八十三 事故物件

「事故物件に泊まってみないか?」


 如何わしい事件の遭った部屋に一晩泊まるバイトがある。


 同じ学部の友人にそう誘われ、紹介してもらったのは大学の近くにある一見普通のアパートだった。なるほど事故物件と言われてみれば、確かに周りは不気味なほど静かだ。山の麓に位置するそこは中々に不便そうなところだった。だが、ちょうど金欠だった僕にとっては、他のバイトよりも遥かに高待遇なその誘いは願ってもないものだった。


 201号室の鍵を受け取って、築20年以上はある古ぼけた木造アパートに僕らは足を踏み入れた。本当はこのバイト、一人で泊まらなければいけないらしい。事件が事件だけに、依頼主からは他言無用だと言われたようなのだが……。


「でもよ……やっぱり怖いじゃんか。バイト代は半々な、へへ」


 友人が照れたように頭を掻いた。まあ僕だって、怖くないかと言われれば怖い。決して霊感なんてあるわけじゃないけれど、人が亡くなった部屋でのん気に寝ていられるかと言われると別の話だ。事故物件なんて、普段なら手を出そうとも思わない。友達と一緒だったから、怖いもの見たさで参加したようなものだった。


「なんだこりゃ……」


 部屋に入った僕らは、思わず固まった。禍々しい怨念が…とかそんなんじゃない。むしろその逆で、部屋の中にはびっくりするくらい何もなかったのだ。机も椅子も、ベッドも本棚も何もない。それに床から天井、四方の壁に至るまで全方位が真っ白だった。あるのは正面の大きな窓くらいだ。


「きっと事故があって……掃除したんだよ」

「すげえな……」


 荷物を下ろしながら、僕らは落ち着かないまま何もない部屋に腰を下ろした。携帯や財布、食料の持参は認められているが、それ以外は持ち込み不可だった。山の麓だったためか、あいにく部屋は圏外だった。僕らはしばらく談笑し、ネットに繋がっていない携帯をいじっていたが、それでも夜はまだ半分も経っていなかった。


 僕らは仕方なく、何もない床で雑魚寝することにした。当然、電気はつけたままだ。真っ白な空間の中で北側にある大きな窓だけが、夜の闇に黒く染められている。いつの間にか雨が降っていて、透明なはずの黒いガラスをコツコツと雨粒が叩く音がした。


「……何か感じるか?」

「別に……お前は?」

「いや……おい、急に『わあ!』なんての無しだからな」


 僕らは天井を見上げながら、他愛もない話にお互いニヤニヤ笑っていた。このまま朝まで寝ていればお金がもらえるんだから、楽なバイトだ。やがてどちらともなく口数が少なくなり、眠りに入ろうとしていた頃、僕はふと天井の隅に広がる黒い染みに気がついた。



 ……あんなもの、来た時にあっただろうか?

 

 小さな米粒のような黒い染みは、眠気でボヤける意識の中でゆらゆらと揺れていた。やがて染みは目の前で細胞のように堆積を増やしていき、みるみるうちに扇のように広がったかと思うと…

 ピチャン、と音がして『染み』が僕のすぐそばに落ちてきた。


「うわああ!」


 当然、僕は飛び起きた。なんだ、今のは?雨漏りか?ドッ、ドッと心臓の鼓動が耳の奥に響く。いや、それにしては……まるで、まるで血のように真っ黒な色だった。


「おい!?」

僕は隣にいた友人を起こそうとして…ギョッと手を引っ込めた。

「うううぅ……!」

まるで何かに取り憑かれたように、友人の顔が真っ白になってうなされている。


「どうした!? 風邪か!?」

「ううううぅ……!!」


 寒さに凍えるように、全身を小刻みに震わせている。血の気の引いたおでこに手を当てると、途端に熱が僕の掌を焼いた。


「待ってろ! 風邪薬とってくるから!」

「ダメだ……!」


 慌てて立ち上がろうとする僕の腕を、友人は驚くほど強い力で掴んできた。


「バイト代が…;泊まってなきゃ」

「んなこと言ってる場合かよ!」


 僕が腕を振りほどこうとした、その時。

「うわっ!」

 パァン!と大きな音がして、天井の白い蛍光灯が割れた。思わず身を屈めた僕の背中に、細かなガラスの粒が降ってきた。白い余韻を残して一瞬で真っ黒に染まった視界の中で、僕は必死に叫んだ。


「大丈夫か!?」

「あ、ああ……かすり傷だ……!」


 暗闇の中で、友人は相変わらず僕の腕を握ったままだった。いつの間にか大粒になった雨が、しきりに窓を叩く音が部屋中に響き渡る。遠くの方で雷鳴が轟く。僕はゴクリと唾を飲み込んだ。


 キィィィィィ……。


 ……と、背中の方で、鍵をかけていたはずの扉がゆっくりと開く音がした。暗闇の中に、外から明かりが差し込んでくる。ありがたいはずなのに、僕は振り返ることができなかった。後ろから気配は、感じない。当たり前だ、だって僕には霊感なんてないんだから……。


「ぎゃあああああああああああ!!!!」


 僕の背中越しに扉を見ていた、友人が絶叫した。情けないことに、僕はそのまま友人に折り重なるように失神してしまった。







「……おい、起きろ! おい!」

「う……うぅん。あれ……?」


 目を覚ますと、真っ白な天井を背に友人が僕を覗き込んでいた。友人はニヤニヤ笑いながら僕の頬を叩いた。


「全くお前、大物だよな。いくら事故物件とはいえ、こんなにぐっすり眠れるもんか?」

「は?」


 僕は寝っ転がったまま部屋を見渡した。割れたはずの蛍光灯は、しっかり残っていた。天井は来た時と同じように真っ白で、染みひとつできていなかった。


「……お前、風邪は?」

「風邪?」


 きょとん、とした顔で友人が首を傾げた。嘘をついている様子もない。ということはまさか…夢か?それにしては、妙に生々しい…。


「おいおい、大丈夫か?」

「……昨日何か変わったことは?」

「何にも? お前がうなされてたくらいかな」

「………」


 僕は起き上がり、友人を見つめた。友人が思わず吹き出した。僕は顔が赤くなるのを感じた。それから部屋を引き上げるまで、友人はずっとニヤニヤしていた。もう二度とあんなバイトするものか。その日の夜、やわらかな毛布に包まれながら、僕はそう誓ったのだった。







 「おかしいな……」


 次の日、僕は大学の図書館にいた。ふとあのアパートのことが気になって調べることにした。だがどれだけ過去の新聞やネットを調べても、事件や事故の記録は一切出てこなかった。それどころか……201号室が事故物件として売りだされた事も、一度も無かったのだ。僕は友人に電話してみた。


 考えられることは一つだ。僕は友人に騙されていたのだ。事故物件なんて言っといて、僕を怖がらせるのが目的だったのだろう。だったら昨日の妙に生々しい夢も、納得が行く。


「あいつ……すっとぼけやがって!」


 電話に出ない友人に怒りを振りかざし、急いであのアパートに向かった。確か金を受け取るから、今日あのアパートにもう一度行くと言っていたっけ。今思えば、おかしな話だ。わざわざそんなことを僕に言い聞かせるように話したのは、待ち伏せするつもりなのか。


 数分後、僕はあのアパートに舞い戻っていた。201号室の鍵は、案の定空いていた。だが……あいつの姿はない。その代わり真っ白な部屋に置かれていたのは、古ぼけた新聞紙だった。


 僕は慎重に部屋に入り、訝しげながら新聞を拾い上げた。

 

 地方新聞の一面に、殺人事件の記事がデカデカと載っている。見覚えのあるその殺人現場の写真は……一昨日泊まったこのアパートだった。そして被害者の…その顔に僕は見覚えがあった。


 あいつだ。一緒に泊まったあの友人。


 僕は新聞を取り落とした。事件が起こったのは一緒に泊まったあのアパートで、昨日の晩……。


 そこで殺されたのか……?

 じゃあ、事故物件で起きた事件っていうのは……昨日のこと?

 いや待て、おかしいぞ?だったら何故、僕はこの部屋に入っていられる? 警察やら、野次馬やらが集まっていないのは何故だ? そもそも日付は……1976年?



 キィィィィィ……。


 ……と、背中の方で、扉がゆっくりと開く音がした。

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