「まだエントリーするってだけよ」

「それでも受かる見込みがあるってことでしょ?」

「まぁね。もともとヒロインは決まってたけどダメになって、代わりを探そうっていうオーディションなのよ。そこで以前私の演技を見たことがある監督が直々に声を掛けてくれたってわけ」

「じゃあほぼ確定じゃないか」

「油断はできないけど、たぶんそうね」

 僕はとても驚いていた。

 彼女のことをそもそも知らなかったから、そんなに凄い人だとは思っていなかった。

「その役で認められれば一気に有名人だね」

「まぁそう上手くいくか分かんないわよ」

 そう言いつつも彼女は得意げに話す。

 話をしていると注文していたショートケーキがきた。

 見た目は極めてオーソドックスなショートケーキだ。

 待ちに待ったショートケーキに彼女は目を輝かせている。

「では食べましょうか。いただきます」

「いただきます」

 口に入れると柔らかいスポンジと甘いクリーム、そして酸味のある苺が一気に口の中へ広がる。

 正統派ながら適切なバランスを保ったこのケーキは他ではなかなか味わうことができない。

「やっぱこれよね!」

 彼女に目を向けると、本当に嬉しそうな顔で食べている。

 僕が正面にいることを忘れているかのようだ。

 忘れられているのか、どうでもいいと思われているのか。

 とにかく僕は彼女に意識をとられて、そこから普段通りにケーキの味を堪能した記憶がなかった。


「ごちそうさまです」

 会計を済ませていると、横にいる美野美月は苺砂丘をじっと見つめていた。

「それも買う?」

「いや、いいわよ。もう帰るし」

「歩きながら食べればいいじゃないか」

「じゃあ、買う」

「すみません、苺砂丘一つお願いします」

 高校生にしてはかなりの出費だが、普段出かけることもないので清算に困ることはない。

 僕らは店主さんにお礼を言って店を出た。

 外は店の中よりも少し暑さがあった。

 夕方になる手前の、一日の中で最も暑い時間帯だ。

「うんっ、おいし!」

 横を見ると、早速苺砂丘を開封して食べ始めていた。

 これまた本当に嬉しそうな顔。

「よく食べられるな」

「何よ。文句ある?」

「そういうのってもう少し食べたいってくらいが、ちょうどいいんじゃない?」

「これを食べきっても、その領域には達しないわよ」

 ハムスターのように頬を膨らませながら、そしてもごもごと話しながら食べている。

「あはは。そっか。それにしても、たまには誰かと食べるのもいいかもしれないな」

「そうね」

 彼女の食べるペースが落ちた。

「あの個室に案内したのはあなただけなのよ」

「え、そうだったの?」

「私がいるときは付き合ってあげてもいいわよ。今回みたいに」

 彼女も楽しかったということでいいのだろうか。

 そうであれば僕も嬉しい。

「ホント?じゃあその時はよろしく」

 僕らは教室へ帰り、クラス展へ戻った。

 文化祭のクラス展は見事に最優秀賞をとっていた。


 それから数週間たったある日、外は土砂降りの雨だった。

 僕は休み時間に思うがままに散らばっている生徒たちの向こうに広がる、分厚い雲を眺めていた。

 だが、ふと美野美月を視界の端に捉えた僕は違和感を覚えた。

 心なしか元気がないように思える。

「美月!今日の放課後暇?街中行かない?」

「え、うーん。ごめん!用事があって」

「そっかー。忙しいね」

 牧場の牛に誘われていたものの、断ったようだ。

 仕事が忙しいのだろうか。

 元気がないのはそのせいなのか?

 彼女とは文化祭以降何も話していなかったが、最後に話していたオーディションはこのくらいの時期だったはず。

 あれはどうなったのだろうか。

 疑問に思っているとタイミングのいいことに内股ギャルが聞いてくれた。

「オーディションどうだった?」

「ダメだったー」

 それを聞いて僕は意外に落ち込んだ。

 他人事でしかないのに。

「そっかー。次あるの?」

「うん。一応もう一役」

「そうなんだ。次は絶対行けるよ!」

「そうだね!ありがとう!」

 直接話すつもりはなかったが、僕が話さなくてよかったと思った。

 僕は相手に気を遣った会話が苦手だ。

 絶対に相手を怒らせるか、悲しませてしまうに違いない。

 僕は席を立つと次の授業の物理室へ行くために教室を後にした。


 帰宅部の僕は、放課後にそのまま帰るのが最近の定番だったが、天気予報通りにこの後雨が止むことを祈って、雨宿りのために僕は春風堂へ向かうことにした。

 春風堂に入ると店主さんが笑顔で出迎えてくれた。

「いらっしゃい」

「どうも。お久しぶりです」

「美月ちゃんなら奥にいるわよ」

「え?」

「なんだ。待ち合わせしていたわけじゃないの?」

「はい」

「会っていけば?たぶん喜ぶわよ」

 そう言われて少し考えを巡らせた。

「じゃあ、そうします」

 僕は奥の個室へ向かった。

 個室の戸を開くと彼女は片肘をテーブルについて、物思いに耽っていたようだった。

 その横顔はどこか儚げで、今にも崩れてしまうのではないかという美しさを持っていた。

 僕が入ったことに気づくと、彼女は目だけをこちらに向けた。

「あなたね」

「うん。ここいいかな?」

 彼女が頷いたのを見て僕は向かいに座る。

「オーディション、ダメだったみたいだね」

「聞いていたの?」

「うん。たまたま耳に入って」

「盗み聞き、よくないわよ」

 そう言う彼女は教室でよく見る笑顔をしていた。

「そんなに辛いなら、やめてもいいんじゃないか?」

 彼女を見ていて咄嗟にそんな言葉が出てきた。

 言ってしまった言葉の意味を考えると、段々と血の気が引いてくる。

 彼女は真顔でこちらを見ていた。

「何?私には無理ってこと?」

「そうは言ってないよ」

「あっそう」

 彼女はリュックサックを背負い、鞄の紐を肩にかけると立ち上がった。

「どこ行くの?」

「帰る」

 こちらを見ずに出て行ってしまった。

 やってしまった。

 こうやって僕は何人の人を傷つけてきたんだろうか。

 相手の求める言葉を与えることはおろか、相手が求めていない言葉をかけてしまう。

 人と話をするということは僕にとっては難しいのだ。

 個室の戸が開いたので見ると、店主さんがお冷を持ってきてくれたようだった。

「あ、ありがとうございます」

「美月ちゃん、学校に戻るって言ってたけど何かあったのかしら」

 学校?

 帰ったんじゃなかったのか?

 しかし、考えてみれば彼女はここで親と待ち合わせをしていたはずだ。

 ここを去ったのは僕が居たからか。

「すみません、僕も学校へ戻ります」

「あら、そう?」

「すみません、また明日来ます」

 僕は二回も謝ると学校へ向けて坂を駆け出した。


 空は真っ黒な雲に覆われていたが、雨は小雨になっていた。

 彼女が学校のどこにいるかは分からない。

 しかし、学校の中でも僕が思い当たる場所は、校舎裏にある自販機のところのベンチ一か所しかなかった。

 そこに居なければ僕には会いたくないはずなので潔く帰ろう、と思いながら僕はベンチの方を見た。

 彼女は脚を開いて膝の上に腕を乗せ、地面を睨んでいた。

 声を掛けるのも迷うような勇ましい姿だ。

「分かってるわよ。あなたが言いたかったことは」

 彼女は僕が近寄ったことを気づいていたようだった。

「さっきはごめん。傷つけようと思って言ったわけじゃないんだ。なんて言ったらいいのかな」

「本当に嫌だったり、続かなかったり、できる見込みがないと思うのなら、もっと他にいい生き方があるんじゃないかってことでしょ?」

「うん」

 彼女は僕が思っていたことを言い当てた。

「今回のオーディションがダメだったのは、演技じゃなく、経歴や実績がないからなのよ。これは今回だけの話じゃない。たしかに他の子はそれらがあるもの。ヒロインになった子は別の役だった子。私が今度受けるのは本来その子がやるはずだった役」

「そうだったのか」

「リスクを避けるために私を選ばなかったのは分かるわよ、それでも・・・」

 彼女は唇を噛みしめると、立ち上がった。

「やってやるわよ!ここでやめるわけにはいかない。まだ諦めるときじゃない。ヒロインに私を選ばなかったこと、後悔させてやる!」

 彼女は僕に向かって宣言した。

 そんな彼女へ、僕は柔らかに微笑んだ。


 僕は美野美月の横へ腰かけた。

 最初はお互い黙っていたが、彼女は次第に話し始めた。

「小さい頃の私は全然女の子らしくなくて、しょっちゅう喧嘩してたのよ」

 失礼ながらそれを聞いて意外だとは思わなかった。

「昔から果物が好きで、あのときはバナナが好きでよく食べていて」

「なるほど。だからゴリラって呼ばれると…うぐっ!」

 彼女のこぶしが急所へ入った。

「それ、次言ったら容赦しないから」

「…はい」

 彼女はスカートの裾を直すとベンチに座り直す。

「先生とか親にも迷惑かけっぱなしで、これじゃいけないと思った私は、周囲の人間が喜んでくれる人間であろうとしたのよ」

「喜んでくれる人間?」

「勉強をちゃんとして、礼儀正しく、明るく、女の子らしい人間よ」

「今の君か」

「そうすると周囲は喜んでくれた。たくさん人も集まってきた。でもどこか虚しい気持ちは拭いきれなかった。いくらいい人を演じても私にそれに見合うメリットがあるのか分からなくなってしまった」

「それで女優に?」

「女優なら演じることで評価され、お金が入ってくるでしょ?そうすることで私は私の存在意義を見出そうとした」

 夕日に照らされた彼女は、少し自虐的に笑った。

「でもいつかあなたに言われたっけ。自分を受け入れてくれる人を見つければいいって。それを聞いて、女優になる必要があるのか心に引っかかってた。誰かこんな私と一緒にいてくれるとしたら、こんなに忙しくて、練習もしていて、それに意味があるのか。そんな時にオーディションに落ちたもんだから、自分にはもしかしたら向いていないんじゃないか、あきらめた方がいいんじゃいかなんて考えてたのよ」

「それは、ごめん」

「むしろ感謝してるのよ。そのままだったら自分で自分を見失っていた。さっきも、自分が考えていたことを指摘されてあなたに怒ってしまった」

 彼女はこちらを向く。

「雨に当たって頭が冷えたからかしら。自分が今後どうしたいのか自分の心を整理できた。やっぱり私は私の実力を試してみたい。この演技がどこまで通用するのか。もうダメだって思う限界まで挑戦する。今はそう考えているのよ」

 春風堂にいる時とは打って変わって力強い彼女の目は、自信に満ちていた。

「うん。君にならできるよ」

 普段なら口に出さないような言葉が自然と出た。

「ホントにそう思ってる?」

「本当だって!」

 そう言うと、お互い目が合って笑い合った。


 それからまた一週間程度、話すことはなかったけれど、連絡先を交換していたのでやりとりは続いていた。

 休日になり、家でダラダラと過ごしていると、スマホが震えた。

 画面には美野美月の表示。

『今すぐ春風堂に来なさい』

 なんとも横暴なメッセージが書いてあった。

『今家だよ』

『それでもよ。あなたこの間何も食べずに私のところへ来てしまったでしょ?』

『それよりオーディションはどうなったのさ』

『来たら話してあげる』

 僕はため息をついた。

「今日は用事ないし、行くか」

 僕は着替えて自転車で春風堂に向かった。

 外は夏が近づいており、太陽が眩しい。

 そして坂道に来ると、汗が滲み出る。

 それでも自転車を漕ぎ続けるのはなぜだろう。

 結果が気になるから?

 彼女に会いたいから?

 僕は自問自答しながら額の汗を拭った。


「あら、光明くん。いらっしゃい」

 店主さんが出迎えてくれた。

「この間は突然帰ってすみませんでした」

「いいのよ。何か事情があったんでしょ?それより美月ちゃん待ってるわよ」

 僕は再び奥の個室へ行った。

「何だよ、急に呼び出して」

 僕は戸を開くなり彼女に言った。

 けれども彼女の様子がおかしい。

 この前ここに来た時よりも項垂れていた。

「あの、オーディション、どうだったの?」

 彼女からの返事はない。

 これは、そういうことだろう。

 僕は何と声を掛ければいいか分からなかった。

 心無い言葉を言って怒らせたり悲しませたりはしたくなかった。

 どうしたものか迷っていると、彼女は突然ニカっとピースサインをしながら得意げな顔でこう言った。

「オーディション通りました!出演決定!」

「なっ!」

 僕は混乱した。

「ど、どういうことだよ!さっきの空気は!」

「どう?私の演技は?結構なものでしょう!」

 つまり僕は騙されたというわけだ。

「い、いや、最初から違和感があったよ。なんとなく気づいてた。のってあげたんだよ」

「ふっふっふ。負け惜しみはよくないわよ」

 悔しいがしてやられたのは明らかだった。

「とにかくおめでとう。すごいじゃないか」

「そうね。でもここからよ」

 女優という仕事はあまり知らないが、こんなチャンスは逃したらそうそう来るものではないだろう。

 これで上手くいけばヒットにつながるが、失敗すれば二度とチャンスは巡ってこないかもしれない。

 ここからが勝負だ。

「ねぇ」

 彼女が僕に声を掛ける。

「この後時間ある?」

「あるけど」

「海見に行きたい」

「海?」

 彼女の突然の要望に少し驚いた。

「別にいいけど、何するのさ」

「海を見るって言ってるじゃない」

 海はここからだとかなり遠く、今から行けば帰りは夕方になるだろう。

 それでもただ見るためだけに行こうというのは、いかにも諸突猛進の彼女らしい。

「分かったよ。食べ終わったら行こう」

「よし!決まり!」

 内心面倒だと思っていたが、彼女の喜んだ顔を見ていると、自然とその感情は消えていった。


 春風堂からは一度街中へ歩いて僕の自転車を置き、そこから電車で海を目指す必要がある。

 海に近い駅のホームを降りると、潮の香りがかすかに漂う。

 僕らは防砂林を抜けて砂丘を目指した。

「あっつー!」

 夏が近づく砂丘は、当然ながら強い日差しが降り注ぐ。

 だが大きい割に知名度の低いこの砂丘は、絶景にもかかわらず人が少なく貸し切り状態だ。

「早くー!」

 前を見ると彼女が先に歩いていた。

 稽古に励む彼女とは違い運動不足の僕は、すでに息が上がっていた。

「日焼けとか大丈夫なの?」

「だから早くしろって言ってるじゃない。一応日焼け止めは塗ったけど」

 無理難題を突き付けてくるのはいつも通りだ。

 僕は我儘な彼女の言葉に従って小走りで追いかける。

 小高い丘の頂上で立ち止まった彼女に追いつくと、僕は顔を上げた。

「おぉー!海だ!」

「行くわよ」

 そう言うなり彼女は駆け出した。

 僕もあわてて追いかける。

 あの華奢な体のどこにそんな原動力があるのか不思議でならない。

「わーっ!」

 彼女が海へ向かって叫ぶ。

「はぁ、はぁ、はぁ」

 息が上がる僕。

「情けないわね。このくらいで」

「どこにそんな元気があるんだよ」

「でも、ほら来てよかったでしょ?」

「うん。こうして見るのは何年ぶりだろう」

 広大な海を見ていると、自分の悩みや存在がちっぽけなものに思えてくる。

 心が洗われるような感覚だ。

「今回のオーディションで、初めて演技が楽しいと思ったの」

 彼女は唐突にそう言った。

「今まではそうじゃなかったの?」

「いい子に振舞っても、演技をしていても、結局それは自分の居場所を作るためでしかなかった。そうしなければ自分から人は離れていってしまうかもって考えてた」

「…僕とは真逆だな。自分が自分でいられなくなるのなら、他人なんて要らないって考えだった」

「そうね。でも実際には自分を偽らなくても一緒に居てくれる人はいるんだって思ったのよ」

 多分彼女はこれを言うために僕を呼び出し、そこでも踏ん切りがつかずにここへ連れてきたのだろう。

「それって僕のこと?」

 少し意地悪に聞いてみた。

「さぁね。自分で考えてみたら?」

「僕も、そんなに気を遣わなくてもいられる人がいるって分かったよ。全ての人を毛嫌いする必要はないんじゃないかって思えた」

「そう。そろそろ行きましょ」

 そうして話を不自然に切り上げて駅に向かおうとする彼女の横顔は、かすかに赤かったように見えた。


 夏休みに入ってからも、僕らは時間を合わせて春風堂で会ったり、山や川へ行ったりと比較的高校二年の夏休みを満喫する。

 尤も、僕は予定がなかったので、時間を合わせると言っても彼女の空いている日になること以外はなかった。

 夏休みが終わる頃、彼女は冬からのドラマの関係で本格的に忙しくなり、会う頻度も減っていった。

 それでもたまに春風堂で会うし、頻繁にメッセージをやり取りしていたお陰で、それほど会っていない実感はない。

 少し前までは、このようなやりとりが無駄だと思っていた僕が、何の生産性のないメッセージのやり取りをするとは想像もしていなかった。

 しかし、誰とでもできるわけではない。

 彼女とはお互いに気兼ねなく言い合える関係だからこそ、僕もメッセージを使ってでも話していたいと思うのだろう。

 彼女と過ごした時間は、僕の価値観を大きく変化させた。

 彼女にとっての僕もそうであるといいと、この時願った。


 月日は流れ、もう冬休みも近いクリスマスイブ。

図書館で勉強していた僕は途中で眠ってしまって、図書委員に起こされた時にはもう日が暮れていた。

「寒っ!」

 外に出ると冷たく強い風が肌に触れた。

 思わず両手をズボンのポケットに突っ込む。

 図書館で寝ていたため体温が下がっていることも加わり、想像以上の寒さだった。

 僕は温かい飲み物でも飲もうと、校舎裏の自販機へ向かった。

「遅いわよ」

 聞きなれた声がするので顔を上げると、美野美月が仁王立ちしていた。

「え、なんでここに?」

「なんでって…。もしかしてメッセージ見てない?」

 慌てて携帯電話を取り出すと、画面に着信があった。

『自販機のところへ来なさい』

 受信時刻は図書館で寝てしまっていた時のものだ。

「ごめん。今見た」

「そんなことだろうと思った」

「待った?」

「だいぶね。お詫びに何か奢りなさいよ」

「分かった。何がいい?」

「ココア」

「いちごオレじゃなくていいの?」

「冬はココアよ」

 寒い時にはいちごオレは飲まないようだ。

 かくいう僕もコーンポタージュを買うことにした。

 僕らは少し間を空けてベンチに腰掛け、缶を開けた。

 一口啜った僕は口を開く。

「で、話があったんじゃないの?」

「…何もないわよ」

 流石に何もないなんてことはないだろう、と突っ込みたくなったが抑えた。

「そっか」

 遠くのグラウンドから野球部の掛け声が聞こえてくる。

 辺りは暗くなり冷たい風が吹く中で、ナイターの明かりが僅かに届き僕らの周りを照らす。

「それにしても去年の今頃は、こうして美野さんと話していることなんて考えてもいなかったな」

 彼女の存在は知っていたものの、どこか遠い存在だった。

「私はあなたのことすら知らなかったわよ」

「ふふっ。だろうね」

「ここで初めて話した時も、存在は知っていたけれどあなたの声すら覚えてなかった」

 そうだった。

 僕はそこまで誰かとこうして話すこともなかったのだ。

「だから、よく知らない人にあんなとこ見られて正直気が動転してたのよ」

「それで、僕より私が言ったことを、みんなは信じてくれるはずだって言ったの?」

「よ、よくないとは思ったけれど、いい子キャラを演じてるって言われたくなかったのよ。そんな姿他人に見せたことないから」

「そっか」

 あのことにイラつきはしたが、彼女の言う通りだった。

でも、それがまたイラついたことを思い出した。

「僕だってびっくりしたよ」

「それでも文化祭で私を春風堂に誘ってくれたでしょ?あれは、その、ちょっとは嬉しかった、かも」

 彼女はココアの缶を手に包みながら顔を赤らめていた。

「なるほど。言いたかったことはこれか」

 僕は彼女に向けて優越感満載の笑顔を向けた。

「なっ!ち、違うわよ。これは、その・・・」

 ごにょごにょと言いながらそっぽを向いた彼女に向けて僕は再び話しかける。

「僕は美野さんと話せて楽しかった。って前もしたよね、こんな話」

「だから、言いたかったことはそれじゃないのよ」

 話はないと言っていたのに、自ら言いたかったことがあると言ってしまった。

 そんな矛盾しているところも彼女の魅力だとこの時思った。

「今度の撮影でキスシーンがあるのよ」

 唐突に告げられたその言葉に、僕は意外にも衝撃を受けた。

「へ?」

「だから、キスシーンよ、キスシーン」

 考えてみれば恋愛関係があるドラマならあってもいい演出だ。

「それってホントにするの?」

「しない人もいるだろうけど、せっかくのチャンス無駄にしたくない。できるだけのことはするつもり」

 それを聞いてなぜか胸が苦しくなる。

「なぜ僕にその話を?美野さんなら慣れっこでしょ」

「慣れっこって…。キスシーン初めてよ」

「そうじゃなくて、キスのことだよ」

「キスだってしたことないわよ」

「…え?」

 あれだけモテている彼女だから、それはもう色んな経験があるのだと思っていた僕には衝撃だった。

「彼氏としたりしなかったの?」

「彼氏もいたことないわよ」

「そうなんだ」

 決して需要がないわけではない。

 彼女と付き合いたい男は山ほどいるはずだ。

 ならば当然浮かんでくる一つの疑問。

「誰とも付き合わなかったのは何故?」

 彼女はココアを缶の中でクルクル回しながら答える。

「親の前でも友達の前でも、どこか無理してるのよ。彼氏なんかできたら、自分だけの時間もなくなってしまう。無理して他人に合わせる時間をこれ以上作りたくなかったのよ」

 八方美人の美野さんを好きになった彼氏には、ずっとその仮面をつけ続けなければならない。

 彼女はそう考えているのだろう。

 確かにそれはかなりしんどいはずだ。

「それに、この私に釣り合う男なんて、そうそういるもんじゃないわよ」

 彼女は自慢げな口調で言った。

「たしかに。じゃあその俳優とのキスシーンが初めてでいいじゃないか。有名なイケメンの俳優なんだろ?」

 僕は投げやりに答える。

「あれでも私には釣り合わないわよ。それにあの人煙草臭いし。あんなのがファーストキスなんていや」

「じゃあどういうファーストキスならお気に召すのさ。雪の降るおしゃれな街でクリスマスイブにその俳優以上の恋人とすれば満足?」

 なぜだか若干イラつきを覚える。

「そうじゃないわよ」

 残ったココアを飲み干すと缶をそっと椅子の上に置く。

「例えば、雪も降らない暗い校舎裏のベンチでクリスマスイブに地味で暗い同級生とでいいのよ」

 そう言った彼女は頬をわずかに赤らめながらこちらを見ていた。

「そんなでいいの?」

「誰とするかが問題であってシチュエーションの問題じゃないってことよ。それに、もし有名人になったら、そんな普通の恋もいい思い出じゃない」

「まぁ、たしかに」

 僕はそう言うとおもむろに彼女の肩に手をかけた。

 彼女の肩は震えていた。

「怖い?」

「ううん。寒いだけよ」

 僕は自分のコートを彼女にかけた。

 それでも震えは止まらない。

「まだ寒いの?」

「そっちだって震えてるじゃない」

「コートあげたから寒いだけだよ」

「その前から震えて・・・うむっ」

 話し続ける彼女の唇に自分の唇をそっと重ねる。

 かすかに感じるココアの甘い香り。

 遠くからはバットでボールを打つ甲高い音が聞こえる。

 僕らの周りの時間だけが異様に遅く感じられた。


 しばらくして僕らは再びベンチに深く腰掛けた。

 しかし二人の間は少しも空いていない。

 僕が残りのコーンポタージュを飲んでいると、彼女が急に話し始めた。

「私ね、大切なことは言葉にするべきだと思うのよ」

「突然どうしたの?」

「だって、よくあるじゃない。そんなつもりじゃなかったとか言うやつ」

 ココア缶のプルタブをグリグリ回しながら呟いた。

 僕は彼女の方を向くと覚悟を決める。

「美野さん」

「なに?」

「君が好きだ。僕と付き合ってください」

 そう言うや否や、彼女は僕の胸に飛び込んできた。

 肩はまた震えていた。

 慣れない手で背中を撫でる。

「なんか私が言わせたみたいになってない?」

 彼女がぼやく。

「まぁ実際そうだよね」

 すると彼女は顔を起こし、僕に面と向かって言い放った。

「告白の前に私の唇を奪いながら、その後も自分から告白しなかった根性なしのあなたに、私は今とても傷ついているわ」

「それは、ごめん」

「この傷を癒すにはせめて何かを私に奢ることが必要だと思うのよ」

「何かって?」

「今日はクリスマスイブよ。もちろんクリスマスケーキでしょう」

「春風堂に連れて行けと?」

「ご名答!」

 彼女はしたり顔でこちらに顔を寄せた。

 ここで少しムッとした僕は何かやり返してやろうと目論んだ。

 僕も顔を寄せると、彼女はその顔を崩して目を瞑った。

「僕も大切なことは言葉にしておくべきだと思うんだけど」

 僕がそう言うと彼女は目を開き、顔を真っ赤にして言った。

「なっ!紛らわしいことするんじゃないわよ!地味で暗い同級生のくせに!」

「だって答え聞いてないし」

「ここまで来たら分かるでしょ!好きだって言ってるのよ!付き合ってあげてもいいって言ってるのよ!」

「今初めて聞いたよ」

 顔を真っ赤にしながら強がる彼女を、急にとても愛しく感じられた。

 僕らは再び顔を近づけ、唇を重ねた。


 春風堂に到着すると店主さんに僕らの関係を瞬時に見破られてしまった。

 普段よく一緒の部屋でお茶していく二人が、クリスマスイブの夜に一緒に来たら気づいて当然かもしれない。

 その夜はお祝いということでケーキを無料でいただいた。

 そこから僕らは高校在学中に何度も通ったので、それでもかなり売り上げに貢献していることは想像に難くないが。

 美野美月という女優は出演したドラマがヒットし、その中でもヒロインの恋人を誘惑する可愛すぎる悪女役ということで最も注目を集めた。

 これまでのように気軽に二人で出歩くことが困難になったので、専ら春風堂で過ごす時間が長くなった。

 高校三年になると周囲は一気に受験モードに突入した。

 僕も理系コースを選択し受験に向けて本格的に勉強を開始したが、美野美月は一応文系コースに所属しながらも女優業に専念していった。

 もう本格的に女優として生きていくことに決めたようだ。

 番宣などに出演する彼女は普段の優等生の姿だった。

 劇中の傲慢でふてぶてしい女と普段のいい子との彼女のギャップがさらに人気を集めた。

 尤も僕から見たらドラマの悪女ほど性根が腐ってはいないとはいえ、態度は美野美月もといマウンティングゴリラそのものだったことは付け加えておこう。

 つまり奇跡的に役柄がぴったりはまっていたわけだ。

 だが彼女の凄いところは、その後の別の映画やドラマでも持ち前の演技力で、暗い子から清純派まで全く違うタイプの役柄を完璧に演じ切り、実力派女優として名を高めていったことにある。

 そして普段の自分は誰がどう見てもいい子であるというイメージは絶対に崩さなかった。

 受験で忙しくなる僕と仕事で忙しくなる彼女は会う時間こそ減っていったものの、関係は変わらず続いた。

 だが転機になったのはやはり卒業だった。

 大阪への進学が決まった僕は、東京に移住する彼女と関係を続けるのは困難だと判断した。

 卒業とともに別れを告げると彼女は案外すんなりと受け入れた。

 彼女も僕の進学先が決まった時点である程度覚悟していたようだった。

 僕と美野美月との交際は一年と少しで幕を閉じた。


 大学に入った僕は高校のときのように他人と関わらない生活を送ることはなかった。

 様々な人と話し、気の合う人がいたらその人たちと付き合っていこうとした。

 それは彼女が教えてくれた他人と過ごす楽しさを覚えていたからだった。

 話してみると気の合わない人も多いけれど、考えや趣味が合う人も一定数いて旅行やアウトドアを彼らと楽しんだ。

 卒業後も彼らとは連絡を取り合い、たまに遊ぶ仲だ。

 一方大人数で集まるのは相変わらず苦手で飲み会などは次第に参加しなくなったが、それはそれで僕は満足だった。

 アルバイト先で知り合った女の子は僕の人生で二人目の彼女となる。

 一人目とは違ってとても大人しい子だったが、彼女とも多くの時間を過ごした。

 様々な人と時間や思い出を共有することがこんなに楽しいものだとは思わなかった。

 こうして高校一年の僕が見たら嫌いそうな、極めて一般的な大学生活を送る。

 大学卒業後は彼女と勤務地が異なることで言い争いになり、そのままもう何年も連絡を取り合っていない。

 つまり自然消滅してしまった。

 結婚も考えると、そろそろ恋愛を再開させねばとも思う。

 しかしどうにも気が重く新たな彼女を作らずに日々を過ごしている。

 それは喧嘩別れした彼女が忘れられないからか?

 それとも初恋の彼女が忘れられないからか?


 カーテンを閉め忘れた窓から注ぐ朝日に顔を照らされて、僕は徐々に意識を取り戻す。

「おはようございます!暑くなりますが今日も一日頑張りましょう!」

 つけっぱなしのテレビでは天気予報が流れていた。

 どうやら昨夜は風呂にも入らずソファでそのまま眠ってしまったらしい。

 東京の通勤ラッシュを避けていつもは早めに家を出るが、今日は流石に間に合わない。

「遅刻しなかっただけマシか」

 僕は服を脱ぐと風呂場へ向かった。


 列車は通勤ラッシュですし詰め状態だった。

 人混みが嫌いな自分は朝から気分が沈んだ。

 吊革に手を伸ばすと、その先の天井には広告がぶら下がっている。

 広告には笑顔の美野美月が印刷されていた。

 僕は少しだけにやけたが、周囲の目が気になりすぐに真顔に戻す。

 

 会社での業務を終えた僕は、すぐにでも家に帰りたかった。

 だがこのまま帰れば帰宅ラッシュにぶち当たる。

 家で待つ人などいない僕は、わざわざその時間に電車に乗る必要はなかった。

 それに今日はいつものカフェでするべきことがあった。

 カフェに入るとメニューを見渡す。

 今日までの数量限定の苺とクリームが乗ったカフェオレはまだ売り切れていなかった。

 このためにもすぐに帰るわけにはいかなかったのだ。

 少々高くて毎回後回しにしていたが、もう後がないので今日飲むしかない。

 僕がそれを注文すると、その数量限定メニューは取り下げられる。

 間一髪だった。

 僕は飲み物を受け取るといつものコンセント付きの座席に座り、パソコンを開いてネットサーフィンを始めようとした。

 ずっと気になっていたものがやっと飲めると期待感が高まる。

 そして飲み始めようとしたそのときだ。

「ここ、いいかしら?」

 聞き覚えのある声がして、顔を上げる。

 こんな夜にマスクとサングラスをした怪しげな女が正面に立っていた。

 他に空席があるのになぜここを選んだのか。

「どうぞ」

 僕は答えたが、声以外にその体つきにも既視感しかない。

 そう、彼女は…。

「マウンティングゴリラ…」

「ご明察ね」

 そう言いながら椅子に座りマスクを取ると、僕のカフェオレを目にも止まらぬ速さでとりあげ、ストローを使って掃除機のような力で勢いよく吸い上げた。

「あっ!ちょっと!」

 僕が声を上げると周囲の客の視線が一気に集中した。

 まずい。

 注目を浴びれば正面の女の正体がばれてしまう。

 それだけはなんとしても避けなければならない。

 僕は必死に周囲に謝り、何とか視線の集中は回避する。

 だが彼女はお構いなしに飲み続けていた。

 僕は小声で必死に抵抗する。

「おいっ!こらっ!どこまで…」

 そう言った時にはすでにカップの中は空になっていた。

 彼女は残った氷にまでストローを当ててズルズルと行儀悪く飲み干している。

「あーっ!なんてことを・・・」

「言ったはずよ。そう呼んだら次は容赦しないって。むしろこれで済ませたことを感謝されてもいいくらいよ」

 レンズ越しにでも分かる、勝ち誇ったような目は懐かしさを感じさせた。

「それにこの間飲んでハマったのよ、これ」

「それが本音だろ?」

「さあね。どうかしら」

 この悪気を全く感じていない態度も久々だ。

「まだ飲んだことないのに」

「あら残念ね」

 女優とは思えない、まったく感情がこもっていない同情の言葉を聞くことができた。

「にしても久々だね、美月。なぜここに?」

「誰かさんがよく決まった時間にここで時間を潰しているから会いに来たのよ」

「よく見つけたね」

 東京で知り合いに会うことはたまにあり、これだけ多くの人間が電車や飲食店をつかっているのだから、どこかで見つけても不思議はなかった。

 それに一般人の僕はサングラスもマスクもしていない素顔だ。

「ほかにもいろいろ知ってるわよ」

「ふーん。例えば?」

「あなたは大学卒業後に一流企業の有松電機に就職してご活躍のようね」

 会社から出てくるところを見られたのか?

 にしても何をもって活躍しているかどうかが判断できるのか。

 どのみち適当なことを言っているのだと思ったが…。

「それからこの間大学時代の彼女と別れたそうじゃない」

「な、なぜそれを・・・。まさか!」

 こんな話をした共通の知り合いは一人しかいない。

「春風堂の店主のおばさんから聞いたのよ。随分とご執心だったみたいじゃない」

「くっ!…余計なことを」

「ひどいわよ。私はずっとあなたのことを想って連絡が来るのを待っていたのに…」

 物憂げな表情でストローの先端で氷を回す彼女は、それまでとは違って落ち込んだ様子だった。

「えっ?ホントに?」

 僕は申し訳ないことをしたと本気で気にかけた。

「ふっ。そんなわけないでしょ。この私が」

 彼女の演技力は維持されているどころか、遥かに向上したようだった。

「まぁそんなところだと思ったよ」

「強がるんじゃないわよ。あなたの嘘は分かりやすいもの」

「そうですか。で、今はその彼氏と順調なわけ?」

「そうね。ラブラブよ。こんなに合う人がいるのかってくらい」

 しかしどうにも彼女がこのような態度をとることには違和感がある。

「嘘だね」

「なっ!」

 彼女の反応をみて疑念は確信へ変わった。

「な、なぜそう言えるのよ。あなたが嫉妬してるだけでしょ」

「本当にラブラブならラブラブなんて言う?照れ屋の美月が?『そうね、いいんじゃない?』とか『まぁどうしてもって言うから付き合ってるの』とかいいそうだけど」

「そ、そんなことないわよ。私も成長したのよ」

「なるほど。僕に嫉妬してほしかったのか」

「ち、違うわよ!」

 怒っているからか羞恥からか真っ赤になった彼女が声を荒げたので再び周囲の注目を集めることとなった。

 僕も再び周囲へ謝罪する。

「ごめんごめん」

 僕が平謝りした正面の彼女は憮然とした表情で俯いていた。

「別れたの?彼氏と」

「そう。付き合ってた期間も二週間くらいだったけどね」

 そう話した彼女はその中身も詳しく語ってくれた。

 僕は大学時代も含めて帰省の度に春風堂へ寄っていた。

 高校時代に店主さんとは随分親しくなったので、大学時代の帰省の時は平日の空いている時間に行っていたこともあり、自分の話を結構していた。

 彼女はたまに帰省することしかできなかったが、彼女もまた帰省中の忙しい合間を縫って春風堂へ行っていたらしい。

 僕はメディアを通して彼女の活躍を見ていたが、何と彼女は僕のことを店主さんから聞き出すことで把握していた。

 彼女は僕に彼女ができたことを知り、仕事も落ち着いてきた時期でもあったためにいい出会いがあれば彼氏を作ろうと思い立った。

 つまり、連絡を待っていたというのはあながち嘘ではないようだ。

 とはいえ彼女の好みにあった人はなかなかおらず、やっと見つけたのが少女漫画の実写版で共演した元アイドルのイケメン俳優だった。

 裏表なく優しい彼に交際を申し込まれ、承諾する。

 だが彼の完璧なまでの優しさを前に、彼女が素の状態で接することはなかなか難しかったようだ。

 ギクシャクしたまま二週間が経過し、お互いに別れを告げた。

「お互い頑張って歩み寄ろうとしたけれど、その度に何か違うなって感じたのよね」

「そっか。にしても僕の話が筒抜けだったとは…」

「私のことはメディアで知られているのに、私が知らないのはフェアじゃないじゃない」

「その辺も知ってるのか。だって僕らは彼氏彼女の関係ではなくなったとはいえ、友達以上の友達みたいなもんだと思ってたし、気に掛けるよ」

「それはどうも」

 それ以前に同級生がこれだけ有名になったのだから、気に掛けない人も少ないだろうが。

「にしてもすごいよな。もう居る世界が全然違う」

「まぁね。いろいろ面倒なことも多いけれど」

「でも店主さんが言ってた通り中身は変わらないみたいだね」

「それ、どういうことよ」

 僕の若干のからかいに対し彼女は眉間にしわを寄せる。

「別に、深い意味はないよ」

「にしてもおばさんはあなたにも多少は私の話をしていたみたいね」

「まぁ思うところがあったんだろう」

 高校時代に僕が別れを切り出した時、彼女はすぐに受け入れたが店主さんは反対だった。

 それだけ僕らの関係を応援してくれていたし、相談にも親身にのってくれていた。

 結局これは僕らの問題だからと決断を受け入れていたが、時々昔を振り返りお似合いだったと言われることがある。

 僕と彼女の間に何の関係も持たない現在もどちらとも親交がある店主さんから見ると、どこか歯がゆい思いがあったに違いない。


 僕らはカフェを出ると最寄り駅へ向かって歩き出した。

 東京は夜でも明るく賑わっている。

 だからこそ彼女は昔のように素顔で僕の隣を歩くことはできない。

 僕らを取り巻く環境は変わってしまったし、お互いへの想いも価値観も変わった。

 それでもこうして出会えていることは奇跡的だし、彼女に昔と変わらない魅力を感じている自分もいる。

 どれだけ他人と関わろうと、僕にとって彼女ほど自然体でいられる人はいないだろう。

 彼女にとっての僕も同じであったらいいと願って僕は彼女に言った。

「晩御飯食べた?どっかで食べてかない?」

「いいわよ」

 返事は素っ気ない。

「何食べたい?」

「そうねぇ。あんまり高いとあなたは二人分払えなそうだし」

「ちょっと待った。奢るの前提?」

「当然じゃない。こんな美少女と食事できるのよ。それくらい払わなくてどうすんのよ」

「え、少女って年齢じゃ…うっ!」

 彼女の拳が腹にめり込む。

「何するんだよ」

「余計なことを言うからよ」

 彼女は少し目線を逸らす。

「それに、まぁ、次ご飯行くときは私が奢ってあげてもいいしさ。だから…」

 相変わらずのひねくれぶりに僕の口角は無意識に上がってしまう。

 すると僕の頬をつまんで引っ張った。

「いひぁい!にぁにするんだ!」

「何かムカついたのよ。その顔」

 突然僕の頬を放す。

「いてて。まったくもう」

「あなたが悪い」

「どこがだよ」

「あ」

「ん?どうしたの?」

「最近できたカフェにするわ。パスタがおいしいらしいし、何よりデザートのショートケーキが絶品らしいわよ」

 さっきまでの仏頂面が変装越しでも分かるほど嬉しそうな笑顔になり、顔の変化は見ていて飽きない。

「いいね。行こう」

 そう言う僕もまた嬉しそうな表情をしていることは自覚していた。


 誰しも本当の自分を他人に見せることはそうそうない。

 人は殻を被ることで社会の中に溶け込み、人間関係を円滑にしていく。

 自分が他人に受け入れられないと考える人ほどその殻は厚くなっていく。

 しかし、厚い殻でなくとも自然体でいられる相手もいる。

 そういう相手を見つけられたなら幸運だ。

 僕はもう二度と逃すまいと、彼女の手を握る。

 彼女もまた僕の手を強く握り返した。

 退屈な夜の東京の街が、今日は光り輝いている。

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元カノは有名人 川上龍太郎 @Ryukpl

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