第32話

 シャワーを浴びて、備品のタオルで髪を拭きながら事務室に入ると、ブロンドのウェーブ髪を背中に垂らした女性が窓辺にある観葉植物に水やりをしていたのだった。


「ジェニファー」

「グッドモーニング! カエデ」


 日本で購入したという象の形をしたじょうろを片手に振り向いたのは、ロング法律事務所の所長の娘であり、事務所のパラリーガル兼受付嬢でもある、俺の幼馴染みのジェニファー・ロングだった。


「今朝は随分と早いのね」

「シャワーを借りに来たんだ」


 ジェニファーが用意してくれたと思しき、コーヒーメーカーからコーヒーを貰うと、自分の机でいただく事にする。


「シャワーなら自宅にもあるでしょう?」

「なんとなく、事務所のシャワーを使いたかったんだ」


 付き合いが長い分、幼馴染みのジェニファーとは軽口を叩き合えるので、小春と話す時よりも話しやすい。

 小春の前では、つい格好つけてしまうというのもあるが――。


「もう! 昨日、珍しく早退するくらいだから、夫婦水入らずの楽しい時間を過ごしたと思ったのに……」

「楽しい時間?」

「隠さなくたっていいじゃない! カエデの奥さん、こっちに来ているんでしょう。さぞ濃密な時間を過ごしたんじゃないの? オシャレなレストランで食事した後に、一緒にバスタイムを過ごしたり、朝までベッドで抱き合ったりして。ちゃんと避妊した? あっ、そもそも夫婦だからしなくていいか!」


 さすがは性にオープンな国。世間話の様に朝から堂々と性的な話を口にする。

 俺は「してない」と端的に返すと、コーヒーに口をつける。


「そもそも、どうして小春が――俺の妻がこっちに来てるって分かるんだ」

「奥さんの名前は、コハルって言うのね。ようやく教えてくれたわ」

「話しを逸らすな。ジェニファー」

「だって、昨日、事務所の入り口に来てたでしょう。あの子がコハルじゃないの?」

「それは……」


 昨日の昼休みにクライアントが来所する予定をジェニファーに話していたところ、ジェニファーに「事務所の入り口に日本人がいる」と教えられた。

 俺が振り向いた時には、後ろ姿しか見えなかったが、小春の後ろ姿にそっくりだった。

 そうは思っても、日本にいるはずの小春がこっちにいるはずがない。もし小春がこっちに来るのなら、あらかじめ連絡を寄越すだろう。

 そんな事を考えながら仕事をしていたからか、昨日の午後は全く仕事に集中出来なかった。

 不安に駆られた俺は、念の為、小春にメッセージを送ったのだった。


『今、どこにいますか?』


 すぐに返事は来ないだろうと思っていると、案外早く、返信が来た。


『日本にいます』


 その返信に一度は安堵するが、(待てよ)とすぐに考え直す。


(そもそも、日本にいるなら、『日本にいる』と返すだろうか……?)


 この返信ではまるで小春が日本にいない様な書き方だ。

 すぐに確かめようと返信を送ろうとしたところで、先程のメッセージが取り消され、別のメッセージが送られてきた。


『自宅にいます。特に変わりはありません』


 その返信にますます不安が募る。加えて、いつもなら絵文字や女性らしい絵柄のスタンプも送られてくるはずが、今回に限って、絵文字も何もない端的な文章なのも小春らしくない。


(まさか、事件に巻き込まれていないよな……)


 居ても立っても居られず、手洗いに行く振りをして席を立つと、電話帳から小春の番号を選択する。発信ボタンを押そうとするが、指を止めてしまう。


(待てよ。もし、これが俺の勘違いだとしたら……)


 そんな事をしたら、ますます小春を困らせてしまう。俺は小春の番号をキャンセルすると、代わりに別の番号を選択して、発信ボタンを押したのだった。

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