二十三 知ってる。

 家に帰り着いた途端、ドキリとした。

 

 玄関の鍵が、開けっ放しだったのである。

私が住んでいるマンションは、入り口にまずオートロックがある。共用の入り口からエレベーターで部屋まで上がり、そこにも其々鍵がかかっているのだが、私の部屋、609号室の扉の鍵が開いたままになっていた。

 

 閉め忘れた? 

そう思い、首をひねった。いや、確かに今朝出る時は、鍵のかかるカチリと言う音を聞いたはずだった。

もしかして……。

 最悪の出来事が頭をよぎって、私はさあっと青くなった。


 私の住んでいるT地区は、お世辞にも治安が良いとは言えない。だからこそ無理してオートロックのマンションに住んでいる訳だが、昨今の泥棒にとって、そんなものは何の足しにもならないのだと言う。


 科学技術の進化は、同時に犯罪をも進化を促す。

その手のプロが使っている道具が、堂々と通販サイトで売っている時代だ。今じゃミステリー小説の密室殺人なんて、飛んだ茶番か、おとぎ話になってしまった。そう簡単には人が殺せなくなって、ミステリー作家もさぞ嘆いていることだろう。


 ……などと、先日見たワイドショーの防犯啓発VTRを思い出しながら、私はすっかり怯えきってしまった。もし部屋に、泥棒が侵入していたらどうしよう? 

 稼ぎは知れてるとは言え、部屋が荒らされたり、通帳や貴重品を持ち出されてはたまったもんじゃない。思わず廊下を振り返った。


 街は静かだった。

細い一本道に白白とした蛍光灯が等間隔で並び、その隣には、底知れない夜の暗闇が佇んでいた。終電も終わったような時刻に帰宅するから、他の住人の影さえ見当たらない。今、襲われたらきっと助からない。そんな焦燥が、喉元からせり上がって来た。


 か弱い私は(友人からは私の『か弱さ』について、賛同を得られたことが未だないが)、ゆっくりと、自分の部屋の扉に手をかけた。そのまま少しだけ開けて、じっと目を凝らした。自分の家だと言うのに、こっそりと中の様子を窺う。誰かいないか。玄関は電気が消えていて、幸い荒らされた様子もなかった。


 ホッとため息をつき、だけど、すぐに思い直した。玄関扉の向こうには、狭いながらもリビング、台所、風呂場、寝室、クローゼット、ベランダ……などなど、隠れる場所などいくらでもある。もしどこかで私を待ち伏せにして、部屋の中で襲うつもりだったらどうしよう? 私はゴクリと唾を飲み込んだ。絶対『無い』とも言い切れない。足音を立てないようにして、玄関に滑り込んだ。こうして真夜中、自分の部屋で、見えない相手とのかくれんぼが始まった。


 はじめに確認したのは、玄関を抜けたすぐ隣、リビングだった。そろそろとすり足で忍び寄り、ハッとなった。やっぱり……微妙に、ゴミ箱の位置だとか、床に散らばった雑誌類の位置が変わっているような気がする。私は必死に、朝方見た部屋の様子を思い出そうとした。


 ……うん。やっぱり何かおかしい。私の知らない場所に、お菓子があったりするし、そう言えば何だか部屋の空気がひんやりとしている。誰かがここで、冷房を使っていたのかも知れない。これはいよいよかも。そう思うと、もうそうだとしか思えなくなって、私はぎゅっとバッグを握りしめた。


 バッグの中には護身用のスタンガンが入っていた。いざとなったら……いや、台所があるのだから、包丁を取りに行った方が良いか。電気はつけず、そろりそろりと台所へと向かった。半透明のガラスの向こうに目を凝らし、人影が蠢かないか、闇の中で息をひそめた。


 警察に電話するか……しかし、飛んだ勘違いだったと言う可能性も、まだある。その時だった。扉の向こう、右の方からガサガサと物音が聞こえてきて、私は声もなく飛び上がった。


 トイレ……忘れていた。人ひとり隠れるならもってこいの小部屋だ。軽く半狂乱になった私は、急いで台所に駆け込み、戸棚から包丁を抜き取った。その瞬間、トイレの扉が開き、

「ひっ……!?」

 目の前に、見知らぬ男が立っていた。

背の高い、大柄な男だった。黒いジャンパーに、これまた地味な色のチノパンを履いていた。洋服が闇に溶け込むような、そんな格好をしていた。彼は私を見下ろし、驚いたようにしばらくトイレの前に突っ立っていた。後ろからは勢いよく流れる水の音が聞こえてくる。私は両手で包丁を握りしめたまま、しばらくその知らない男と見つめ合った。


「……ぅぁあああああッ!?」


 どうしてこんなに怖いのに、悲鳴のひとつ出てこないんだろう?

そんな風にぼんやり思っていると、何処からかつんざくような悲鳴が聞こえてきた。それが自分の声だと分かるまでに、数秒かかった。とにかく無我夢中で、私は半狂乱になり、男に向かって包丁を突き出し続けた。男も突然の私の登場に驚いたのか、さほど抵抗も見せることなく、初撃で大動脈を掻っ切られた。首元からばばっと鮮血が吹き出し、アバンギャルドな絵画みたいになって、台所の壁に模様を作った。それで侵入者は絶命していたのだが、それからも私は泣きながら、包丁を振り回し続けた。気がつくと、床はどす黒い水たまりが出来上がっていて、私のくるぶしの辺りまで濡らしていた。


 警察を呼んだのは、それから数時間経ってからだった。


 正当防衛が認められると思ったが、逮捕されたのは私だった。警察は、私のことを若年性のアルツハイマーだとか訳の分からないことを言って、精神鑑定の結果がどうとか、保護観察が何とかかんとかゴニョゴニョ言った。心配して田舎から飛んできた親に引き取られ、私は何故か介護施設で寝泊まりすることになった。もちろん仕事どころではなかったし、有り難かったけれど、何だか釈然としなかった。ワイドショーでは、『自分の夫を殺した錯乱妻』なんて刺激的な報道がしきりになされていたが、あんな事件が自分の身にあったばかりだし、前ほどのめり込んで見ることもなくなってしまった。ちらりと見た被害者の男の顔は、全く知らない顔だった。


 だけど数日後……その介護施設で、私は再び戦慄することになる。


 深夜。消灯時間を過ぎ、鍵がかかっているはずの施設が、開いているのだ。


 私はその時、かくれんぼがまだ終わっていないことを知った。


 施設の人に訴えても、「そんな事は知らない」「もう休みなさい」の一点張りだった。彼らは鬼に遭った事がないのだ。真実は、私だけが知っている。


この中に……

扉に手をかける。部屋の鍵が開いていないか、ひとつひとつ確かめて行く。

間違いない。あの時もそうだった。この建物の何処かに……かくれんぼの”鬼”は潜んでいるのだ。私は息を飲んだ。


早く見つけなくちゃ。見つかる前に、早く見つけなくちゃ。


護身用の果物ナイフをしっかりと握りしめ、私は暗がりの施設の廊下を、ヒタヒタと歩き続けた。

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