五十五 アイデンティティ
「先生、さよならー!」
「はい、さようなら」
「先生、待たね!」
「気をつけて帰ってね。転んじゃダメよ」
職員室の前の廊下を、ドタドタと駆け抜けていく子供たちを見送りながら、私は苦笑した。帰りの会ではあんなに眠そうにしていた子たちが、終わった瞬間に元気を爆発させている。しばらく小鳥たちの巣に放り込まれたような気分になって、それから最後の下駄箱の向こうに消えた後、私は洗面所に向かった。
メイクを洗い落とし、ファンデを塗り直して、私は『先生』をやめる。『お姉さん』をやめる。
再び洗面所から外に出た時、私は『恋人』で、『妹』になっていた。
『今どこ?』
『会いたいよ』
『今日は早く帰れるの?』
『いつもの店、予約してるから』
スマホを開くと、欲しかった言葉が明るく輝いていた。矢継ぎ早に送られていたメッセージに、恋人で妹の私は、とても人様には見せられないような甘えた返事をする。今日は早く帰れるのだった。慈愛と奉仕の精神も何処へやら、私は立場も肩書きも全部放り出して、浮き足立って『いつもの店』に向かった。
次の日、後ろ髪を引く彼の手を振り解いて、私は『恋人』をやめる。『妹』をやめる。
自宅に辿り着いた時、次に私は『妻』で、『母親』に戻った。
「もう少し、早く帰れないのか?」
「子供の夕食に、弁当が……」
「仕事もいいけど、家庭だって大切だろう?」
「最初に分担すると言ったのは、キミじゃないか」
旦那の小言を宥めすかして、私はエプロンをまとって台所に滑り込む。台所はいい。肉を切る音や、野菜を煮込む匂いが大好きだ。ここに立てば、『先生』でも『恋人』でもなくて済む。自分が『お姉さん』だったことも、『妹』だったことも、欲しくなかった言葉の数々も全部水と一緒に洗い流されていくみたいだ。そうして私は夫とともに布団に潜り込み、また明日『先生』で『お姉さん』になる準備をするのだった。
だけど次の日、世界は『明日』をやめていた。
夫は『夫』でも『父親』でもなくなり、痴漢の『犯罪者』になっていた。私は、あの堅物の夫に限って、まさかそんな勇気すらないだろうと笑ったが、事実はどうかは分からない。全てが明るみになるのは、捜査が進んだ後、まだまだ先の話だろう。
おかげでいつもの学校は『学校』ではなくなった。憐れみと好奇の目線がサーチライトのように飛び交って、普段の何気ない一言でさえも、鋭い刃になって私の心を突き刺した。
もちろん私が疑心暗鬼になっているだけだろうが、どうも勘ぐられているような気分が拭えないのだった。存外憂鬱だったが、それが当たり前なのかもしれない。きっと私が色々な仮面を持っているように、他の人だって、この世界だって、私の知らないたくさんの顔を持っているのだろう。
事態を知った恋人は急に私との距離を詰め始めるし、子供たちは、『母親』の仮面を被り損なった私に急に距離を取り始めた。あんなに欲しかった言葉が、急に鬱陶しいだけのものに変わり、恋人との連絡も途絶えがちになった。子供たちは、ほとぼりが冷めるまで、しばらく叔母の家で預かることになった。
「先生、さようならー!」
「はい、さようなら」
子供たちが、いつものように廊下を駆け抜けていく。
私は彼らを見送った後、私は『先生』をやめる。『お姉さん』をやめる。それから無意識に次の仮面を探しつつ、私は思わず苦笑した。結局何をやめたって、何を始めたって、私は私をやめられなかった。
再び洗面所を出た時、私は私になっていた。
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