第29話

 その日をきっかけに、俺は小春との一時的な結婚の用意と、裁判の準備でよく小春と小春の家族に会う様になった。

 小春の前ではつい弁護士としての毅然とした態度で接してしまうので、どこか怯えられているような気がしてならない。長らく独り身で、異性とは依頼人や仕事関係以外で接していなかったからだろうか。どうしても異性に――他人に心を許すということが出来ない。

 小春とは夫婦以前に依頼人と弁護士の関係なのでこの姿勢でも間違ってはいないだろうが、ずっと肩肘を張り続けるというのも疲れるものだ。

 小春の両親も決して悪い人達ではなかったが、一人娘の小春をずいぶんと甘やかしていたようで、小春の世間知らずなところは両親が関係しているのだろうと考える。

 同居した当初、小春が料理や洗濯といった家事が全く出来なかったのも、時折、小春のおっとりした言動や態度に腹が立ってしまうのも両親が原因かと合点がいったものだった。

 小春の世間知らずも家事が全く出来ないのも、それは両親から愛情を与えられた証拠であり、決して悪いものではない。

 小春を見ていてたまにイラついてしまうのは、自分には無かった両親からの愛情を受けているからだろう。

 どこかで羨ましいとさえ、思っているのかもしれない。


 その時、急にバスが停まった。降車予定の停留所に着くには早かったので乗降客がいたのだろう。また外に視線を向けると、両親に見送られてスクールバスに乗り込む子供の姿を見つけて、じっと見入ってしまう。


(両親からの愛情か……)


 俺には両親がいない。弁護士だった父親と専業主婦だった母親は、俺が四歳の時に交通事故に遭って死んだ。酒帯運転のトラックと正面衝突して即死だったらしい。たまたま祖父母に預けられていた俺だけが助かった。

 両親が亡くなる直前の記憶があまりないので、後に祖母に聞いたところ、祖父母の家に両親と俺の三人で遊びに行った時に、遊び疲れて昼寝をした俺を祖父母に預けて、父が運転する車で買い物に行き、そこで事故に遭ったらしい。

 昼寝から目が覚めた後は、祖父母が血相を変えて、あちこちに電話をしていた。その後、すぐに両親の葬儀があったのはなんとなく覚えている。犯人は現行犯逮捕で捕まり、裁判で有罪判決を受けた。俺は祖父母に引き取られたが、両親がいない寂しさはほとんど感じず、ただ住む場所が変わったくらいで、何も不自由なかった。

 高等裁判所の元裁判官で、近所の大学の名誉教授だった祖父の元には、いつも大勢の法曹関係者が訪れていた。祖父の関係者から裁判に関する話を聞くのは面白く、俺もいつか法律関係の仕事をしたいと考えるようになった。祖母は料理上手で、俺に合わせていつもハンバーグや甘口カレーなどの子供向けの料理を作ってくれた。毎年、誕生日にはケーキを手作りしてくれた。

 裁判も終わり、全ては事なきを得たはずだった。


 ところが小学生になると、両親がいない俺の事を周囲の人達が同情的な目で見ている事に気づいてしまう。

 両親がいなくてもそれなりに充実した生活を送っていたのに、周囲は「両親がいなくて可哀想」、「大変そう」だと不憫な子として見てくる。テストで満点を取っても、読書感想文の大会で一位を取っても、何をしても。いつしかそれに耐えられなくなった。

 こんな思いをするくらいなら、両親と一緒に事故で死んでしまえば良かったと、一度だけ祖父の前で話した事がある。案の定、祖父には殴られたが、それくらい当時の俺は周囲に追い詰められていた。

 それからは周囲の視線から逃れるように、俺はがむしゃらに勉強に集中した。父と同じ弁護士になって、自分と同じ様に、事故で両親を亡くして、苦労している人達を救いたかった。それなのに――。


 しばらくして目的地である事務所近くの大通り名のアナウンスが聞こえてくると、俺は降車を知らせて眼鏡を掛ける。バスが停まって降車すると、事務所に向かって歩き出したのだった。

 事務所に着くと、始業にはまだ大分早いが、既に事務所の鍵が開いていた。これ幸いと事務所の中に入ると、シャワールームに直行して汗を流してしまう。仕事柄、事務所に泊まり込んで仕事をする日も多いので、事務所内に自由に使えるシャワールームがあるというのはありがたかった。日本の法律事務所は、雑居ビルの一室に構えているだけが多い。徹夜で仕事をした後、シャワーと着替えの為だけに自宅に帰る日も珍しくない。


(そういえばいつの頃からか、徹夜明けで家に帰ると、小春が着替えと食事を用意してくれていた)


 頭から熱いシャワーを浴びながら思い出そうとする。


(最初に気が付いたのは、確か小春の裁判で敗訴して、小春が仕事を辞めた直後だった)

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