八 雨上がりの夜

 都会に住んでいた頃は気づかなかったが、田舎に帰ると、夜がとても暗い。

電灯はある。

ぽつり、

ぽつりと建物の明かりは見えるのだが、それもどこか、弱々しい。

まだぎこちない夜の町、角を曲がると、ふと脇道を覗き込むと。

そこに先の見えない闇が、ぽっかりと広がっている。

溢れた墨。巨大な鯨の口の中。或いは、此処ではない、違う世界への入り口か……。

じっと見つめていると、そのうち吸い込まれてしまいそうで。その度に私は、思わず身震いしてしまうのだった。


 田舎ここに来る少し前。

少し前までは、都会のネオンを浴び続け、少し歩くとコンビニにぶつかるような生活をしていたものだから、底なしの常闇に触れると、私は、何だか素っ裸で水の中に放り込まれてしまったような、奇妙な気分に襲われた。

 

 とはいえ、数日も夜を泳いでいれば、だんだんと慣れて来ると言うものだ。

あそこを曲がれば、自販機があるとか、あの坂の向こうに、病院の明かりがあるとか。

ある晩、いつもの散歩コースの真ん中に、八個の目が光っているのが見えた。

イノシシだった。

イノシシの親子が、道の真ん中で、前日の雨で溜まった水たまりを飲んでいたのだった。


 腰を抜かしそうになった私を尻目に、思う存分水を飲み終えたイノシシの親子は、優雅に坂を登っていき、森の方へと消えた。それ以来イノシシとは会っていない。だけど夜の町で、明るいうちにはおよそ出逢えないような、不思議な生き物たちといっぱい出逢った。


 たとえば夜の公園で、池の中を泳ぐ人魚を見た。

彼女は池のほとりで、鱗を輝かせ、ゆったりと月光浴をしていた。一度目が会っただけで、何も言わず水の中に潜って行ってしまったけれど、あれは確かに人魚だった。立ち昇る白い水しぶきとともに、巨きな魚の尻尾を、確かに私は見たのである。

また深夜のコンビニで、死神がエナジードリンクを腕いっぱいに購入しているのを見た。

これから一仕事するのだろうか、鎌を抱えた黒装束は、骸骨の顔に汗を滲ませ、慌ただしげに走り去って行った。

閉館後の体育館の駐車場では、白い浴衣姿の女性が道に迷って途方に暮れていた。

どうやらこの町に住んでいた人の家に行きたいらしい。よおく話を聞くと、どうやら知っている場所だったので、道案内した。目的の民家の前に辿り着くと、彼女は喜んで、玄関も開けず、そのまますーっと家の中に入って行った。あれは幽霊ではなかったかと、今思い返すと背筋が凍る。


 皐月ちゃんも、私の出逢った不思議な生き物の一人だった。

同い年くらいで、背格好も似ている女の子。話を聞くと、彼女は隣町に住む中学生だった。

「ねえ」

 最初に話しかけてきたのは、皐月ちゃんからだった。夜に飲み込まれた公園の中で。古ぼけた、継ぎ接ぎだらけのジャージ姿で、彼女は地面に這いつくばっていた。

「この辺に財布落としちゃってさ。アンタ、明かり持ってない?」

 はじめは面食らったが、行くアテもなかったので、しばらく一緒になってその辺を探し回った。程なくして財布は草むらの中から出てきて、お礼に缶ジュースを奢ってもらって……それから私たちは仲良くなった。


 と言っても、皐月ちゃんと逢うのは夜の間だけだ。お互い別々の中学に通っているし、昼間は何をしているのか知らない。夜の、それも彼女が姿を現すのは、決まって雨上がりの晩だけだった。草木が露に濡れ、アスファルトもまだ乾ききらない頃。雲の切れ間から降り注ぐ月明かりに照らされて、ジャージ姿の皐月ちゃんが、ふらあっと現れるのだった。


 鮎釣りだったり、虫取りだったり。

皐月ちゃんは、都会に住んでいた私が知らないような遊びをたくさん教えてくれた。男の子みたいに髪を短く揃え、少しぶっきらぼうな様子の皐月ちゃんだったけれど、笑った時のえくぼがとても可愛かった。皐月ちゃんは滅多に笑わなかったけど。川のせせらぎを、木々のざわめきを耳にしながら、私たちは明け方まで遊び回った。

「学校には、行ってなくてさ」

「ふぅん……」

 どんな会話の流れだったか分からない。

ある晩皐月ちゃんと、そんな話をした。今はおばあちゃんの家で、昼は畑のお手伝いをして暮らしているのだという。私は興味がないフリをして、それ以上聞かなかった。皐月ちゃんもそれ以上話さなかったし、私の方にも踏み込んで聞くようなことはしなかった。私はホッとした。本当は私も、同じだったからだ。田舎に帰る前、都会にいた頃から、しばらく学校へは行っていない。

なんで?

そんな風に、理由を聞かれるのが怖かった。とても誰かに説明できるような話ではなかった。


 ずっと、昼間は家に閉じこもっていた。

学校へ行かなくなってから……なんとなく自分が誰からも必要とされていないような、居場所がなくなってしまったような、そんな不安に駆られていた。お日様の当たる空の下で、自分は生きていてはいけないのだと、なんとなくそんな気になっていた。もう少し私が大きかったら、それは『罪悪感』だとか、『自尊心が傷つけられた故の〜』……なんて、自分の気持ちを少しは言葉にできただろうが、その時の私にとっては、とにかく陽の光を避けるのが大事なことだった。


 明るくなかったら、誰にも見られないで済む。

 正しさの刃に裁かれないで済む。

 信じてもいない理想を掲げないで済む。


 先の見えない闇は、吸い込まれてしまいそうで、少し怖くもあったけど、容赦なく明るい光に照らされ続けて、そのまま燃え尽きてしまうよりは幾らかマシに思えた。暗闇の海に身を溶かすのが、その時の私の唯一の生存方法だったのだ。


 皐月ちゃんは私のことを知らないから良かった。そのまま知らないでいて欲しかった。醜い私を。弱い私を。汚れた私を。闇の中で、どうか輪郭を溶かしたままで、本音を濁したままで、正しさを曇らせたままで、彼女と逢っていたかった。

「また逢える?」

 別れ際、ふとそんな言葉が私の口から飛び出して来た。普段はそんなこと言わない。お互い連絡先も知らなかった。なんとなく夜の町角で出会って、またなんとなく別れて行く。皐月ちゃんは、少し驚いたように目を丸くしたけれど、やがてあの可愛らしい笑みを浮かべて私に言った。

「雨が上がったらね」

 だけどその夜以来、しばらく雨は降らなかった。


「仏壇に手を合わせて行きなさい」

 とうとう都会の実家に帰る日になって、最後におじいちゃんがそんな風に私に言った。

結局、お父さんお母さんの元に戻っても、学校へ行くかどうかは何も決まっていない。だけど、いつまでも此処にいる訳にも行かないし、一度戻っておいでという話だった。断る理由もなかったけれど、唯一名残惜しいのは、あれから一度も皐月ちゃんと逢えていないことだった。夜空は晴れ渡っていた。隣町に探しに行くほどではなかったし、私は一人ぶらぶらと、人魚や死神や、幽霊たちと戯れて過ごしていた。


 襖を開け、仏壇の前に座る。

むにゃむにゃと意味のないことを頭の中でつぶやき、ふと顔をあげると、見知った顔が飛び込んで来た。


 皐月ちゃんだった。

仏壇の上の、白黒写真が並べられたその一つに、皐月ちゃんの顔が写っていた。私は思わず「あっ」と声をあげそうになった。


「おじいちゃん!」

「ん? あぁ……」


 それから詳しい話を聞くと、どうやら皐月ちゃんは、私のおじいちゃんのおばあちゃんの、弟の娘ということだった。何だかよく分からないが、私の遠い親戚だったのだ。遠い昔、ちょうど私と同い年の頃、皐月ちゃんは水難事故で亡くなってしまった……。

「お盆だからな。帰って来とったのかもしれん」

 おじいちゃんがそう言った。私は、道理で古臭い遊びばかり知ってた訳だ、と思った。もしかしたら皐月ちゃんの方は、私のことを知っていたのだろうか? だとしたら人が悪い。いや、幽霊が悪い。ちょっぴり恥ずかしく、だけどちょっぴり嬉しくもあった。


 それから私は都会に戻った。

やっぱり田舎に比べて、夜が明るく騒がしく、それが何だか妙に懐かしかった。これから先のことは、学校のことも、まだ何も決まっていない。一体どうなるのか……分からないけれど、だけどそう、前よりはちょっと、私も心が軽くなったような気がする。少なくとも、天気予報を気にするようにはなった。雨上がりの夜には、近所の公園を散歩してみようか……なんて、そんな風に思いながら。

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