2話——悪魔の住まう森

 プリエーヌは森の中を逃げていた。

 何処へ向えばいいかなんて分からない。

 重たいドレスをたくし上げ、慣れない靴で必死に走る。


 今捕まれば必ず連れ戻されてしまう。

 何事も無かったかのように、侯爵様の所へ連れて行かれて、当たり前のように偽物の妻になるのだろう。

 人権も尊厳も何もない。

 ただそこに在るだけ。

 息をして、耐えるだけ。

 私でも、そうでなくても、誰であっても何も変わらない。

 そんな毎日がただ過ぎて行く。

 そんなの、もうたくさん!



「きゃっ!!」


 何かにつまづいて派手に転んだ。

 靴は脱げ、枝に引っ掛かった裾が破れてしまった。

 体が地面に打ち付けられて痛い。

 息だって苦しい。

 視界に入った踵には血が滲んでいる。

 靴擦れが出来てしまったみたいだ。


 所詮は浅知恵だった。

 こんな格好で、こんな足で、逃げ切れる訳なんて無かったのだ。


 ここまでか


 覚悟して後ろを振り返った。


「……あれ?」


 すぐ側へ迫っていると思った執事の姿が無い。

 体を起こしキョロキョロと辺りを見回したが、どこにも見当たらないのだ。


 あの走力で撒いた?

 それとも、よっぽど足の遅い方だった…とか?

 そんな筈ない。


「まさか魔物!? 襲われた…」


 でも鳴き声しなかったし、足音や気配だってこれっぽっちもしなかった。

 人が襲われて気付かないなんて事、あるのかしら?

 上位の魔物なら、気付かれない内に近くにいたりするのかも知れない。

 声を上げる間も無く食べられてしまうなんて事……


 そう考えると、急に怖くなった。

 背の高い木々が生い茂る葉で日光を遮っているせいで、森の中は薄暗い。

『悪魔の住まう森』だなんて、大層な名前がつけられている割に、魔物が全然現れない。

 魔物どころか生き物の気配がしないのだ。

 私が分からないだけで、もしかしたら直ぐ側で息を殺して此方を伺っているのかもしれない。

 もしかしてもしかしたら、近くに潜んでいるのかも……

 薄暗くて異様に静かで不気味な雰囲気に、足元から震えが起こった。


 もう一度周りを見渡す。

 どこを見ても果てしない森が広がるばかりだ。

 既に何処から来たかもわからない。戻る事など不可能だろう。

 安易に森へ入った事を後悔しながら震える肩を抱いて、進むしか無かった。




 当てもなく彷徨い、希望の光が差したのは、木々の奥に建物らしき物を見つけた時だった。


 誰か人が居るかもしれない!

 もうすぐ陽が落ちるから、泊めて貰えないか尋ねてみよう。

 出来れば何か食べるものも……


 一縷の望みに再び走る。

 ところが、それが希望的観測だったと思い知らされたのは、視界に見え始めたそれらが酷く破損しており、既に使われていないであろう建築物だと分かってしまった時だ。


 森が開け、目の前に現れたのは、殆どの建物が朽ち果て、荒れ放題の廃村だった。


「そんな……」


 屋根が落ち、一部は壁も崩れ、雨風を凌ぐ事が出来そうもないそれらを見つめ、一晩の夢が潰えてしまったプリエーヌはその場に座り込んでしまった。


「……やっぱり、逃げ出す事なんて無理だったんだ……」


 今更帰り道も分からないのにどうしよう。

 このままこの場で朽ちるか、魔物に食べられるしか道は無いのだろうか。


 そっと胸元に手を当てる。

 ドレスの下には夢の彼から貰ったリングをペンダントトップにして下げている。

 いつも身に付けていないと落ち着かなくなってしまった。

 御守りのような物だ。


「…寂しいよ…」


 無意識に呟いた時、近くで扉のような物が閉まる音が聞こえた。

 はっと顔を上げると、音のした方へ視線を向ける。

 朽ちた建物の更に奥、廃村の最奥の方から聞こえた気がした。


「…誰か——」


 立ち上がると其方へ向かった。

 空がオレンジ色に染まる中、不気味な廃村の奥へ進むと、一軒だけまともな建物を見つけた。

 扉の隣にある雨戸が、風でカタカタ鳴っている。

 屋根や壁が崩れたものが殆どだった中に、一軒だけ明らかに維持されている家。

 建物自体は古そうだが、手入れがされているその扉を、恐る恐るノックした。


「…すみません。…どなたかおりませんか?」


 返事は無く静寂に包まれる。

 そーっとノブへ手を掛けると扉がひとりでに開いていく。

 思い切って中へ入った。


「すみません…、一晩宿をお借りしたいのですが…」


 やっぱり返事は無かった。


 すぐ側に石で作られたような釜戸がある。

 使われている形跡は無いが、手入れがなされている。

 ゆっくり進むと、扉のない出入り口があり、その奥がリビングのようだった。


「やっぱり、誰か住んでるみたい」


 テーブルと椅子が二脚置かれている。

 その奥には食器棚があり、ちゃんと皿やカップなど食器が置かれている。

 引き出しにはシルバーが入っており、側の棚には鍋やヤカンまで揃っていた。


「でもどうしてこんな山奥に…? ここって魔物が住む森なんじゃ……」




「お前誰だ」



 突然聞こえた声に驚き、ビクリと肩が揺れた瞬間、自分の体が固まってしまった。


 指も動かな——


 首は勿論の事、上げていた手を戻す事も、指すら自分の意思で動かす事が出来なくなってしまった。


「一体何処から入って来た」


 後ろから聞こえるのは男の人の声。

 この家の家主だろうか。


「か、勝手に入ってごめんなさい! 森で迷ってしまって…」


「迷った?」


「は、はい…帰り道が分からなくて…宿を借りられたらと——」


 体がゆっくり動き出す。

 自分の意思ではない。操り人形の様に、ゆっくり声のする方へ向けられる。

 視界にキラリと何か光るモノが見えた。

 何だろう。糸?


「…魔女…じゃ無さそうだな。人間か?」


 リビングへの入り口にもたれるように立っていたのは白い男性だった。

 肌も、髪も、身に付けている服も白い。

 見る限り若そうに見えるが年齢不詳だ。

 そして恐ろしい程綺麗な顔をしていた。


「正直に言え。どうやって此処まで来た?」


 答えているのに何故同じ事を聞くのだろうかと思いつつ、プリエーヌは此処まで来た経緯を説明する。


「ある方から逃げて来て、この森へ入りました。そうしたら迷ってしまって、当てもなく彷徨っていたらいつの間にか此処へ着いていたのです」


「馬鹿な。この森に入った人間はもれなく魔物の腹に収まる事になってる」


「私もそう思っていましたが、運のいい事に魔物には一匹も出会わなくて…」


「会わなかった?」


「はい」


 すると男性の美しい顔がニヤリと歪んだ。

 酷く恐ろしく見えたのは気のせいかしら。


「残念だったな。お前の目の前に居る」


「え…っと、何が……」


「魔物だ」


 そう言った彼の身体がみるみる巨大化していく。


「っ……——」


 腕が増え、顔が膨張し、胴体はムクムクと膨れ上がる。

 カタカタと震えるプリエーヌの前に現れたのは、真っ白い巨大な蜘蛛の化け物だった。

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