八十五 一条千鶴は変わってる。

 一条千鶴は変わってる。


 彼女が転校してきた初日から、そんな噂がもうクラス全体に広がっていた。都会の方からやってきた彼女は、田舎の高校には不釣り合いなほど「はいから」だった。すらっとしたモデルのような体型に、鼻筋の整った透き通るような美しい素肌。彼女の美貌にクラスの男子達は色めき立ち、女子達は衝撃を受けた。教室で彼女が初めて挨拶をしている時、私も口をあんぐりと開けたまましばらく彼女に見とれてしまった。ドラマでしか見たことのないような美少女が、目の前に立っていた。


 ところが、だ。


 一条千鶴は、絶望的なくらい愛想がなかった。いや、私に言わせれば、表情すらない。教室ではただ椅子に座って朧げに前を見つめているだけで、人形のように動かない。友達が何を訊ねても、聞いているのかいないのかわからない顔をする。時にはこちらの話を無視することさえあった。男子達には、むしろそれが余計魅力的に見えたようだ。しかし、私達の間では違った。


「なんか感じ悪いよね」

「お高く止まってるのかしら」

「私達とは、仲良くする気もないってワケ?」


 そんな噂が、半日も立たない内にそこらじゅうで囁かれることになった。クラスでは割と目立たない、地味な私から見ても彼女の

「変わってる」

っぷりは異常だった。何せ一日中、ほとんど前を見ているだけで動かない。たまに休み時間に少し立ち上がるだけで、教室には妙な緊張感みたいな空気が生まれるほどだった。彼女の一挙手一投足を、男子達は皆見とれるように目で追った。


 当然、今まで男子達の注目を集めていた、ピラミッドの頂点にいたような女の子達は気分がよろしくないようで、彼女がそんなグループに目をつけられるのは時間の問題だった。




 一条千鶴が転校してきて、一週間くらい経ったある日のことだ。

 放課後、忘れ物を取りに教室へ戻る途中、私は信じられないものを目撃した。


「……一条さん!?」


 茜色に染まった階段の踊り場で、例の転校生が無残な姿で転がっていた。全身傷だらけで、雪のように白かった肌には、真っ赤な血と殴られたような青あざがくっきりと浮かんでいる。美しかったその顔はパンチを受けたボクサーのように、最早性別の区別がつかないくらい腫れ上がっていた。


 ピラミッドの頂点にやられたのだ、と私は悟った。血気盛んな女子集団が、片田舎特有の物理的洗礼を浴びせたのだろう。ボロボロになった彼女の姿に、私は背筋がゾッと凍った。


「大丈夫!?」

「…………」


 私が慌てて駆け寄った時、彼女は、一条千鶴は何も言わなかった。ただその目は…右目はもうすでに出目金のように腫れ上がっていて、見えなかったが……私にこう語りかけていた。


 触るな。


 その目を見た瞬間、私は蛇に睨まれた蛙のように体が動かなくなった。

彼女は床に這いつくばったまま、ズルズルと血の跡を残しながら廊下を這って進み出した。しばらくすると、彼女に気がついた何人かの生徒達の悲鳴が聞こえてきた。しかし、誰も怖がって彼女に触れようとはしない。私もただただ呆然と、蛇のように地を這う彼女の後ろ姿を見つめることしかできなかった。そのまま一条千鶴は、よろよろと壁に手をつけ立ち上がり、正面玄関から薄紫色になった外へと消えていった。


 あの時の、彼女の目。


 私は一条さんは人形のように大人しい、物静かな少女だと思っていた。だけど、あの目は……初めて見せた、彼女の感情が込もった目つき。それは、怒りだった。理不尽に虐げられた者が見せる、目に映るもの全てを恨む負の感情。


 その日、ベッドの中でそれを思い出してしまい、私は思わずブルっと体を震わせた。


 一条千鶴は変わってる。


 そんな噂は、彼女が転校してきて一週間も経つ頃には、瞬く間に学校全体に広まっていった。何より一番私達を驚かせたのは、例の暴行事件の次の日のことだった。あの日、ボロボロのまま帰宅する彼女の姿を、何人もの生徒が目撃していた。もうしばらくあの美しい顔を拝むことはないだろう。誰もがそう思っていた。


 ところが、だ。


 次の日登校してきた彼女の姿に、私は目を丸くした。

 あれほど腫れ上がっていた顔には、傷一つ残っていない。擦り傷に打撲の痕だらけだった体にも、何の痕跡も見当たらなかった。まるで何事もなかったかのように白い肌を皆に見せつけながら、彼女はいつものように自分の机に座った。


 一体どうなっているんだろう。

昨日の出来事が嘘だったみたいに、彼女はピンピンしている。それに、不思議なことはもう一つあった。クラスの女子のリーダー格だった、ヤンキー集団がその日は全員欠席していたのだ。


 担任の話だと、昨日から全員連絡が途絶えているらしい。教室は騒然となった。彼女を……一条千鶴を襲ったのはそいつらの仕業に違い無い、というのが私達の暗黙の結論だったのだ。その全員が、行方不明になるなんて……。蜂の巣を突いたかのように、ヒソヒソ話は大きな唸りを上げて校舎の至る所から噴出した。


「あいつがやったんだよ」

「一条さんが復讐したんだ、きっと」

「でも、どうやって?」


 私達が噂話に夢中になっている間、彼女は相変わらず自分の席に座り、ジッと前だけを見つめていた。やはり彼女が少し身動きするだけで、教室には必要以上に緊張感が走った。


「一条さんって実は、物凄い武闘家らしいよ」

「家がそっち系の人達らしいよ」

「妖怪か化け物か……人間じゃないのかも」


 真しやかな噂話が、その日は一日中机の下で飛び交った。そんな声が彼女の耳に届いているのかいないのか、一条千鶴は澄ました顔でいつも通り過ごしていた。


 私は迷った。彼女が一体何者なのか……私には分からなかった。ただ、彼女が自分を痛めつけた連中にどうやって復讐したのかとか、そんなことはどうでも良かった。ただ、昨日彼女が見せたあの目を、私は思い出していた。


 あの目を、私はよく知っている。ただただ怒りに飲まれて、視界の何もかもが歪んで見えるあの目つき。鏡の中で、何度も会った目だ。私も昔この学校に来る前は、スクールカーストの一番下にいた。ただ私は、あの時逃げることしかできなかった。一条千鶴は違う。彼女はきっと戦ったのだ。一体どんな方法を使ったのかわからないが……私にとっては、その選択肢自体驚くべきことだった。





 その日、私は放課後彼女をこっそり付けることにした。一条千鶴のことが、もっと知りたかった。ただ、どんな風に声をかければいいのかわからない。声をかけてどうすればいいのかも、友達を作ったことのない私にはさっぱりだった。右も左も数キロ先まで田んぼが広がるあぜ道を、彼女が真っ直ぐ進んで行く。学校から西のこちらの方面に、私は行ったことがなかった。彼女に気付かれないように、慎重に私は足を運んだ。


 やがて彼女は道の端に建てられた、小さなアパートの中に入って行った。周りには民家の一軒もなく、大きなブナ林がアパートの背中を覆っている。途中空き地の壁に身を隠しながら、私はその様子を少し離れてジッと見守っていた。一体何のために、私はこんなことをしているのだろう。結局、声をかけることもできなかった。軽くため息をつき、諦めて帰ろうとしたその瞬間だった。


「ひっ……!」


 私は思わず飛び上がった。私の後ろに、いつの間にか一条千鶴が立っていた。


「ど……どうして!?」

「…………」


 さっき、アパートの中に入って行ったはずなのに! 一条千鶴はいつもの人形のような無表情でジッと私を見つめた後…やがて小さく口を開いた。


「何か用……?」

「あ……あの、えと……!」


 動揺を隠せないまま、私は慌てて冷や汗を拭った。彼女の目。あの時と同じだ。まるで獲物を見つけた爬虫類の目。何だかとても嫌な感じがして、私は必死に言い訳を探した。


「その……一条さんと、話したくって」

「話……?」

 

 表情を一切変えず、彼女はその場に立ちはだかっていた。地平線のすぐ近くまで降りてきた夕日が、長い影を作って私達の足元を覆った。私は勇気を出して声を絞り出した。


「あの……昨日のこと……」

「ああ」


 納得したように、彼女は小さく頷いた。


「みんな、行方不明になったって……一条さんが、やったの?」

「ええ」


 何のことはないように、彼女は首を縦に振った。


「フフ……あなた、面白い顔をしてるわね?」

「え?」


 私は面食らった。こんなに流暢に喋る彼女の姿を、見たことがなかった。


「そんなに怖がらないで。私はあなたを取って食ったりしないわ」

「そ、そんな……」


 彼女は微笑みを浮かべながら、すっと右手を頭の上にかざすと……


「ひっ!」

、ね……」


 ……そのまま右手をスーッと前に下ろした。すると、まるで見えないジッパーがそこにあるかのように、彼女の「皮」が左右にぱっくり別れていって……


「いやああああああっ!!」


 彼女の「中」から、何かが私目掛けて伸びてきた。






 一条千鶴は変わってる。


 転校してから二週間が経った今も、そんな噂は止まることを知らなかった。その彼女は今日も淡々と、動じることなく教室で前を向いている。


「……筧ユカっていたじゃん」

「ああ。あの地味な女子」 

「あの子、一条にやられたらしいよ」

 

 私の方を見ながら、クラスメイトの同級生達が声を潜ませた。あの日、一条千鶴の中に棲む何かに捕らえられたまま、私は彼女の皮の中にいた。1年ぶりに喉を潰されて、助けを呼ぶことも、逃げることもできない。


 きっと彼女は、一条千鶴は「何か」の蛹の殻みたいな存在なのだろう。ぐずぐずと体を溶かされながら、静かに「何か」に栄養を吸い取られていく。もう元の体の四分の一まで小さくなっても、私の意識は彼女の内側で保たれていた。「何か」は私を糧にしながら、その体を「殻」の中で成長させていく。


 彼女の中身がこのまま大きく育ったら、きっといつか殻を破り「羽化」することになるだろう。


 お願い、誰か彼女の変化に気づいて。


 そう願いながら、私は一条千鶴の中でどんどん変わり果てていくのだった…。


 

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