萌え上がれキョンタム
堀川士朗
萌え上がれキョンタム
「萌え上がれキョンタム」
堀川士朗
これは、タリホー連邦が北方の超大国、北の国に戦争で破れた頃の、主人公キョンタムが失恋から立ち直るまでのとても長くて、とても短いお話。
タリホー連邦敗北。
戦災孤児のキョンタムは5才で森林首都エルトポ近郊のユルユル孤児院に預けられた。
ユルユル孤児院。
キョンタムは、院長で修道女の90歳のミュノリばあちゃんによくかわいがってもらっていた。
優しい人だった。
絵本をよく読んでくれた。
綺麗なおばあちゃんで、ホリエ&ヒッバーナの香水をいつもつけていた。
やがてキョンタムもそこを出て自立し、大人になった。
エルトポ中央駅に店を構える大型スーパーのティニ屋に就職が決まった。
タリホー連邦森林首都エルトポ。
大森林に囲まれた巨大な都だ。
トイチャムラ・フンス市場。
ティチヴァン・ミュノリとはここで出会った。
彼女はホリエ&ヒッバーナの香水をつけていた。
キョンタム20歳。
ミュノリは21歳だった。
すぐに恋に落ちた二人。
「キョンタム。あなたの少年ぽいところ私好きよ」
「そうかい。嬉しいな。もっと言って」
「私はペットよ。愛玩動物。愛情を与えてくれればくれるだけ、あなたに愛を返すわ」
「僕がそれを怠ったらどうなるんだい?」
「……」
「まあ良いさ、猫ちゃん」
「ニャオ」
「まあ良いさ、子猫ちゃん。いつまでもとびきりかわいくいてくれよ」
萌え上がれ。
萌え上がれ。
萌え上がれキョンタム。
色々なところへデートした。
二人で映画『ヤマネコは眠る時以外はあんまり眠らない』を鑑賞したり、流れるプールで流れに逆らって泳ぎ、50ライドン(約100メートル)の高さの滝のプールから落下して遊んだ。
空には28色の虹がかかっていた。
その時ミュノリが少し悲しい表情を浮かべていたのをキョンタムは気がつかなかった。
プールの屋台のスパイスの効いた焼き鳥を食べたりもした。
キョンタムはミュノリとの結婚を真剣に考えていた。
明け方。
明け方が一番暗い。
暗くて、冷たい。
ミュノリの姿がない。
急にいなくなった。
置き手紙も残さず。
朝になったらベッドから消えていた。
幸せには副作用がある。
また幸せな状態であればあるほど、それを失った時の痛みは絶大だ。
庭園のベンチ。以前二人で訪れた場所だ。
となりにミュノリが座っているような気がした。懐かしさで何も考えられなかった。
不在の在を思いしる。
涙なんか出なかった。
虚無しかなかった。
キョンタムは自分の至らなさに思慮を巡らせ、巡らせ過ぎてノイローゼに陥った。
彼は喪失感から廃人になった。
一日中寝て、ゴミを漁り、ジュセル青紙虫をパンに乗せて食べた。
「僕は、自分を大切にするよ。さっき見た青、あれは普通の青で、本当の青じゃない。二人で見たあの日の夕焼けの青には遠く及ばないんだ」
ミュノリを失ってから、キョンタムは異様に独り言が多くなった。
キョンタムの中で何か別の人格が形成され、あたかもそれと会話しているかのようだった。
「猫がいなくなった。全力で探す。どこにもいない」
「もう二度と、僕の前には現れないんだ。それは受け止めよう」
「何事も、習慣だからな。何事も、時間が解決してくれる。時間は偉大だ。時間が一番偉大かもしれないな」
孤独だから、今日もうるさい。
彼はミュノリがいない習慣を心がけるよう努めた。
萌え上がれ。
萌え上がれ。
萌え上がれキョンタム。
タリホー連邦は外世界のアメリカ合衆国とも貿易の取引があった。
アメリカからは穀物と牛肉を輸入し、タリホーは防弾性能に長ける戦闘機や攻撃機や爆撃機をアメリカに輸出した。
当時アメリカはナチスドイツや大日本帝国と戦争のまっただ中だった。
同じ頃、キョンタムはスーパーチェダ屋とティニ屋マーケットの争いに巻き込まれる。
チェダ屋にはライバルのマガキ・トミゾーがいた。
チェダ屋は高級志向。
ティニ屋は庶民の味方。
キョンタムは28歳の時にティニ屋の支店長に就任すると最善の采配を振るった。
細かい気配りを忘れなかった。
ひとりひとりの客の顔と嗜好を記憶し、毎日の棚作りに励んだ。
レジスター周りにはゲッツァ草餅やハイバイチョコなどの商品を置いて、いわゆる『ついで買い』を促した。
店の売り上げは絶好調だった!
キョンタムにとってビジネスとは、ミュノリの不在を埋める大事な大事な心のケアだった。
初夏のある日、初夏初夏キャベツの仕入れを巡ってチェダ屋との間に熾烈な争いが展開された。
キョンタムは競りにも参加して良質な初夏初夏キャベツを手にいれた。
自らチャルメラを鳴らし、初夏初夏キャベツスープの屋台を引いて大ヒットした。
一杯1200ラムダで販売した。
キャベツスープは飛ぶように売れた。
最高級オリバオイルの闘いもあった。
キョンタムはひと瓶16980ラムダで販売を開始した。
価格公開前に情報を得ていたマガキ・トミゾー率いるライバルのチェダ屋はひと瓶あたり14700ラムダとした。
品質が少し違うとは言え、この価格設定の差額がその後の商戦にどう左右するかは当のキョンタムしか知る者はいなかった。
萌え上がれ。
萌え上がれ。
萌え上がれキョンタム。
蓋を開けてみれば、ティニ屋の勝利は確実だった。
マガキ・トミゾーの読みは外れた。
高級ブランドのイメージがあるオリバオイルは主に富裕層が購入していく。
まさに『高かろう良かろう』の心理が働いたのだ。
35歳の時に彼は社長に就任して株式を全て購入し、新たにタム屋デパートグループを創立する。
これは後に彼が形成するキョンタムコンツェルンのごく一部だ。
彼は全社員6000人の顔と名前と特性を覚えるように努めた。
数年が経った。
キョンタムはミュノリ以外の女性とは関係を持たなかった。
見えざる貞操の鎖が彼の中で暗に働いているのは事実だった。
キョンタムは40代になっていた。
ヴィマの刻(午後2時)。
マクバー熟成ハムなど加工食品の商標申請をしに王宮に行く。
門から王宮までの長い道のりは『カルバサ』と呼ばれる動く歩道になっている。
カルバサは何レーンもあってそれら全てがまとまって起動する様は壮観だ。
王宮にはモッス・マク・テリア殿下がいた。キョンタムの昔からの友人だ。
殿下がこぼす。
「今からへーカップ王国の田舎王様と会談だよ。うちと不戦条約を結びたいとさ。ダサい奴らだぜまっっったく!あの国の爵位、カネで買えるんだぜ。ダセえ!田舎!」
「それはお疲れ様です」
「ああ。今度ハスハス亭でグリーンロブスターでも食いに行こうや」
「はい」
「君も頑張ってくれよな。今やキョンタムコンツェルンはタリホー連邦経済を支える大事な要だからな。キョンタムまたな」
「はい殿下」
経済を支えている。
それは分かっている。
分かっているんだが………。
キョンタムの胸の内にはある種、虚しさめいたものが去来していた。
キョンタムはミュノリの美しい顔を思い出していた。
写真は一枚も撮らなかったけれど、その笑顔は劣化も風化もせずにいつまでも彼の頭の中に鮮明に残っていた。
いつも満たされない心。
いつまでも満たされない心。
あの日以来、心にぽっかりと開いた穴。
キョンタムは部下のオコンネルに命じてミュノリを探した。
それらしい情報は一切入ってこなかった。
ティチヴァン・ミュノリという名前はタリホー連邦市民データベースのどこにも記載されていなかった。
ただ、ひとつ。
北の国の諜報機関『ユニマテ』のメンバーにその名があった。
しかし人違いだろう。
今の年齢は21歳だったからだ……。
数十年が経った。
キョンタムは結婚もせず恋愛もせずに85歳になった。
手指にシワが刻まれた。
老いてしまった。
人生は、思ったより短く、とても速かった。
彼は今日の会社取り引きを部下のオコンネルに任せ、彼女と初めて出会った場所に行ってみようと思った。
最近すっかり任せっきりである。
引退を考えていた。
キョンタムは人生の幕引きを考えていた。
ステッキを持ち、よちよちと出かける。
トイチャムラ・フンス市場。
ああ。ここでミュノリと初めて出会ったんだ。
おろおろ探し回った。
必ずいると信じて。
探す。
探して。
探して。
何という事だろう。
あの時と変わらないミュノリの姿があった。
ホリエ&ヒッバーナの香水をつけていた。
しかしミュノリとやり直すには、あまりにも歳を取りすぎてしまった。
ミュノリはキョンタムと手を繋ぐと、そっと顔を近づけてキスした。
ステッキが倒れる。
しゅわしゅわと彼の肌に泡が立つ。
銀色の泡だ。
輝く光に包まれてキョンタムはハタチの肉体に若返った。
キョンタムの心の整理がつかない内にミュノリが微笑みながら言った。
「また、恋が始まっちゃうわね?」
萌え上がれ。
萌え上がれ。
萌え上がれキョンタム。
おしまい
(2021年5月執筆)
萌え上がれキョンタム 堀川士朗 @shiro4646
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