武蔵野ハイカー

モトヤス・ナヲ

第1話

 入り口のドアが少しだけ開いてカウベルが鳴った。男が隙間から顔を覗かせた。

「二人だけど入れる?」

ママはおでんを仕込みに忙しく、男の方は見ないで、

「入れるけど、おつまみ、突き出ししかできないわよ」

といった。男は頷くとドアを大きく開けて後ろにいた若者を中に招じ入れた。そしてその背を押すようにして、カウンターの一番奥にいった。そこが彼の指定席だった。

 二人はビールを注文した。ママがカウンターにビールと突き出しの小鉢とおしぼりを手際よく並べた。男はおしぼりで手を拭きながら、

「しかしお前が山をやるとは思わなかった」

と言った。若者は男のコップにビールを注ぎながら、

「いや、本当にただの山歩きですよ。登山と言っていいのか」

と答えた。男は若者が手酌しようするのを止めてビール瓶を取り上げ、遠慮がちに差し出されたコップに勢いよく注いだ。

「ちなみに、今年は、何本くらいやったんだ」

「月二は言い過ぎとしても、月一回は必ず行ってますね」

「立派なもんだな。全部ソロか?」

「はい」

「冬山もやるのか」

「低山ばかりですけど」

その時ママが割り込んだ。

 「おでん、できたわよ」

男はママに親指でいいねサインを送ると、

「じゃ、全部盛りで。お前もそれでいいだろう」

と、後の方は若者の方を向いていった。ママもそちらをチラッと見て、

「はいよ、この子、かわいい顔して山男なんだって」

ママはおでんを皿に盛りながら言った。男が付け加えた。

「しかも全部単独行の一匹狼」

「かっこいいけど、何だか危なかしいね。冬なんて辛くないかい」

「辛くはないけども、山奥で吹雪いちゃったような日には、何を好き好んで、一人でこんなことをしているんだろうという気になることはあります」

「じゃ、何でするのよ」

「わかりません」

 その週の土曜日の朝早く若者は奥多摩駅のプラットフォームに立っていた。このあたりは武蔵野のどん詰まりで、元来豊富な楢の樹海に恵まれた豊かな樹林相のはずだが、人々の欲望はそのほとんどを味気ない杉の人工樹林に変えた。そしてその欲望は留まることを知らず、今度はその杉樹林をひっぺがしてソーラパネルに変えている。若者はその構造物の金網に沿って歩いた。それでも昔道だけはいまだに往時の特徴を残しているようで、杣道を曲がると突然旧家の庭先に出たり、しばらく田畑の間を縫って歩いたかと思えば、突然黒々とした林に飲み込まれると言った、自然と人口が裸の姿でぶつかりあう前線地帯の典型的様相を呈していた。しかし奥多摩まで押し込まれた前線ももう後がなく、かつては西東京全てを覆っていた武蔵野と言われた原野は、その終焉を迎えようとしていた。

 若者はソロ登山の気ままさで気兼ねなく高度を稼ぎ、昼過ぎには雲取山のピークを越え飛騨山に向かって、見晴らしのきく稜線を気分良く歩いていた。その時前方に見える笠取山の山頂の遥か上にレンズ雲がみるみる形成されるのが見えた。飛騨山を過ぎたあたりからガスり始め笠取山のピークを過ぎると大荒れの暴風雪になった。若者は笠取小屋を目指したが暴風で煽られる雪の渦の中で方向を失い登山道を大きく外れることになった。数時間の格闘の末、彼は樹林帯に迷い込み、方向感覚は皆無だったが、ようやく視界の一部だけは確保することができた。前方に針葉樹の塊と思われる黒い影が見えてきた。奥秩父は山岳信仰が盛んなので、おそらく鎮守の森として植樹されたのであろう。目を凝らすと遥か前方に小さな祠の屋根が雪に埋まっているのが見えた。彼は胸まで埋まる雪の中を漕ぐようにして祠に来ると扉を開けた。驚いたことに先客が蝋燭の灯りの中で寛いでいた。先客は非常に落ち着いた良い声でいった。

「すっかり降られましたね」

「あっ、すみません、誰もいないかと思って」

「いや遠慮は入りませんよ、と言ってもここは私の家ではないですが」

「それではお邪魔させてください」

 若者はペコリと頭を下げた。祠の中には二畳ほどの空間があり、先客は手早くもう一人分のスペースを作りながらいった。

「どちらから山に入りました?」

「奥多摩駅からです」

「あそこから吹雪のなか此処までこれたんだ。大したものですよ」

 若者は恐縮しながらその空きスペースに収まると、荷を解きながら、先客に訊いた。

「いつも一人で登られるんですか」

「そういつも一人。楽しいことは独り占めしたいというのが私の主義でしてね、欲張りなんですよ。しかしお見受けしたところあなたも欲張りさんの一人ようだ」

先客が向き直ると、蝋燭の光が揺れ、狭い空間で闇が踊った。若者は聞いた。

「一人で不安とかないんですか?特に今日みたいな日は」

「なぜ不安なんです。むしろ楽しいじゃないですか。まず死なないための準備をする。そして準備が完璧なら、どんなチャレンジでも、ゲームみたいなもんですよ」

「すごいですね」

「山に登れば、晴れるの日も、吹雪く日もありますよ。それぞれが山なんです。晴れの山だけを愛するなんて、私にはそんなつれないことはできませんよ」

 二人の微笑みが祠の小さな空間を満した。若者は聞いた。

「死なないための準備って、なんですか」

「寒さと飢えに備えることとよく眠ること。そしたら人間は簡単には死にませんよ」

「でも、この寒波の中で眠ったら...」

「大丈夫です。寒さと飢えに十分備えていたら」

「でも...」

「あなたはここに来るまでに汗をかきましたか?」

「はい、少しかきました」

「食べ物はどうです」

「行動食をずっと食べていました」

「なら、汗が乾くのを待って、雪や風に当たらない場所を確保できたら、あとはよく寝て明日の山行に備えるだけです」

「今までずっとそうやってきたんですか」

「ええ、だから私は一人がいいのかもしれない。できるだけ軽い装備で、山の要所要所をできるだけ早いスピードで繋いでいく。そして天候が悪くなったら、すかさず天然の隠れ場所を探す。だから私は次の山小屋だとか避難小屋を探そうとはしない。吹雪の中で無事に山小屋に行き着けるなんて運以外の何もでもないからです。私は運なんていうものに自分の命を委ねるのはまっぴらご免です」

「運に命を委ねない…」

「そう、だから私は精神力なんて信じません。精神力なんてものは運の別名に過ぎない。幻で人が騙される世界です。だから何が幻で何が実体かをよく見極めること。極限になればなるほど難しくなりますが、極限になればなるほど重要になってくる」

「実体とは何ですか」

「体の中の炎、体温のことです。この炎が消えると人は死ぬ。私は私の中の炎を感じたくて、これまで山を歩いてきたといってもいいくらいだ。たとえば私は今腹が減っています。私の中の炎が薪を求めているということです。だから私はその炎をたやさないように今からこれを少しだけ食べる。良かったらどうですか。小魚と甘納豆を混ぜたものですが、これが山の非常食にはちょうどいい。いくら寒くても凍りませんし」

「すみません、少しだけいただきます」

「好きなだけ食べてください。そして体にに薪をくべたら、あとはそれを長持ちさせるために、ゆっくり眠ることです」

「少し、眠くなってきました」

「汗は十分に乾きましたか?」

「はい」

「ならゆっくり眠ることです。私も眠ることにしよう。もし明日吹雪が晴れていたら、私はあなたを起こさずに出ていきます。もし私が寝ていたら、あなたもそうしてください。ですから、ここでお別れということになります。お会いできて楽しかったです。それでは良い山行を」

 翌朝は寒さの中で目が覚めた。扉の隙間から朝日が鋭い角度で結晶のように差し込んでいた。彼の吐く息がそれに沿って紗のような幕を作った。凍える程気温が低かったが、疲れはすっかり取れていた。男は暗いうちに出かけたのか、昨夜彼が閉めていたこの狭い空間には、板張りの床だけが見えた。そして、そこに小魚と甘納豆の小袋が一つ置いてあった。彼にはそれが男の言う「人間の炎」の象徴に見えた。彼は、その袋をおし頂くようにして持ち上げると、それをポケットに入れて、身支度を完璧に整えて、祠の扉を開けた。

 朝日が大気に少しだけ紅を残して、奥秩父の山々を照らしていた。風は嘘のように止んでいて、時折杉枝を滑り落ちる粉雪が、日差しの中で小さな花火のように炸裂した。どことなく東の空の彼方で汽笛の響きがしたような気がした。彼は祠の扉を閉めると、深々と一礼して、新雪の中を歩き出した。


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武蔵野ハイカー モトヤス・ナヲ @mac-com

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