第38話

 同居を始めたばかりの頃を思い出しながら夕食を用意する。夕食が完成して、後は若佐先生が帰宅するのを待っていたが、二十時近くになっても、若佐先生は帰って来なかった。ここでも仕事が忙しいのかもしれない。


(一緒に食べようと思っていたのに……)


 スマートフォンを確認するが、特に連絡は無かった。

 一緒に食べようと思って、私も夕食を食べないで待っていたが、ここでも明け方近くに帰って来るのかもしれない。

 そろそろ諦めて先に夕食を食べようかと考えていた時、玄関の鍵が開く音が聞こえてきた。出迎えに行くと、そこには幽霊を見たかの様に、目を丸く見開いた若佐先生の姿があったのだった。


(こんな顔、初めてみたかも……)


 小さく笑うと、若佐先生はやや頬を染め、目を逸らしながら「まだ居たんですか?」と尋ねてきた。


「まだニューヨークに来たばかりですから。入国時に申告した滞在日数もまだまだありますし……」

「そうですか……」


 そのまま、私の横を通り過ぎて、若佐先生はリビングルームに入って行く。その後を追いかけると、リビングルームで立ち止まっている若佐先生の姿があったのだった。


「何かありましたか……?」

「部屋が綺麗になってる……」


 どうやら、リビングルームが綺麗になっているので驚いていただけらしい。ホッと安心すると、「昼間に掃除したんです」と返す。


「時間がなかったので、今日はリビングルームだけ掃除機を掛けて、洗濯機を借りて軽く洗濯もしました。明日はベッドルームも掃除機をかけますね。洗濯物も沢山溜まっていたので、一回では全て洗えなくて……」

「それはハウスキーパーに依頼するので気にしなくていいです。それより、この料理はどうしたんですか? 冷蔵庫には食材は入れてなかったように思いますが……」

「私が作りました。食材は近くのスーパーマーケットに買いに行きました」

「外出したんですか!?」


 急に声を上げると両肩を掴まれたので、私は瞬きを繰り返す。


「は、はい。近くのスーパーマーケットまで。お金は日本で両替してきた私のお金で……」

「どうして外出したんですか!? 代行サービスに頼めばいいものを……!」


 若佐先生の剣幕に怯えて、膝が震えてしまう。両目から涙が溢れそうになり、目線を床に落とす。


「す、すみません……。お腹が空いて何か食べようと思っても、冷蔵庫には栄養ゼリーと飲み物くらいしかなくて……。代行サービスがあるなんて知らなくて……」


 胸の前で両手を強く握りしめていると、ようやく若佐先生は両肩を離してくれた。


「すみません。強く言い過ぎました」


 額に手を当てた若佐先生に、私は首を振る。


「私こそ、すみません。勝手に外出してしまって……。昨日も言い過ぎました。若佐先生は心配して言ってくださったのに、酷い事を言ってしまって……」

「いいえ。私こそ、昨日はムキになって、強く言ってしまいました。嫌にも関わらず、貴女を抱いてしまいました。身体はもう大丈夫ですか?」

「大丈夫です。それに嫌だなんて思っていません……痛かったけれども、嫌でもなんでもなくて、むしろ気持ち良いくらいで……」

「気持ち良いですか……。おかしな事を言いますね」


 若佐先生が小さく笑ったので、私も笑みを浮かべる。こうやって、若佐先生と笑い合ったのはいつ以来だろうか。

 この機会を逃さない内に、私が「あの!」と口を開くと、若佐先生は銀縁眼鏡の奥からじっと見つめてくる。


「私、まだ夕食を食べていないんです。お口に合うかは分かりませんが、よければ、一緒に食べませんか?」

「まだ食べていなかったんですか……。いえ、是非いただきます。貴女の作った食事が口に合わなかった事は、これまで一度も無かったので」

「そうだったんですか……?」

「日本に居る時もいつも用意してくれましたね。どの料理も美味しかったです」

「嬉しいです……お料理、温め直しますね」


 私が料理を温め直す間、若佐先生は「着替えてきます」と言って、ベッドルームに入って行った。


 (若佐先生に料理を褒められちゃった……)


 料理を温め直している間、つい顔が緩んでしまいそうになって、何度も首を振る。


(ううん。先生は優しいから、気を遣って言ってくれただけだよね)


 自分に言い聞かせている内に二人分の料理が温め終わったので、テーブルに運んだのだった。


 温め直した料理を並べていると、ラフなシャツ姿に着替えた若佐先生がやって来た。普段、きっちりスーツを着こなした若佐先生の姿しか見ていないからか、滅多に見られないラフな格好に妙に意識してしまう。

 そんな私の様子に気づいているのかいないのか、若佐先生は席に着くと「美味しそうですね」とそっと口を開く。

 私も向かいの席に座ると、一緒に食べ始めたのだった。


 しばらくは無言で食べていたが、やがて若佐先生が「小春さん」と話しかけてくる。


「昨日の話ですが……。私に恩を返して、夫婦らしい事をしたいと言う事でしたね」

「はい。そうです」

「私もあの後考えました。恩については契約結婚をして、家事をやっていただいているので、これ以上、望む事は何もありません。貴女の食事をこうして食べられるだけで満足です」

「そうなんですか……!?」


 私の言葉に若佐先生は頷く。出来ないながらも家事をやっていた甲斐があったと分かり、そっと安堵する。


「それで、残りの夫婦らしい事ですが……。何をしたらいいのか、私には皆目検討がつきません。小春さんはどうしたいですか?」


 珍しく若佐先生から尋ねられたので、手を止めるとそっと口を開く。


「ここにいる間だけでいいんです。夫婦らしく、二人の時間を過ごせませんか。今みたいに一緒に食事をしたり、スーパーマーケットに買い物に行ったり、セントラルパークを散策したり、本当に些細な事でいいんです。心残りなく、これから別々の道を歩いていけるように……思い出作りと言えばいいのでしょうか」


 若佐先生が怪訝そうな顔をしたので、私は慌てて言葉を付け加える。


「勿論、私の事が嫌いなら、日本に帰国した後、すぐ離婚届を区役所に出します」

「貴女の事は嫌いじゃありませんよ」

「そうだったんですか?」


 それならどうして離婚届を送ってきたのだろうか。ますます、疑問が募る。


「小春さんこそ、どうなんですか。私の事を……」

「私も若佐先生の事、嫌いじゃありません」

「それなら、好きですか」

「ふえっ!?」


 急に真顔で尋ねられたので、素っ頓狂な声を上げてしまう。


「す、好きかと聞かれると、その……若佐先生はとても魅力的ですし、知的で、頼りになって、私には勿体ないくらいに素敵な男性です。弁護士としても優れていて……かっこいいお兄さんだと思っています」

「そうですか……」

「一番は若佐先生の側にいると安心出来るんです。これを好きと言っていいのか、分かりませんが……。でもこれだけは言えます。これからも一緒に居たいんです。出来る事なら、離婚届、出したくないんです……」


 どこか肩を落としていたようだったが、私が「離婚届を出したくない」と呟いた時、呆気に取られていたようだった。


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