第30話

 小春の裁判が敗訴してからは、俺は彼女と顔を合わせづらくなり、いつも彼女が寝た後に帰宅して、彼女が起き出す前に出掛ける日々を繰り返していた。

 小春の裁判は明らかにこっちが有利で進んでいた。小春が働いていた職場に行って、小春の元同僚からも、小春がパワーハラスメントを受けていた証言を取れた。その状況が覆ったのは、件の小春にパワーハラスメントをしていた上司が雇った弁護士が、小春がパワーハラスメントを受けていたという物的証拠の少なさを指摘してきたからだった。

 そこからは転がるようにこっちが押された。労働裁判に詳しい弁護士の力も借りたが、相手の方が一枚上手だった事もあり、とうとう敗訴が決定してしまった。


 小春は「上告しない」と言い、敗訴したにも関わらず、「ありがとうございました」と笑顔と共に感謝さえしてくれた。

 あの時ほど、自分が惨めに思えた事はない。

「助ける」と大口を叩いておきながら、何の役にも立たなかった。

 何が弁護士だ。結局、今回も役に立たず、ただ依頼人に気を遣わせただけじゃないか。

 そうやって、自分を責め続けている内に、小春とどう顔を合わせたらいいのか分からなくなった。

 それに加えて、小春も何か言いたげな顔をするが、何も言ってくれなかった事もあり、その態度がますます俺を責めているような気がして、尚更顔を合わせづらくなった。

 早く契約結婚の目的を達成して、小春との関係を終えてしまいたかった。

 あの頃はそればかり考えていた。


 その日も、まだ空が白み始めたばかりで薄暗い時間帯に帰宅すると、シャワーだけ浴びて寝るつもりだった。

 着替えを持って洗面所に入ると、既に俺の着替え一式とバスタオルが用意されていた。


(小春が用意したのか……)


 余計なお世話だと思いつつシャワーを浴び、寝る前に水でも飲もうと思い、冷蔵庫を開けると、目立つところに『若佐先生』とメモ用紙が貼られたラップフィルムの掛かった皿を見つけたのだった。


(何だ。これは……)


 何気なく冷蔵庫から取り出すと、夕食の残りを一皿にまとめたのか、一口サイズのハンバーグが数個と温野菜のサラダが盛られていたのだった。


(帰りは遅くなるから夕食は要らないと、いつも言っているのに……)


 俺は呆れて溜め息を吐くが、そんな心情とは裏腹に腹は空腹を訴えてきた。よくよく考えると、今日は今の事務所で担当する最後のクライアントとの打ち合わせと事務所を退所するに辺り、引き継ぎの用意をしていて、昼食もまともに食べていなかった事を思い出す。


(せっかくだから、少しくらい食べるか……)


 電子レンジで軽く温めようと、ラップを剥がそうとした時、メモ用紙に書かれた名前の下に文章が書かれている事に気づいたのだった。


 若佐先生

 遅くまでお仕事お疲れ様です。ハンバーグを作ってみました。お口に合えばいいんですが……。勿論、無理にとは言いません。

 食べられたら少しでも食べて、明日の活力にして下さい。

 自宅に戻れないくらい忙しそうで、体調を崩されていないか心配です。

 顔もほとんど合わないので、どうしているのか気になっています。

 その代わり、ネットで先生の活躍を拝見しました。

 弁護士として活躍されている先生、素敵です。お仕事頑張って下さい。

 洗面所に着替えとバスタオルを用意しておきました。良ければ使って下さい。

 大変だと思いますが、明日もお仕事頑張って下さい。


 女性らしい丸みを帯びた文字。小春らしい優しい筆跡。


「素敵か……」


 ネットで見たと言うのは、この間の所長の手伝いをした裁判か、それとも先輩弁護士が担当した裁判の補佐をした時の記録だろうか。

 そんな事を考えながら、俺はメモ用紙をくしゃりと丸めると、ゴミ箱に捨ててしまう。電子レンジで温めている間も、さっきの「素敵です」と書かれた丸みを帯びた文字が忘れられない。


「何の役にも立たなかったけどな」


 ぽつりと呟いた皮肉めいた言葉が、物音一つしない室内に虚しく響く。

 結局、俺は小春を救えなかった。小春の問題は何も解決出来ず、小春は大好きだった仕事を辞める羽目になった。

 ただ、小春を助けたかった。もう二度と、あんな思い詰めた顔で命を絶とうとして欲しくなかった。心から笑って欲しかっただけだった。それなのに――。

 温め終わると、電子レンジから取り出して、そのままハンバーグを手掴みする。軽くしか温めていないので、指で持っても火傷の心配はなかった。一口サイズなので、口に放り込んでしまう。口の中にハンバーグの味が広がった時、俺の中で目が覚める様な衝撃が走る。

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