道端の花。
うつりと
天野絢斗
ガタン…。ガタン…。ガタン…。ガタン…。
病で全身が疲れ果て、重くなった足を引きずる、碧(あおい)という1人の男が、非常階段をゆっくりと登り、ビルの屋上に向かっている。
その足音には悲しみだけでなく、苛立ちなど様々な感情が込められ、滲み出ているかのように一歩の音が重苦しい。
辿り着いた先にあったのは、古く錆び付いたバスケットボールリングほどの高さはあるフェンス。
風は、碧に死の恐怖を植え付けるかのように強くその体を煽り、何度も揺らすも、彼はやっとの思いでフェンスを乗り越えた。
冴えた冬の香りが滲みながらも、まだ深く澄み切った秋の空気と、それを遥か彼方まで包むような漆黒の空の中に煌々と輝きを放ちながら浮かぶ満月の下。
力無く一点をボーッと見つめ、碧は声を振り絞るように静かに呟いた。
「あれほど耐えたのに、なにもかも変わらなかった…。悔しい…。畜生…。もしも…。もしも僕がこの世界に存在する意味があるならば…誰か…もう一度だけ…教えてくれ…。」
そう呟いたあと、明日という希望に幻滅し、今日に打ちのめされ、祈りに疲れたように、力なく彼は笑った。
そして錆びだらけのフェンスに凭(もた)れながら、深い溜め息をつく。
「ボッ…」
ふと、何かを思い出したかのように、しばらく止めていた煙草とライターをポケットから無造作に取り出して咥える。
華奢な灯火が吹き荒ぶ風で消えないよう、大切そうに手で覆い隠し、そっと火を移す。
思い詰めるような目をしながら、悔しさと無念さの思いを苛立ちに変えるようにジリジリと音を立てて、じっくりと味わうようにフィルターの根本まで吸い尽くす。
そして、最後はフェンスの格子で火を乱暴に消し、吸い殻を足元に捨てた。
何かを惜しむかのように、今宵の満月と漆黒の空を見上げ、別れを告げる。
「さよなら…。」
そう言い残すと、奈落の底に落ちることを望むかのように自らの両手を広げ、悲しみと怒り、諦めが入り交じったような笑顔で、その身を投げる。
碧は地面にぶつかる直前まで目を見開き、最後の瞬間まで自分が苦しんだこの世界を見ていようと決めていた。
一瞬で地面に近づき、彼は静かに目を瞑る。
強い衝撃を全身で感じ、光さえ届かない闇の中に吸い込まれた。
「これで楽になれた…。ようやく全て終わったんだ…。」と思いつつも、人の最期は、これほどまでに呆気ないのだと知り、よけいにおかしくなった。
だが碧は、すぐに異変に気づく。
水の中に浮かんでいるような、そんなぷかぷかとした感覚を全身で感じ、それが彼を包んでいた。
今夜、手放したはずの苦痛と、諦めたはずの命の温もりがまだ体に残っており、何が起きているかもわからない。
どれだけ目を見開いても、瞳に力を入れても何も見えない。
そして、耳に張り付くような強い閉塞感もある中で藻掻いても、動かす手足の音すら聞こえない。
しかし、確実にまだ生きている。
激しい混乱の中でも、それだけは、はっきりと感じた。
「なぜだ!! どうしてだ!! どうして!!」
そう叫ぼうとしたものの息ができず、声も出せない。
呼吸の仕方を思い出せないまま、苦しみながら浮かぶ闇の中で、天地が分からなくなるほど藻掻くものの、最期の時を迎えられない憤りと悔しさで、体中を掻きむしった。
さらに此処は何処なのか、自分は今どうなっているかを知りたくても、息もできず、いっこうに何も見えず、体にも力が入らないため、碧は困惑し、憤怒した。
そして、いくら時間が経っても、まともに息もできず、体にも力が入らない。
碧の体は、夜の海で溺れているかのように揺れ動き、藻掻けば藻掻くほどに沈み、悪戯に時間だけが過ぎていくように感じた。
やがて碧は、抗うことをやめた。
この奈落にも感じる深い闇に身を任せて沈んでおけば、いずれ楽になる。そう考えたのだ。
意識が遠のいていく中、自分のすぐ傍らに何か影のようなものが現れ、視線を感じた。
そちらに目を向けると、碧の瞳に映ったのは、闇の中で微かに浮かぶ、見ず知らずの誰かの顔だった。
そして何かを叫ぶような声のようなものも、微かに聞こえた。
しかし、あまりにも強い閉塞感で、上手く聴き取れなかったが、確かに何か声のようなものがした。
ただ、初めて見る顔のはずなのに、どこかで会ったような安堵感や、懐かしさも感じた。
その声も、どこか聞き覚えのあるものだった。
碧は思った。
「ようやくその時がきた…。やはり人の最期というのは、そう優しいものではないんだな…。簡単に死ねないようになっているみたいだ…。さっきこの目に映り、微かに聞こえたのも、きっと何かの幻覚や幻聴だな…。」
そう思い、今度こそ全てに別れを告げられると信じ、この闇に身を委ねて、溶けていこうとしたその時だった。
穏やかで、ほのかに甘く懐かしい香りが鼻をかすめた。
自身が覚えているはずもない、遥か幼い日の記憶が甦った。
凍てつく寒天の空気が、まだ少し混じっている澄んだ青空と、若葉の薫りを乗せた、風が穏やかに吹く春の日だった。
母が慈愛に満ちたその美しい眼(まなこ)で我が子を優しく見つめ、碧も、母の優しい胸に抱かれながら、すやすやと眠り、そよ風に撫でられている自分が見えた。
不意に「この頃に帰れたらな…。」と懐かしさと孤独、虚無が滲む感情を噛みしめるかのように呟いた。
気づくと、自らの中に残る、温かい記憶にもっと触れてたいと思うようになっていた。
碧は堰を切ったかのように溢れ出てくる思い出を、無意識に手繰り寄せては、闇に浮かびながらそっと抱きしめた。しかし思い出や記憶は、長く形を残すことなく、冬に吐く白い息のように、うっすらと残像を残し、碧が浮かぶ闇の中に消えていった。
それからも、温かく幸せを感じる記憶は止め処なく溢れた。
そして碧は、静かに呟いた。
「どうして…。どうして、自分だけの思い出なのに、ずっと留まってくれないのか…。」
自分の中にあった楽しく幸せだった頃の記憶さえ、長くは触れていられないことに寂しさを覚えたのだ。
しかし、碧は幸せな思い出も、痛みを伴った悲しみも、すべては過去であることに気づくことができなかった。
やがて時が経つにつれ、碧の中で、本人も気づかないほどゆっくりとした速度で、生きることの価値観が大きく変わり始めていた。
しばらくして碧は、唐突こう考えたのである。
「僕は…。出来るなら生きていたい…。」
先ほどまで、全ての苦痛から解放されたいと死を切望していた碧が、次第に生きていたいという執念が垣間見えるようになった。
ただ、その価値観の変化を、碧自身がまだ理解できなかった。そして、その気持ちは強く自分を揺さぶり、葛藤を生んだ。
碧は、人間は命ある限り、水のように変化し続ける生き物だと知らなかった。
そのため、酷く自らを責めた。
「やはり僕は自分勝手で都合が良い…。自分で決めた最期ですら、気持ちがこんなにも簡単に揺らいでしまう…。自分は本当に弱い…。そして本当に惨めだ…。」
自分の弱さを知った碧は、慚愧の念のようなものを感じ、追い打ちをかけるように、さらに自分を責め続けた。
そして碧はひとしきり自分を責め続けたあと、何かに疲れたかのように短く息を吐き、今に至るまでの自分自身を不意に見たくなり、冷めきった氷のように、硬く閉ざされたその瞳で自分を振り返った。
「これが僕の運命なんだ…。絶望や失意といった底のない、冷たくて深い痛みの沼に沈んでいく人生なんだ。あれほどの苦痛に耐え、あんなにも努力したのに…。でも自分は弱かった…。だからこの病にもなった…。僕はそう生きるほかに選択肢はないんだ。でも、その弱い自分が僕は嫌いだ…。」と、そう思い、常に何かを諦めて生きていたことに気づいた。
しかし、助けてほしいと願うばかりで、学ぼうとも、生きることの意味を知ろうともしていない自分を見た。
闇の中で見た過去の自分は、自らの境遇と、自身を取り巻く環境を嘆き、さらに本当の自分を誤魔化すことに必死で、すぐ足元に落ちている幸せにも気づくこともなく抜け殻のように生きていた。
そして、いつしか自から記憶の扉を固く閉じ、鍵までもかけてしまっていたと知った。
ただ碧は、自分には与えられず、存在すらしていないと思っていた、母と暮らした幸せな日々が、たしかにあり、その中で生きた時代(とき)もあったと思い出せたことが、何よりも嬉しかった。
その途端、今まで枯れ果てていた涙が碧の目に滲んで目頭が熱くなり、一筋頬を伝った。
そして、碧の心はじんわりと温かくなった。
優しく、暖かい気持ちになる記憶は、苦しみや悲しみの隙間に埋もれ、隠れているだけで、いつでも自分に寄り添ってくれていると、このとき知った。
きっと幸せな思い出や、楽しかった日々に戻れないことは必然であり、そこに漂う幸せの残像のような儚さに振り向かない勇気が、人を大人にするのではないかと、碧は考えた。
闇の中で、見いだした自らの価値観と、過ぎて行った日々の温かさに触れたことで、碧は過去から今に至るまでに負ってきた傷跡を優しく擦った。
中にはまだ癒えていない傷もあり、はっきりと痛みの輪郭を感じるものもあったが、どこか懐かしくもなり、また、負ってきた傷の意味を知りたくなった。
そして碧は、先ほどよりも強く「生きたい」と思った。
すると先ほどまで光りさえ通さなかった闇に、背後から朧気な一筋の光が射した。
気がつくと地に足がつくかのような不思議な感覚を覚え、窒息しそうなほど激しい苦しみも消えていた。
ただ碧は、これが死の感覚なのだろうかという、強い混乱と恐怖に襲われた。
気がつくとそのつま先を光の方に向け、ゆっくりではあるが歩き始めており、死を切望していたことも忘れ、生きるという選択肢を必然と選んでいた。
また、1度は聞こえなくなっていた、叫び声のようなものも再びし始めた。
しかし、どんなに歩みを進めても、光にいっこうに近づくことはできず、それどころか射す光の力は朧気のまま変わらなかった。
ただ、変わらずに叫び声のようなものは、絶えず響き続けた。
「これが死の間際であり、永遠の闇が迫っているなら。」
そう思うと、今まで感じたこともない恐怖と焦りが碧を襲い、その感情はその足取りを、より速くした。
そして、先ほどの音は、叫び声と知った。しかし、どこからするのかまではわからないままだった。
何かを伝えたいのか、叫び声だけがは変わらず闇にに響いているが、追いかけている光に自分が近づいているのかも、そこに向けてちゃんと進んでいるのかもわからない中、ただひたすらに足を動かした。
いつしか、碧は焦りも、恐怖も忘れるほど無心で走っており、気がつくと光が広がる世界の、すぐ手前に辿り着いた頃、叫び声もさらに大きくなっていた。
しかし、中の世界は本当に安全なのかという、考えが脳裏をよぎり、夢中で追いかけていたものを目の前にして、恐怖で足が竦(すく)み、立ち尽くしていた。
どれほど時間が過ぎたのかはわからないが、叫び声だけは変わらずに、永遠に木魂(こだま)していた。
恐怖で動けなかった碧だったが、温かみのある眩しい光が一瞬、その手をかすめるように触れた。
すると先ほどまで抱いてた恐怖は、あっという間に拭われ、碧はこれまでの人生で見たことがない光に、強く目と心が奪われ、そして惹かれた。
すぐに「この中に広がる景色を見たい」と、強く望み、後戻りはしないと決意したかのように、碧は迷いなく自ら光の中へ、勢い良く飛び込んだ。
すると、さっきまで木魂していた叫び声は、ピタリと止んだ。
そこは、様々な濃淡で彩られ、1つとして同じ色がない。さらに今までに浴びたことのないような暖かい光が満ち溢れ、ゆったりと心地よい風がそよぐ世界だった。
そして、そこに存在するすべての色が、陽炎のように愛しくも力強く、燃えるように揺れていた。
夢中で闇の中を走ってきた。
ただ、穏やかで優しい世界にいても、碧が抱いた死の恐怖と不安は拭えないまま、その場に立ち尽くし、こう思った。
「とうとう最期を迎えてしまった…。」
そう思った途端、碧の体の奥底まで恐怖が響いたかのように、ガタガタと強く震え始めた。
此処に着くまでの自らを省み、なんと安易な選択をしてしまったのだと気づいた。
そして、重い口を開き、ゆっくりと自分に言い聞かせるように、こう言った。
「全てが終わった。2度と、あのビルの屋上に戻ることは出来ない。」
碧の後悔は大粒の涙となって目から溢れだし、止め処なく流れ、足元に落ちてはその場を濡らし続けた。
そして、声を出さずには居られなくなり、それはやがて叫びに変わっていた。
碧は嗚咽しながら言葉なのか、わめき声なのかもわからないほどの大声をあげ、取り乱しながらこう叫んでいた。
「帰りたい!! 出来ることなら幸せだった日々に…帰りたい…!! そして…。できることなら…あのビルの…ビルの屋上に帰りたい!!」
すると、再びあの叫び声が木魂しはじめた。
それは誰かが碧を求め、彼に向かって、泣き叫ぶ声だった。
「行かないで!! お願い!!」
「早く!! 早く戻ってきて!!」
「いやだ!! やめないで!! 絶対にやめないで!!」
碧が嗚咽し、何も聞こえなかったとしても、その声は碧が泣き止むまで、何度もその世界に響いていた。
やがて落ち着きを取り戻した碧が、その言葉を聴き、自分の耳を疑った。
泣き止み、辺りを見回しても誰の姿もない。
するとその声も、碧のように落ち着き、今までとは違う言葉を彼に向けて叫んだ。
「あのとき助けてくれて、本当にありがとう!!」
「大丈夫だよ!! いつも碧の傍に居る!! そして君を見守るよ!! 良いよね?」
何度も振り返り、木魂する声の主を探すが、やはり見つからない。
それを繰り返しているうち、目の前がさらに眩しくなり、白く光った…。
椅子に座り、机に突っ伏したまま寝ていた碧の目も、涙で濡れていた。
その目がうっすらと開きはじめ!濡れた目をこすると、最初は微睡(まどろ)みと涙で霞んでいた景色も、少しずつ明瞭になった。
碧が今までのこと全て夢だったと知るのに、そう時間ほかからなかった。
しかし、碧が何よりも気になったのは誰が ”あの言葉” を言ったのかだった。
どうしても知りたかった。
言葉が木魂してきた方を必死になって思いだし、探した。ようやく声の主を見つることができた。
その視線の先には、一輪の花が花瓶に挿され、置かれていた。
碧は数日前、普段なら行きもしない花屋に、不意に立ち寄り見つけた花だ。
すでに半分しおれていて売れ残っていた、名前も知らない一輪の花だった。
碧はその花が、今の自分の姿と重なったように思えてならず、迷わずに購入し、家に連れて帰った。
頻度は多くないものの、仕事がら花に触れる機会もあった碧は、帰宅後、自分のことは後に回しで、すぐに、しおれた花に処置を施し、いつでもその花が綺麗に見える場所に一輪挿しとして飾り、少し離れて、見つめながらポツリと言った。
「こいつ…。しおれてるけど、綺麗だな…。花は死ぬまで花でいられるのに、どうして人間って、すぐ自分のこと見失うのかな…。そして、何でこんなに弱いのかな…。」
そう話しかけた花が、花瓶の淵に寄りかかるように、ポツンとこちらを向いていた。
そして今日はまだ、水の入れ替えもしていないというのに、花瓶の足元に濡れた花びらが数枚落ちていた。
叫び声と言葉が聞こえてきた方向と、花の場所が同じであることに気づいた碧は、信じられない気持ちになり、しばし絶句した後、こう思った。
「……。この花が、こいつが、僕にあの言葉を…? 何で…? そんなことがあり得るのか…?」
わけもわからず目線を手元に落とすと、そこには涙で濡れた、書きかけの遺書があった。
それを見た碧は、昨日の夕方のことを思いだした。
もう数年も闘病しているというのに、碧の病はいっこうに快方に向かう気配がなかった。
その病が自らの体を蝕み続けていることで、自分の未来を想像できなくなってしまった碧は、すべて諦めようと思った。その途端、腹の底から強い怒りと悲しみが入り混じるように湧き上がってきた。
一言、力なく呟いた。
「あと、どれほど、痛みと苦しみに耐えれば、今まで通り暮らせるのか…?ここまでして治らないというのは、もしかするとこれ以上の頑張りや、努力は無意味ということなのか…?」
それから先のことは、碧も記憶がない。
テーブルの上で散らばっている紙とペン見た碧は、まだ自分が生きているということに安堵し、改めて生きることの意味や価値を考えた。
「もしかすると人が幸せを感じられるのは、この世の中に、悲しみや苦悩、報われない努力という痛みがあるおかげなのかな…?それに、迷いながらでも必死になって生きることに、意味があり、その姿に価値があるのかもしれない…。もしかすると僕は、なんの痛みや苦しみ、恥をかかず強くなったり、賢くなろうとしていたんだろうか…。」
そして、あの夢を見て何か悟ったように、こうも思った。
「夜がある意味を知らないと、煌びやかに降り注ぐ昼間の陽射しの価値も知ることはないだろうな…。どんな生き方が正しいのか、どれが正解かなんて僕にはわからない。でも、他人(ひと)より少しだけ、涙という雨が人生に多く降っても、濡れた草むらに腰を下ろして鉛色の空を少し眺めたり、遠くに続く夜空の下を歩いたりするのも悪くないんだろう…。そして、弱くてもこの病と向き合っている自分が、今を生きていることに意味があるのかな…。それに、この世界は報われない事の方が多くて、それが当たり前なんだろうな…。もしかして、そうやって人は優しくなったり、強くなったりするのかな…。」
そして碧は、夢から醒めるまでに感じたことと、その後、普段の日常で気づいたことを、ノートにまとめた。
本当にあの花が、あの言葉を僕に投げかけたのかは、誰にもわからない。でも、僕はそう信じることにした。
でも、誰かが僕を求めてくれて、必死に叫んだことも事実だ。
売れ残っていた ”あいつ” を僕が見つけ、買ったことで途絶えかけていた命を1つ、絶望から掬い上げられたのなら。あの花にとって少しでも僕が役に立てたなら嬉しい。
僕は病というきっかけで人生を悲観したけどおそらく、ほんの些細な出来事で死を切望してまうほど、人間は脆弱な生き物なんだと思う。
でも、その一方で同じような些細な出来事がでも、きっかけで今度は心が癒され、満たされて、明日を見いだす強さや、今を生き抜こうとする強さを持つのも人間なのだろう。
人は弱いからこそ、誰にでも強くなるチャンスが平等にあるのだと思う。
それに、人は特別な何かにならなくても良い。
それは、いつだって本人の気づかない所で、人はみんな、誰かにとっての英雄であり、誰かに必要とされながら生きていて、必ず誰かに愛されている。
”あいつ” 僕を求めてくれたように。
そして飽きてしまいそうなほど、平凡で退屈な日常こそが幸せであり、贅の極みなんだろう。
ただ、他人(ひと)が思う当たり前のことが僕には難しかったり、出来ないことが多い。でも出来ないわけじゃない。
今までの僕はその意見に流され、自分は幸せになれない、何も出来ないと決めつけ、思い込んでいたのだろう。
でも、自分にしかない当たり前の生活は必ずあるはずだ。
この世界を生きている。きっと、それだけで十分、幸せなんだ。
もし明日に行きたいのなら、薄っぺらでつまらないと感じてしまう、今日という日を一歩一歩、真剣に歩き、それを繰り返して行くしか方法はない。
きっと人は失敗からしかまなべないようになっていて、失敗を真剣に考えるから成長出来るんだと思う。
そうして人は強くて、逞しくして、優しくなれるんだと思う。
それは病に侵されてるとか、健康だからとかは、たぶん関係ないと思う。
どう生きるののも大切だけど、同じくらい、どう生きたいのかと考えるのも重要なんだろう。
それが人の信念を堅くするんだと思う。
ただ、それを知るには、まだまだ失敗を繰り返さないといけないのかな…?
でも人は皆、挑戦者であり、自分の人生の開拓者なんだろう。
そして幸せや、自分の居場所は、与えられるのではなく、自らの手で探し、見つけるものなんだろう。
今を当たり前に生きていることは、奇跡よりも重く、尊いことなんだと思う。
こうノートに書き留めた碧の顔は、どこか誇らしげで、自信に満ちているようにも見える。
そして、自分を失意の底から救ってくれた、あの一輪の花のように、自分も人の悲しみに触れ、その人のために涙を流せるようになりたいと思った。
夢で見た、光の世界に漂い、吹いていた心地よい風と温もりが、今もまだ自分の体を優しく包んでいるように感じた碧は、なんだか朝日が見たくなった。
椅子にそっと凭(もた)れかけ、体の力みを抜くように、小さくため息をついたあと、碧は遺書を破いてゴミ箱に放り投げてから、朝日が射し込み薄暗く照らされた部屋でコーヒー淹れ、それを片手に持って、ゆったりとベランダへ向かった。
その眩しさに一瞬驚き、空いているほうの手で少しだけ陽の光を遮り、慈しむような眼差しで日の光を見つめた後、全身でめいいっぱい朝日を浴びた。そして今度は、空を見上げて優しく微笑んだ。
その瞳には、まだ朝焼けが滲んでいる、高く澄んだ秋の美空が映っていた。
碧が自らの手で未来の扉を開くと決意した数日後。
彼を失意の底から救った一輪の花は、冴えた冬の気配が漂いつつも、まだ秋の深さを色濃く残した、高く澄み切った美空色の早朝。
碧への恩を返し安堵し、満足したかのように、ひとり静かに散った。
そして目覚めた碧は、その姿を見て、無言のまま悲しみを噛みしめるように、震えた手で茎と花びらを優しく胸元に抱き寄せてから、一呼吸ついて「ありがとう」と囁き、その頬を涙で濡らした。
完
道端の花。 うつりと @hottori
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