三叉の鉾 第一章 —落命歌—0
春秋 頼
第一話 始まりの日
「若君。やはりこちらにおいででしたか」
若君と呼ばれた青年の、ゆうに倍以上の体格はある男が、近づきながら巨木の影から声をかけた。浅瀬に囲まれた柔らかい芽吹いたばかりの緑の上に、その若者はいた。
「ああ。お前も知っての通り、俺の居場所は少ないからな……」
漆黒の愛馬の腹部に、横たわっていた愛馬と同じ綺麗な黒髪のディリオス・アヴェンは、寝ころんだままゆっくりとこたえた。
優しい風の中で二人の声だけが、小さな余波のようにひろがった。
「父君の領主様が御呼びでございます」国の治政を司る高齢なアイアス・レガは、哀愁を帯びたディリオスの背後から、一呼吸いれた後、言葉を声にした。
アイアスの言葉が耳に届いてはいたが、ディリオスは微動だにせず無言だった。
二人の言葉数は少ないが、それだけで通じ合えた。
面倒事が何よりも大嫌いな領主である父親と、自らは何も出来ない八方美人で裏表の顔を持つ母親の後始末を、もう何年も裏方として、処理してきたからだ。
一年の最後の暮れで、祝いの席の領主代理として、もう何年も前からその他の全ての
「……お前にも余計な迷惑をかけてすまない」
男はそのままの姿勢で、か細い声で口にした。
「私は責務を果たしているだけでございます。皆も若君をお待ちしております。宵が変わる前に、そろそろ参りましょう」
レガがそう言うと、同時に
それを目にしたアイアスは剣に手をかけて、巨体とは思えない速さで動いて、愛馬の視線の先に目を向けた。
神木の上から声がした。「レガさん。こいつら人間じゃないですよ」
巨木の上から若い男の声がした。
「動きからみて、統率が取れていることはわかります」
「レガさん。しかもあのものたちから嫌な匂いがします。森の動きからみて、百体ほどだと思います」
若い男よりも神木の中央あたりにいた、アツキの妹のサツキは報告をした。
サツキの言葉で、この森の獣ではないことは、すぐに分かった。
百体もの獣の群れはこの森にはいないし、それらが腹を満たすほどの獣も、この森にはいなかったからだ。
そして何よりも、この森に無断で近づこうとする、人間を含めた全ての生き物はいなかった。
(こいつらが、より大きな群れからはぐれたただの群れだとしたら、厄介なことになるのは必然だ。確かめておく必要と、布石が必要だな)
若君と呼ばれる者は、動く気配も見せずに考えた。
「何者だ?! 姿を見せよ!!」老将はディリオスの前に出た。
若者と同じくらい、巨大な戦斧のように太い長剣を、片手で抜いてサッと突出すると、広々とした森に向けて強く怒鳴った。
中央の神木にのぼっていた、二人の周囲の浅瀬を隔てている森が、
「言葉がわかる者なら出てこい」
ディリオスは命じるように、仰向けに寝転んだまま、ナニモノかに呼びかけた。
「この地は我らが領土だ。悪意があるものなら、何ものであろうと許さん」
ディリオスが起き上がり、強い夜目を黒々とした森へ向けて、続けて言った言葉に、森は
「レガ。
アツキはここ以外の森にも、動きがあるか様子だけみてこい。俺の嫌な予想だと、さらに大規模な群れがいるはずだ」殺気を強めた男は命じた。
「わかりました。若君のお戻りを、お待ちしております」レガは一言も意見せず、そう言った。
命令を即座に聞き入れたのは、ディリオスの国の一般兵でさえ、強さは一騎当千と呼ばれ各地で勇名な上に、その兵士たちの中でも、圧倒的に強くあらゆる面で
闇を夜を払う微弱な光が差してきた。
「もうすぐ月が当たる。お前たちは今のうちに行け」
ディリオスの言葉に従い、レガたちはすぐさま動いた。
黒馬は不安そうな
アツキとサツキは、彼の命令通り素早く動いた。
高い神木から飛び降りて、そのまま闇がはらわれる前に、暗い森に消えていった。
木々の間から、なまくらの鉄の剣のような臭いがした。
ただの鉄ではない赤い鉄——血の匂いだ。
それも獣特有の、
周囲の森にいる
冷めていた身体が、少しずつ熱くなっていくのを感じた。
月が雲の隙間から現れてきて、薄暗いときが刻々と迫っていた。
周囲の森から明らかな殺意を抱いた影が、忍び寄るように続々と出てきた。ディリオスは目を閉じて、鋼を湖に突き立てて全神経を集中させ、利き腕の左手で剣の柄を力強く握り、瞬間的動きすら見逃さないように、水面の揺れを待った。
寒い季節ではあったが、寒さは一切感じなかった。
雨も降らず、雪も落ちず、闇夜に潜むナニモノたちは、集まりきる時を待つように静まり返っていた。
水が揺れた——強く握った左手の剣の柄から、ほんのわずかな揺れが、湖を伝ってきた。
一滴の雫が落ちたほどの静かな揺れと同時に、波紋が湖につけた己の足先に、伝わりきる前に、黒い邪気をはらんだ影を、両の手で握った鋼の剣が、真っ二つに斬り裂いた。
男は水に剣先が当たりきる前に、剣舞を利用し、剣激の勢いをそのまま活かして横にさばいて、背後の影を割った。
そして武神の異名を持つ男は、自ら敵影めがけて駆けた。
首を絶ち、心の臓器を確実に斬って行った。
俊足でいくつもの敵影の間を抜けた彼の後には、黒い闇に黒いモノタチは散っていた。
そして浅く呼吸を入れた。
あまりにも生々しい臭いに(人間を食らった臭いか?)と考えた。
月明りが名匠に鍛錬された名剣に光が当たり、暗い世界に一閃が幾つも生まれた。
一閃、二閃、三閃と止まることの無い斬激は、目の前の視界を裂き続けた。悪臭を放つケモノたちを、空間ごと切るように、怒りの剣を振るった。
気づいた時には周りを、幾重にも囲まれていた。
悪臭を放つ影は前方の敵の背を踏み台にして、数十体もの敵が、次々とディリオスめがけて高々と飛んだ。
わずかだが知恵のある行動を見せた黒い影たちは、彼に襲いかかるように、幾体もの死を呼ぶものたちは、月影を背にして左右の空へ飛んだ。
彼は高速で回転を二回、三回と繰り返し勢いを増して、周囲の敵を幾つかに切り裂いた。そして五回転目の剣は空に向けて放った。そしてそれは、風を呼んだ。
かまいたちを発生させ、致命傷ではないが、最初に飛び掛かってきた左右の敵が、空中でもがき苦しんだ。
猛る男は、ソノモノたちよりも、更に上空へ切り上げながら跳ねた。斬りつけたモノを瞬間的に蹴って、足場にしながら彼は高く跳んで行った。飛び上がりながら、漆黒の外衣を外し、上空から脱いだ黒衣を、左のモノたちの視界を
最後の鎖付きナイフを、
足が勢いよく水について何もかもが赤い世界になった時には、いつもと変わらない静寂の中にいた。
荒く刻んだ己の衣からもぞもぞと、一体の物の怪が這い出てきた。下半身は刃によって切断されていたが生きていた。
斬られた半身の臓物を引きずりながら、暗がりの中をディリオスめがけて這う獣の頭部らしき部分に、彼は
脳であろう部分が斜めに水に浸った。
水面が僅かに揺れ、小さな波がたって、ソレは動かなくなった。
月が徐々にそれらをあらわにした。
弱々しい光に照らされ、ナニモノだったのかを目を凝らしてみた。
見たこともない薄気味悪いモノだった。
先ほどまで生きていたとは思えない、腐った動物の死臭のような臭いが、臓物以外から臭った。
はらわたには人間の手足や、かみ砕かれた頭部のようなものが、
彼は指で、おそらくは胃であろう、臓器に入っていた人間のかまれた死体の傷口を触った。
(死臭はやはりこいつら自身から臭っているな。肉はまだ新しい、傷口はまだ柔らかく、血も流れを失ってないほど新しい。
この森を抜けて神木まで来るには、時間的に考えて絶対に無理だ。だが、どんな生物でも無理な速さで、こいつらはここまできている。ナニモノか探る必要があるな)
ディリオスはそう思うと、他の見たこともない化け物も調べた。
狼のように鋭く体に見合わないほどの、巨大な牙を持つが異形な姿をしていた。それも姿がそれぞれ等しくなく、目のようなものが三つあるものや、それすら無いものまでいた。
ディリオスは過剰なほど調べていくうちに、黒いモノたちは月に照らされ、風化した塵となって、次々に跡形もなく消えていった。
だが最後に這っていた化け物はまだ消えずにいた。
確かに死んでいるのに、醜い姿を晒していた。
それから時間にして十数秒後に、他と同様に黒い霧のように舞っていった。
(何ものかは不明だが、どうやら息絶えてから塵のように消えるようだ。時間差があったのはそのせいか。この森の動物たちを、俺は良く知っている。何かの前兆か? 死後、塵になるやつらが群れをなして、この暗い夜に人間を襲っているとしたら、ベガル大平原は大変な犠牲を払っていることになる。
たとえ起きていても、年明けの祝い酒で酔いすぎて、まともに闘うことはできないだろう。俺たちに援軍の要請がくるのは時間の問題だな)
目が闇に慣れてきた。塵となった化け物のあとには、噛み千切られた人間の手足や頭、内臓などが多数落ちて、美しいはずの湖を、鉄の臭いがする赤色に染めていた。
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