1話——遠い記憶

 目が覚めると、広いベッドの上だった。

 汗をかいたのか、肌に触れる布が湿っぽい。

 髪が首に張り付いていて不快だ。


 今のは、夢…だったのかな……


 今し方見た彼が、声が、手に触れた感触が残っている。

 知ってる人の筈だ。

 だけど、顔が思い出せない。

 私を呼ぶ声を聞いたのに、私を何て呼んだか思い出せないのだ。

 左手を見てもあのリングは光っていない。


「やっぱり夢か…」


 都合の良い夢を見たものだ。

 あんな風に私を見てくれる殿方なんて、居る訳もないのに。

 自嘲気味に笑い、重たい体を引き摺るようにベッドから降りた。

 とにかく気持ちの悪いこの下着を変えたい。

 そう思い、ふらふらしながらドレッサーの前まで行くと夜着を脱いだ。

 そこに用意だけされていた衣類を手にし、何の気無しに鏡を見る。


「え……」


 首元に光るネックレスを見て、呆然と立ち竦む。

 そこにあったのは、ネックレスのトップで輝きを放っていたのは、夢で見た筈のリングだったのだ。



 ルーズリー男爵家四女、プリエーヌ。

 それが私の名前。

 風邪を拗らせて三日間、高熱の為に意識不明だったらしい。

 あの夢擬きを見たせいなのか、『プリエーヌ』と呼ばれてもしっくり来なくなってしまった。

 前世の意識とプリエーヌの意識が混在してしまったせいなのか、今まで当たり前に出来ていたことや感じていた事が、当たり前で無くなってしまったのだ。

 なんだか中身と外側が別の人間になってしまったようだ。


 只でさえ戸惑っていた私に、追い討ちを掛けたのは両親だ。

 元々家に寄り付かない父は、心配するどころか、顔を見にも来てくれない。

 母は母で、顔を合わせれば罵詈雑言のオンパレードだったし、挙句の果てには父への悪態まで此方へ向けられる始末。

 所作のお稽古も、ダンスのレッスンも、お勉強も、まともに出来なくなった事を理由に全て監視された。


「姉達は良品だったのに、お前はどうしようもない愚図だね」


「どうせ使い物にならないのだから、せめてルーズリー家の役に立てるよう死ぬ気で努力なさい」


「全く。何度同じ事を言えばわかるのか。こんな役立たずが私の腹から出て来たかと思うと虫唾が走る」


 止まない悪口雑言、侮蔑の眼差し。そんな毎日に精神が蝕まれていった。


 そんな中でも、僅かだが心休まる時間がある。

 唯一の楽しみで、得意だった手仕事。

 その時間だけは何も考えず、作業に集中出来る唯一の癒しの時間だ。

 ひと針ひと針丁寧に差し込み、彩りの糸で刺繍をしたり、小物を作ったりと、自分だけの時を過ごした。

 自分で使おうと思い、前世の記憶を頼りに、飼っていた猫の刺繍を施したハンカチーフは、母に見つかり一瞥されると目の前でゴミ箱へ捨てられた。


「本当にお前は不良品だね」


 私の中で何かがぷっつりと切れてしまった。



 ある時、突然父が帰宅した。

 会話の全く無い形式上のディナー中、唐突に見せられたのは魔道具で映しだされた一人の男性。

 派手な正装に身を包み、整えられた白い口髭と白い髪、鋭い眼光が印象的な老紳士だ。


「アネール・ラ・アドゥルト侯爵様だ」


「アネール様…」


「お前を大層気に入られたようだ。妻に迎えたいとお話が合った」


「え…?」


「5日後に迎えが来る。準備を整えておけ」


 決定事項だけ告げると、一度も目を合わせないまま父は席を立った。

 どういう経緯で婚約に至ったのか、相手の方がどんな方なのか、何故私だったのか、何も仰ってくださらないのですね。



「良かったわね。お前のような不良品にも嫁ぎ先があって」


 そう言い放つ母は、暗い光を瞳に宿し、恐ろしく口元を歪めて見せた。


 部屋に戻る途中でメイド達の噂話を耳にする。

「あの侯爵様、70歳ですって」

「色んな女性と噂になってた方でしょう?」

「隠し子があちこちにいるって話よ」

「お嬢様、可哀想ねー」


 クスクスと笑いを漏らしながら、楽しそうに会話をする彼女達に気付かれないよう部屋へ戻ると、ベッドに顔を埋めた。



 どうしてこんな目に合わなければいけないの?

 見向きもされない事が悲しくて、それでも私なりに頑張ってきたつもりだったのに。

 何がいけない?

 どこが駄目?

 どうすればいいの?


 私の居場所なんかどこにもない…

 寂しいよ……



 ——寂しくないようオレがちゃんと側にいてやるよ……



 顔のわからない彼の声が聞こえた気がした。

 首から下げたネックレスを手に取ると、左手にはめてみる。

 何故だかぴったりと薬指へ収まった。


 私の手を握るその感触がやけにリアルだった。

 あれは本当に夢だったろうか?

 夢だと思い込んでいるだけかもしれない。

 私の側に居ると言った彼は、何処かにいるのではないだろうか。


 握られた右手をぎゅっと握り締める。


 ここには私の居場所なんて何処にもない。

 毎日監視されて、蔑まされて、惨めな思いをしながら耐えるだけ。

 しかも数日後には嫁がされてしまう。

 手掛かりはこのリングだけ。

 顔も名前もわからない。

 近くにいるのかいないのか、何処をどう探せばいいかなんて私に分かる筈もない。


 それでも!


 それでも…——




 良い考えが思い浮かばないまま、5日が過ぎた。

 朝早く叩き起こされ、ドレッサーの前へ座らされる。

 髪を丁寧に編み込まれ、丹念に化粧を施され、一度も目にした事のないような装飾品とドレスで着飾った。

 高級な香水を振りかけられ、完成した偽物の人形が鏡に映っている。

 哀しいを通り越して何だか笑えてしまった。


 迎えの馬車が到着し、小さな荷物をひとつだけよそ行きの笑顔を貼り付けた執事へ渡す。

 玄関先では不自然な程寄り添った父と母が見送りに出ていたが、一度も其方を振り向く事はしなかった。


 流石、侯爵様が用意してくださった馬車は乗り心地が違う。

 揺れは少なく、座席にふかふかのクッションが敷かれている事もあって、お尻に伝わる衝撃は少ない。


 このままではお屋敷に着いてしまう。

 どうしよう……

 どうしたら……


 窓に掛かるカーテンを捲ると、目の前には深い森が広がっている。

 馬車が走る道の左側に広範囲にわたって広がっているようだ。

 上手くこの森へ逃げ込んでしまえば、逃げられるかもしれない。

 そう考え、御者側の小窓を叩いた。


「具合が悪くなってしまったので、少し外の空気を吸わせてください」


 そう言ってこっそり離れようと思ったのに、執事がちゃんと付いて来た。

 恥を忍んで「用を足したい」とまで言ったのに、「その場で後ろを向いておりますので」と真顔で言われてしまった。

 こんな森の中に女性を一人で行かせる筈など無かったのだ。


 そりゃそうよね。大事な大事な婚約者ですもの。


 更に奥へ行こうとして執事に止められる。


「これ以上は進めません」


「どうしてですか?」


「魔物が出るのです。ここは『悪魔の住まう森』と呼ばれ、森に入ったら最後生きて出る事は出来ないと言われています」


「悪魔の住まう森…」


「危険ですから、一刻も早く此処を離れたいのです。恐れ入りますが、お急ぎ頂けますか?」


「わかりました。では後ろを向いていてください」


 執事が背中を向けたのを確認して、ゆっくり後ずさる。

 少し距離を取ったところで森へ走った。

 履き慣れない靴のせいで上手く走れなかったが、必死に足を動かした。


 気付いた執事が後を追ったが、次の瞬間プリエーヌの姿が忽然と消えてしまった。


「なっ! …何処へ!?」


 彼女が消えた場所で立ち止まり、右へ左へ視線を向ける。が、彼女の姿は何処にも無かった。

 そのうちに、奥から木々を薙ぎ倒す音が聞こえてくる。

 その音は微かな地響きと共に此方へ向かってくる。

 何処からどう現れたのか、木々の間から顔を覗かせたのは、巨木程ありそうな『オーガ』だ。


 悍ましい咆哮に、震える脚を必死に動かし、執事は馬車へと転がる様に走って戻った。


「お嬢様が消えた! 魔物に襲われてしまったかもわからん! 直ぐに旦那様に」


 言い終わらないうちに馬車を走らせる。

 来た時とは比べ物にならない速度でその場を後にした。


 御者の男が後ろを振り返る。

 執事が現れたと言ったオーガの姿は何処にも無い。

 あの噂は本当のようだ。


 森に入った者だけが魔物に襲われる


 暗く陰惨な雰囲気に包まれた森に、ブルリと体を震わせると、御者は前へ向き直り、馬の尻へ鞭を入れた。

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