第6話 変な女と日本大使館

 サバンナはどこだー、インパラはどこだー、ライオンは、キリンは、アフリカ象はどこだー、おーい。――ブツブツ。

 パスポートを紛失したショックと、それをまだ見ぬ義妹に知られるに違いないショックから、現実逃避。

 京旗は生気の抜けた笑いを浮かべて、タクシーの窓から外を眺めていた。

 本当にアフリカっぽくない。サバンナも野生動物たちも影も形も見えない。ただ街が広がっていた。

 意外な光景だ。

 アフリカの小国のことだから、首都といっても辺鄙な土のにおいのする街を想像していた。

 が、空港から五分で入った首都は、近代的な超高層ビルがババーン、ババーンと立っている。

 ガラスを多用した摩天楼もある。

 ラグーンからの水蒸気と、自動車やバイクの廃棄ガスで曇っているビル群。

 アフリカとは思えない近代都市。

 ちなみにその首都の名前はダメジャン。

 だめじゃん……

 って、下らねぇよ。

 自分のセンスの悪さに、また、がっくりと肩を落とす。

 ううっ、最近、いいトコなしだ、オレ……

 ヨーロッパで売り出し中の天才少年パティシエのはずだったのが、どこからケチがついたろう。「パティシエはアーティスト」宣言をしてからというもの?

「つーか、海臭い……」

 潮の香りが、タクシーの中まで充満している、と最初は思ったのだが、実は車内が魚臭いようだ。信じがたいことだが。しかし、なんでだ?

 意識しはじめたら、パティシエの嗅覚を容赦なく苛みはじめる異臭。うぷっと吐き気を覚える生臭さ。

「ああ、あゆかな?」

 ふんふん、と自分の腕に鼻を近づけて子犬のように嗅いで、あゆは悪びれもせずに言った。

「今朝も、ラグーンに釣りに出て、魚さばいてきたところだから~」

「つ、釣りが趣味なんスか!!」

「うん、そぉ」

 こくり、と首を前に倒して、笑顔でうなずくあゆをみて、京旗はずざざざざ、と妖怪でも見たようにいざり下がった。タクシー内で、後部座席のドアに、背中がドン! とぶつかる。

 釣りが趣味。

 なるほど魚のニオイは、確かにこの女から漂ってきている。ぷ~ん、と。

「は、鼻が曲がる……!!」

「ああ」

 ポン、と手をスローテンポに打って、あゆ。

「そういうときには、魚屋のじーちゃんから教わった常套句がある。言ってもいいか?」

「…………?」

「てめーの屁より臭かねぇよッ!!」

 あゆは凄み、それから不意に、ほけら、と笑った。

「…………!!」

 京旗は、絶句し、わなわなと震えて半泣きだった。

 女の子とゆーのは、もうちょっとキレイ好きで清らかで小うるさいにしても華があって、というようなものであるはずなんではなかったのか?! 

 屁とか言うなー!!

 嫌な感じがしなくて、不思議とカラッとしているのは救いなのだが!



 結局、中心街の大使館事務所に行き、パスポートの再発行申請などの手続きをしながら、京旗は自分から喋る気力も失っていった。パスポートが降りるには、しばらくかかる。そう聞いて、がっくりきた。

 推定未来の義妹と義父とを見たらこの国とは即おさらばだ。パリに帰って修行再開! と思っていたのに。

 カカオの原産国といえば、パティシエにとって、さぞかし魅惑の土地だろうと思う人間もいるだろうが、残念ながら、京旗にはそれほどの感銘はない。

 原産国ではカカオを収穫して積んで周囲の繊維質を落とすために発酵させるだけ。チョコレートにする大事な工程は、輸入した国の側で行われる。

 ローストしたりブレンドしたりミルクを混ぜたりコンチング、リファイニングという、粒子を一七ミクロン以下という脅威の小ささにして舌触りをよくする仕上げ機械にかけたり、テンパリングして成形して冷やし固めてラッピングして熟成させたり……カカオ豆をチョコレートに仕上げるのは、チョコレート製造会社の仕事。

 もちろん、原産国に良質なカカオを生産してもらうことは大事だが、パティシエとしては、できあがったチョコレートをいかに扱うべきかを探求するのが身上。よしんばここで栽培地のカカオの木の森を見学できたとしても、ふーん、で終わってしまうだろうな、と京旗は思う。

「あゆちゃんに迎えに行ってもらったのは、さ来週、日本から視察団が来るんで、準備でちょっと、みんな忙しくってね」

 視察団――えらいヒトビト――がやってくるのは数年ぶりという。ワール国内を案内する観光旅行や各所協力施設の所長などの日程確保、コーディネートで慌ただしいというそんな中、京旗の担当をしてくれたのは助かったが、コーヒーを出してくれた大使館職員は、

「そういえば、京旗君は有名なパティシエなんだよね?」

 書類の空欄を埋めている京旗に言った。京旗はあやうく、ブーッとコーヒーを吹きそうになった。

「だっ、誰がそんなことをここで吹聴したんすか?!」

 まさか、兆胡サンが?!

 いや、京旗の菓子はまずいとけなしていたくらいだから、自慢話をするわけがない。

「いやあ、うちの家内が雑誌で読んでてね。今回、私も見せて貰ったんだけど、凄いんだねぇ、あれこれ、いろんな雑誌で、ずいぶん沢山、記事に書かれてる人だったんだね。――あ、意外に思うかも知れないけど、ダメジャンの本屋にはフランスの本や雑誌がけっこう入ってて」

 雑誌。それは、盲点だった。

 ネットだけだったら、人は知らないものは調べ始めないため、検索されない。知名度はあがらない。だが雑誌でなら、知られるとっかかりができる。

 それに、本国の日本人社会ではなくてフランス語を日常で使う日本人社会だ。

 元宗主国がフランスだし、仏軍が駐留していて、現地フレンチスクールの生徒だけでも三五〇〇人、ざっと日本人の一〇〇倍が滞在している国のこと、パティシエの一色京旗が知られていても、おかしくはなかったのだが……

 まだ知られていないと思っていたのは、甘かった。

 京旗の表情は硬く、目を逸らし、ニコリともしなかった。

「悪いんすけど。もう菓子作りは、僕、やめたんすよ」

 後ろから、隠していたナイフを突き出して見せるような、重い口調になっていた。我知らず。

「あ、そうだったんだ……」

 バツが悪そうに、大使館員が視線を落とした。しかしそれとほぼ同じ瞬間、

「えっ、やめたのか?! なんでっ?!」

 ガチャンとコーヒーカップを置く音がした。

 京旗の横で、今の今まで他人事のような顔で――実際、パスポートをなくしたのは彼女にとって他人事なので、非難する理屈はないわけだが――コーヒーを飲んでいたあゆが、びっくり目になっていた。

「…………」

 その顔を見て、京旗はムカッときた。

 不意打ちだった。

 こいつ、オレがパティシエの一色京旗って、知ってやがったのか!! 今まで知らない顔していやがって、この嫌味天然ボケ女!!

 京旗は何も返事をしなかった。黙々と、筆圧も高く、書類の続きを書いていく。

 怖い沈黙が流れ、無視された形になったあゆは、けれど、動じていなかった。

 京旗が書類を書き終わると、彼女はなにごともなかったような涼しい顔で、

「さて、では、そろそろダメジャン市内をざっと案内して、一色を送り届けてやろうと思う」

 言って、ぴょこんと立ち上がった。ニコリと笑う。

「頼むよ、あゆちゃん」

 苦笑気味に、大使館職員が二人を送り出す。

 最後に、京旗に一枚、コピーを渡した。

「実は北のほうの町で、昨日、ちょっとした武力衝突があったらしい。日本大使館でも、今、情報収集してるとこ。まだ首都は全然無事で、安全管理は日常どおり、日本人として目をつけられないよう気をつける程度の警戒でいいけど……事態の急変によっては、自宅待機とか、連絡網が回るかもしれないから、これ」

 <武力衝突>。テレビでしか聞かない単語を目の前の人間の口から生で言われて、京旗は正直、めんくらった。

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