バイオレット・ヴェンデッタ 殺意と色と人情の復讐旅
長谷川昏
ⅰ.一人の男と一人の少女
1.森の中
「よぉ嬢ちゃん、こんな夜更けに一人歩きは危険だぜ」
吹き抜けたぬるい風がとろりと頬を撫で、イングヴァルは届いた声に振り返った。
背後の森の闇間には、三人分の影。
頭上の月光は、彼らの相貌を浮かび上がらせるまでには至らない。
鼻腔を擽る湿った土の匂いに無意識に顔を顰め、イングヴァルは闇に潜む相手の素性を思った。
顔貌は見えないが、届いた声には聞き覚えがある。
日暮れ間近に立ち寄った炭坑町。
景気が下向きの町の盛り場は、安酒と饐えた汗の臭いで充満していた。
本日の仕事を終えた男達は皆背を丸め、ようやくありついた酒をちびちびと舐めていた。自分のような流れ者の姿は目に見えて少なく、しかしそんな中でも明るく対応してくれた酒場の主人は好人物ではあったが、この町でも自らが求める情報は得られなかった。
届いた声は、酒場にいた男三人組の一人のものだった。酒灼けた聞き触り悪い声に覚えがある。残る二人もその時と同じ連れだろうか。
荒い息遣いと衣擦れの音。
男達の気概と緊張が、周囲に充満し始めている。
なぜ彼らが自分を追ってきたのか。
その理由をイングヴァルは闇で暫し思案するが、それはじきに浮かび上がることになった。
男が「嬢ちゃん」と呼んだ『この身体』に用がある。
この身体が自分のものとなる以前にどこかで彼らの恨みを買ったのか、その可能性は多分にある。
そうでなければ、この身体にただ単純に邪な欲望があるだけか。
「わざわざ追ってきてやったんだ、もちろん喜んで出迎えてくれるよなぁ」
近頃噂を聞く、機関車と呼ばれる『丈夫で早い馬』。
便利だが、余程金が有り余っている連中にしかまだ縁がない。金のない連中が移動手段とするのは、馬か乗り合いの馬車、もしくは徒歩。
でもだからと陽も沈み、夜盗や野生動物に襲われる可能性を秘めた道を分け行く者など、自分も含めた酔狂な連中を除けば、無に等しい。故にそんな危険を冒してまで追ってきたということは、『この身体』に余程の恨みがある。
しかしそれならば、何も問題はなかった。
闇に潜む彼らにこの自分が、挑む理由になる。
単なる欲望まみれのくだらない連中では、張り合いもない。
粗暴なならず者と対峙して存分に暴れてもいいのだと、イングヴァルは理解した。
「どうした嬢ちゃん? そんな怯えなくてもいいんだぜ。俺らはとっても優しいよぉ。ゆーっくり丁寧に嬢ちゃんの身体を味わってやるからさぁー」
「ははは、違いねぇ。だがその代わりと言っちゃあなんだがあんた、あの町で誰かを捜してたろう? ちょうどいいことに、俺らはこの辺りでも名の知れた情報通なんだぜぇ。愉しい遊びが終わったら、嬢ちゃんの知りてぇ情報はどれだけでも教えてやるからよぉ」
くだらねぇ。
イングヴァルは心中で吐き捨てた。
鑑みるまでもなく、男達の言葉がでまかせであるのは分かっていた。自分以上に流れ者の雰囲気を纏わせた彼らが、何かを知っている訳などない。奴らは女と見れば犯すことしか知らない、ただのクソのにおいがするクソ野郎共だ。
そんな理由でわざわざ追ってきたと思えば、ご苦労なこったとそんな感想しか漏れないが、現状が依然面倒事の真っ只中にあるのは変わらなかった。
「なんだぁ、嬢ちゃん。もしかして危ねぇことでも考えてねぇか? まさかと思うが、俺らと危ない遊びでもするつもりかよ、その細っこい腰に据えたモノでよ」
「そうそう、こっちは三人だ。刃向かったところでどうにもならねぇぜ。だからそんな考えは捨てちまって、俺らと別の遊びをしようや」
イングヴァルは闇を見渡した。
頭上には雲に隠れようとする半月。
森の闇間には、三人の男達。
足元は湿った
「どうしたぁ? さっきから一言も口を利かないたぁ、えらくつれねぇじゃねぇか。可愛いらしい声を聞かせておくれよ、その可憐な唇からさぁ。それとも俺達の親切心を無下にするつもりかぁ?」
言いながら迫った男が、突然手首を掴み取った。
イングヴァルは怯むことなく素早くその手を返すと、相手の腕をねじ上げた。悲鳴が届くが意に介さず、そのまま相手を地面に押し倒す。
『この身体』は身に染みついた自衛反応で、こちらの意思がなくとも動く。
相手の力を自らのものとし、利用することを『彼女』は知っている。
「て、てめぇ!」
「こ、この小娘っ! いきなり何しやがる!」
「あー、もう、さっきからうるせぇんだよ、べらべらべらべらとクソやかましい。嘘くせぇ親切心も猫撫で声もいらねぇ。こっちはあんたらと遊ぶつもりも、してやられるつもりも最初っから小指の先程もないからな!」
起き上がった男の怒声を合図に、それぞれが得物を構えた。
剣が二人に、銃が一人。
大人しくさせるための脅しなのか、相手が死体となっても構わなくなったのか、だがどちらにしてもイングヴァルにその意に添うつもりは欠片もなかった。
「あんたら、俺と遊びたかったんじゃねぇの?」
「どうやら可愛い顔に似合わず鼻っ柱が強すぎるようだな、嬢ちゃん。少し大人しくなってもらうよ」
月が雲から出る。
その光が反射して、相手の刀身にイングヴァル自身の姿が映り込んだ。
そこには若草色と漆黒で染め上げられたキモノにハカマ、そう呼ばれるらしい東洋の衣装を纏った黒髪の少女がいる。
瞳は茶色混じりの紫。
その姿にはとうに慣れたつもりでいたが、未だ戸惑いを一瞬覚える。
「極東圏の女は従順と聞くな。ちょっと撫でてやって、無理矢理にでもヤっちまえば……」
男の言葉は、誰もその先を聞くことがなかった。
半月を背景に切り離された頭部が弧を描いて、飛んでいく。
落下し、ごろりと地面に転がった顔には、自身に起きた経緯を理解できない表情が刻まれていた。
「お前っ!」
残った二人の顔にも、同様の表情が貼りついていた。
イングヴァルは滴る鮮血をなぎ払うと、手にした日本刀を構えた。
この刀の使い方はまだ全く理解していない。
あの東洋の小娘は素手では百戦錬磨のこの自分に、よく説教じみた言葉を言う。
だが、自分には甘んじてそれを受け入れなければならない理由がある。
『イングヴァル、まるで鉄の塊を振り回すような動きをするな』
『言わせてもらうが、お前の所作全てが下品だ』
『そんなに食うな。肥えすぎは悪だ。私をその罪に堕とすつもりか』
『情報のためだと、そう簡単に身体を対価にしようとするな。それが私の身体だという自覚はお前の中にあるのか? イングヴァル』
耳の奥で、少女の冷静な声が谺する。
それはいつもイングヴァルが『彼女』の意に沿わない言動を取る度、響いた。
「クソっ! けど一人減ったぜ。取り分は増えた」
「ああ、朝までたっぷりだ」
「あんたら本当に阿呆だな。この状況でまだ戯れ言を垂れ流せるとは本当におめでたい。俺はあんたらに好きにやらせるつもりは微塵もないからな! 俺はヤられる側じゃなくて、いつもヤる側でいたいんだよ!」
イングヴァルは地面を蹴る。
この身体は軽い。
意思を下せば、馴染んだ革のブーツが大地を駆る。
思惑どおりに動くことを、この身体は何一つ阻害しない。
刀で銃に立ち向かうのは不利だ。しかし懐に入り込んでしまえば、相手の動きは封じられる。
対峙する男に一気に走り寄ったイングヴァルは、向こうが次の行動を為す前にその喉元を掻き切った。
「クソっ! お前何者だっ!」
「ほら、お前一人になったぜ。クソ頑張れば、朝までこの身体をクソ独占できる」
「畜生っ! 馬鹿にしやがって!」
仲間の血飛沫を浴びた男が怒鳴り声を上げるが、その場から動かない。間合いを取り、隙を窺っている。だがイングヴァルはこんな相手に、余計な時間も貴重な体力も使いたくなかった。
地面に転がった一人目の男の頭部を拾い上げ、投げつける。
不意を突かれた男は呻きを零し、他愛もなく体勢を崩す。
その機会をありがたく頂戴して、イングヴァルはためらうことなく相手を始末した。
『……相変わらずだな』
「なんだ? 品がないとでも? でも連、他にどうやりようがあった? お前だって本当は異論はないはずだ」
鼓膜間近で少女の声が響く。
イングヴァルは、今夜もその時が来たと悟る。
自分の声が、段々遠くなっていく。
それに伴って、自らの意識も引き摺られるように、自分から離れていく。
毎夜訪れる、どこか遠い場所に
今宵の交換の逢瀬。
それは瞬きをする間に、いつも行われていた。
「時に苦言を呈さなければ、お前は暴れ馬のようにどこまでも駆けていきそうだ。お前のことを好きかと訊かれれば素直にはい、とは言えないが、嫌いではない。だから言っている」
『毎度のまどろっこしい言い方だな。もっと素直に言えよ、俺のことが好きだって』
「そうだな、ならばこう言おう。私はお前のことを嫌いではないが、どうやらそういうところが好きになれない」
隣には、直前までイングヴァルだった姿がある。
その姿は、顔貌も髪も纏う衣服も先刻と同じだが、唯一瞳の色が異なる。
『あー、そう。言い分はよーく分かったよ。まぁ、無理して俺の全部を好きになってくれなくても結構だよ』
イングヴァルは隣を見下ろして、その闇のような黒い瞳に答える。
『どうせ俺は死人だしな』
様々な
顔立ちは端正だが、粗野。
瞳は茶色混じりの紫。
昏い森で自らの姿を幻のように燻らせるイングヴァルは、隣にいる黒髪の美しい少女、
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