四十七 強くてニューゲーム

 寝ぼけ眼でぼんやりと部屋を見渡すと、机の上で、昨日の私が突っ伏して寝ているのが見えた。あぁ、そうだった。昨晩、私は私の中の何がそうさせたのか、突然資格試験の勉強をしようと思い立ったのだった。熱病に浮かされるみたいに、教材とノートを開き、そしてそのまま寝てしまったという訳である。


 あぁ、嫌だな。

 昨日の私が、そのまんまになっている。

 

 そう思ったが、後処理をしない訳にもいかない。仕方なく今日の私は、倉庫から金属バットを取り出し、昨日の私の頭に思い切り叩きつけた。グチャッ、と鈍い音がして、昨日の私の首があらぬ方向に曲がった。半開きになった昨日の私の額から、赤黒い液体がドロリと溢れ出す。


 我ながら、バカみたいだ。何を浮かれていたんだろう。どれだけ無駄な努力を繰り返したって、何にもなりゃしないのにな。


 今日の私は小さくため息をついて、昨日衝動買いした教材をゴミ箱に放り込んだ。それから服を着替え、のろのろと出かける準備を始めた。



 会社に行く途中、朝の満員電車の中で、偶然三年前の私を見かけた。

 私は驚いた。就職活動の帰りだろうか。三年前の私は、似合わないスーツに身を包み、疲れた顔で優先席に座り込んでいた。今となっては初々しい、懐かしい顔だ。


 あぁ、嫌だな。

 三年前の私が、そのまんまになっている。


 そう思ったが、放っておく訳にもいかない。三年前の私をよくよく観察していると、彼女はちらちらと、目の前の老婦人を盗み見ていた。きっと席を譲るべきか譲らないべきか、迷っているのだろう。今日の私は舌打ちした。

 

「ちょっとすみません」

 今日の私は人の壁を押しのけ、三年前の私の元へと行くと、彼女の首根っこをぐいっと締め上げた。途端に三年前の私は顔を真っ青にし、苦しそうに口の端から泡を零しつつ息絶えた。

「どうぞ」

 それから今日の私は、目の前の老婦人に優先席に座らせた。


 良かった、三年前の自分の過ちを、今日正せて本当に良かった。三年前、私は一体何をぐずぐずと、迷ってばかりいたんだろう。人に親切にできない弱さなんて、そんなの持っていても仕方ないのに。


 私は息絶えた三年前の私を抱えて、次の駅で降りた。三年前の私の死体は、今の私には驚くほどずっしりと重かった。私は良いことをしたはずなのに、その日は何故だか、一日中気分が晴れなかった。


 夜も遅く、仕事を終え家に帰ると、中学生の私がリビングで小躍りしていた。私は少し驚いて、しばらく玄関で固まった。


 あぁ……

 

 ……あの頃、一体何があったんだっけ? 


 私は首をひねった。中学時代のことなど、もうほぼほぼ忘れてしまっていた。 

 中学生の頃の私は、今の私に気づくこともなく、嬉しそうに顔を綻ばせていた。こんな風に感情をあらわにして喜んだことが最近あっただろうかと、私は一瞬胸が詰まった。


 よく見ると、右手に(今時珍しい)手紙を握りしめている。どうやら片想い中の先輩から、オーケーの返事をもらえたらしい。そんなことで……とも思ったが、当時の私には、世界中のどんな大事件よりも重大な関心事らしかった。もちろん今の私は、その恋の結末も知っている。中学生の私が、何だか哀れな気持ちになると同時に、少し羨ましくも思えた。


 あぁ……あぁ。何だか、良いな。


 あんな風な時期が、この私にもあったんだな。


 また……


 また、やり直せるかな?


 あんな風に……素直に、子供みたいに無邪気に。嬉しいことは嬉しいって、そう思えるかな? そうしたら昨日の自分も、三年前の自分も否定しないで、ちゃんと受け止められてたのかな?


 ……まだ、今の私にだって、引き返せるのかな?


 私は中学生の私から目をそらし、そのままUターンして玄関から出て行こうとした。このままここにいると、不覚にも泣いてしまいそうになった。


 私は今日初めて、昔の私に会えたことを感謝した。中学生の自分に、教えられてしまった。できるかどうかは分からないけれど、私はもう一度、やり直したい。過去の自分を殺さないで、受け止めてあげられるような、そんな人間に私はなりた

「どこに行くつもり?」

 不意に声をかけられ、私はハッと顔を上げた。


 玄関先に、明日の私が立っていた。私は腕時計を覗き込んだ。時刻は0時を回ろうとしていた。


「あなた、今更引き返したいとか、まだそんなこと言ってるの?」


 明日の私は呆れたように、今日の私に金属バットを振り下ろした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る