八十四 リプレー検証

「あっ飛んだ!」


 通行人や野次馬が大声を上げた。皆一様に上空を見上げ、しきりに吠え立てている。

彼らが見物しているのは、今時珍しい、ビルの屋上からの『飛び降り自殺』だった。



『屋上に誰かいる』

『誰かが自殺しようとしている』

『20代前半の若い男が、柵を乗り越え、コンクリートの淵に立ってゆらゆらと揺れている』。

 そんな通報が入り乱れたのが、数時間前だった。あっという間に警察や消防が駆けつけ、三車線の道路は見物人でごった返した。まるで祭りか何かの賑わいようだ。近くで夕飯の買い物をしていた私は、運悪く、その波に飲み込まれてしまったのだった。


 屋上の男は警備員などが近づけないよう、扉に鍵をかけていた。よれよれの白いシャツに青いジーパン、髪を長く伸ばし、眼鏡をかけている。遠目からではその程度しか分からない。とりあえず身内や知り合いじゃないようなので、私はホッと胸を撫で下ろした。


 一体どんな理由があって自殺なんてしようと思ったのか、何も分からなかった。

 見物人の中には、センセーショナルな瞬間をその手に収めようと、スマホをかざし動画を撮影し出す者が大勢現れた。カメラのフラッシュも盛んに光の花を咲かせている。屋上から見下ろしたら、きっと星のようにキラキラと輝いているに違いない。


 ……嫌な場面に遭っちゃったな。


 そう思った。

 それと同時に、何だか映画やテレビドラマでも見ているような……現実感の無さが拭えなかった。彼は本当に、本当に死ぬのだろうか? 撮影か何かじゃなくて? 

 私は戸惑っていた。嫌悪感や恐怖、それに好奇心などがない交ぜになって、気がつくと私もまた、彼から目が離せなくなっていた。



「あっ飛んだ!」


 そして、一番初めの場面である。


 何の前触れもなく、その時はあっという間に訪れた。

 まるで糸の切れた人形のように、彼の華奢な体は力なく宙へと投げ出された。

 悲鳴にも、怒号にも似た声が地上で爆発する。見る見るうちに下へ、下へ……ビルの一階には、警察や消防員が救助用のマットなどを敷き、いつ男が飛び降りても良いように待ち構えていた。だが彼は、突風に流されると、一度ビルの壁に激突。そのままポーンと大きく跳ね、軌道を変えて道路の方へと落下してきた。


 つまり、観衆が見守っている方……ちょうど私がいた方である。


 もう、吃驚したなんてもんじゃない。一瞬にして全身の血が凍りついたような、時間が止まったかのように感じた。グングンとこちらに近づいてくる彼を、私はただ固まって見つめることしかできなかった。


 周囲の人々は悲鳴を上げながら、押し合いへし合い、蜘蛛の子を散らすようにその場から退いた。その場には逃げ遅れた私一人が残された。助けようと思ったんじゃない。ただ足が地面に張り付いたみたいになって、動かなかったのだ。彼がこっちに降ってきた瞬間、私はパニックに陥っていた。そして彼に手が届きそうになった時、私は彼と目が合った。


 その目。


 真っ赤に充血し、瞳孔が開ききったその目を、私は生涯忘れられないだろう。彼は私を見てはいなかった。目で捉えてはいても、私を私だと認識してはいなかった。きっと彼の視野はすでにあっち側の……死後の世界を見ていたに違いない。苦痛とも、恐怖とも取れる歪んだ表情で、彼は私の、を見ていた。


 ぶつかる……!


 時間は凝縮されたみたいに、ゆっくりと動いていた。ほんの数秒……瞬きをするような刹那の間で、私は彼の顔をじっと見ていた。走馬灯というのは、きっとこういうものなのかもしれない。まるでスローモーションのように……いや本当に……時間が、止まっているような……?


「タァイムッ!!」


 何処からか叫び声が聞こえて、私はビクッと体を跳ねさせ、我に返った。

辺りを見渡すと、私と、今まさに私の頭上にいる彼の周りに、全身真っ黒の服を着た男たちが集まり始めた。


「タイムです。リクエストが要求されました。これからリプレー検証に移ります」

「何……?」


 私はぽかんと口を開けた。何が何だか分からなかった。突然現れた4〜5人の男たち。よく見ると、黒服の向こうで、野次馬たちが身動き一つせずに固まっている。一人は大きく口を開けたまま。一人はコケそうになって宙に浮いたまま。まるでビデオの一時停止ボタンを押したような、奇妙な光景だった。


「何?」


 私は声を震わせ、もう一度呟いた。空気がひんやりと、ピンと張りつめている。さっきまでの喧騒が、嘘みたいに静まり返っていた。私の頭の上には、自殺志願者が宙に浮いたまま固まっている。私も私で、全身が金縛りにあったみたいに動かなかった。黒服の集団は、だけどそんなのは御構い無しに、せっせと私たちの周りを動き回っていた。


「それではこちら彼の『人生のリプレー』をご覧ください」

「なるほど……奨学金返済に、婚約者の失踪。それに会社の倒産、と。スリーアウトって感じですかな」

「だけど持病もない、健康体そのものだ。まだ若いし、いくらでもやり直せるんじゃないか?」

「そうだよ。別に人生は3アウトでじゃないしな。世の中には4桁くらいアウトを拵えて、ピンピンしてる奴だっていくらでもいるんだから」

「微妙なところですな……悩みの大きさや苦しさは、本人にしか分からない」


 ブツブツと、謎の黒服たちが何事か話し合っているのを、私は固まったまま聞いていた。彼らは一体何者なのだろうか。死神か? いや、別に巨大な鎌を持っている訳でもない。よくよく見ると、何処にでもいそうな普通のおじさん顔だ。だけどこの状況、不可解なことには変わりない。


「彼の心は、すでに死んでいる。絶望のまま生かしておくことが、果たして救済か?」

「だけど角度を変えて見ると、ギリギリタッチの差、まだ微かに希望は残っているようにも見えます」

「うーむ……」

「あ、そうだ」


 すると、不意に黒服の一人が、私の方を向いて話しかけてきた。


「貴方はどっちが良いと思いますか?」

「え?」

「彼は生きるべきか、死ぬべきか」


 固まったままの私の周りに、続々と黒服たちが集まり始めた。


「貴方は今ちょうど彼の落下地点にいる。避ければ彼は地面に激突して死ぬでしょう。だけどこのまま避けなければ、貴方もそりゃ怪我を負うでしょうが、彼は助かるかもしれない」

「えっと……」

「もちろん100%助かるとも限らない。助かった後、彼がどうするかも……ね。さぁ、どう思いますか?」

「えっと、私は……」


 ずずい、と迫ってくる黒服に尻込みしたが、体が動かないので下がれない。何? 何を聞かれているのかも分からない。一体どういう状況? どうして体が動かないの? どうしてみんな固まったままなの? そもそも貴方たちは何者なの? 何故……。一体どうして……。 

 

 とうとうパニックは極限に達し、私の視界は次第に真っ黒に染められて行った……。



 ……そして気がつくと、私は病院のベッドにいた。


 目を覚ますと、アレから丸一日過ぎていた。どうも記憶があやふやだったが、旦那や子供たちが一斉に話しかけてきて、大体何が起きたか把握した。


 やっぱりあの時、私は飛び降りてきた自殺志願者とぶつかってしまったらしい。


 飛び降り自殺を生で見るだけでもすごい確率なのに、その張本人にぶつかってしまうなど、一体どれほど運が悪いのだろうか。両腕と、肋骨を数本骨折して、私はしばらく入院する羽目になってしまった。


 肝心の自殺志願者は、何とか一命を取り留め、現在別の病院で治療中らしい。助かるかどうかは、『微妙なところ』だそうだ。TVではしきりにそのニュースが報道されていた。ネットにもこの飛び降り自殺未遂の動画が大量に出回り、刺激に飢えた世間はたちまち大騒ぎになっていた。私も何度か映像を見た。枯葉のように落ちてくる彼、そして棒立ちの私……だけど何回確認しても、例の黒服の男たちは見当たらなかった。映像がスローモーションになっている様子もない。


 彼らは一体何者だったのだろうか。あれから一度も、黒服の男たちを見かけたことはない。

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