『48million外伝 ~永遠のアイドル~』
48million外伝 ~永遠のアイドル~
アイドルなんて嫌いだ。
それが
テレビをつけても、
「楓ちゃんは可愛いから、お祖母ちゃんみたいなアイドルになれるわよ」
女子としての自我が芽生え始めた頃から、楓は周りの大人がそんなことを言って自分を褒めそやすのが、嫌で嫌で仕方がなかった。
私はお祖母ちゃんじゃない。アイドルになんて、死んでもなってやるものか。
楓の祖母は、アイドル戦国時代と言われた今世紀初頭、この街出身の人気アイドルとして一時代を築いたそうだ。
祖母を輩出した巨大アイドルグループは、今や国内最大の自動車メーカーや鉄道会社と結びついて全都道府県に支部を構えるまでになっていたが、そもそもその進撃のきっかけを作ったのが祖母やその世代のアイドル達の活躍だったらしい。
いい迷惑だ、と楓は思う。
彼女達が頑張りすぎたせいで、楓は生まれた時から偉大な祖母の影を背負わされ、誰からも自分自身を見てもらえない少女時代を過ごすはめになった。
彼女には、本当に自分のものだと胸を張って言えるものなど何ひとつなかった。楓という名前すらも楓のものではなかった。小学校の宿題で自分の名の由来を母に尋ねたとき、母はにこにこと笑って「お祖母ちゃんがドラマで演じた役名からとったのよ」と言っていたが、楓はちっとも嬉しくなどなかった。
テレビの中では、来る日も来る日も、いい年した大人たちが真面目な顔をして、どの支部のどのアイドルが一番魅力的かなんて話で盛り上がっている。未だに祖母の名を引き合いに出し、どこそこの誰それはその再来だなどと騒ぎ立てる声も少なくなかった。
楓自身も
祖母自身に恨みがあるわけではない。だが、祖母の栄光をなぞって生きることを強いられる人生に、楓は心の底からうんざりしていた。
そんな祖母が亡くなったのは、楓が生まれて初めて自分のものだと思えた恋心を成就させ、その愛の結晶を身ごもって半年ほど経った頃だった。
葬儀には多くの芸能関係者が駆けつけ、テレビでは祖母の生涯が連日にわたって特集された。もう何十年も芸能活動などしていなかったはずなのに、祖母は今でもこの国の人々にとって伝説のアイドルであるらしかった。
「楓ちゃん。元気出してね」
火葬場の煙となって天に還ってゆく祖母を見送ったあと、楓の肩にそっと手を添えてきたのは、楓も何度か顔を合わせたことのある祖母の友人の女性だった。祖母と共にアイドルグループの黎明期を支えたという彼女は、祖母と違って結婚後も芸能界で活躍を続け、つい先日、傘寿を機に女優業を引退していた。
「松井さん。……べつに、落ち込んでるわけじゃないんです」
年齢相応の皺を刻んだ往年の人気女優の微笑みに、自分も穏やかな笑みで応えながら、楓はそっと言葉を返した。
祖母という人間がこの世からいなくなってしまったことは、もちろん寂しかった。だが、それ以上に楓の心を占めているのは、寂寥感とも開放感とも違う、自分の一部が自分でなくなってしまったような不思議な感覚だった。自分の心がそんな反応を示すことは楓自身にも意外だった。祖母が他界した今こそ、楓の人生は本当に楓のものになったはずなのに。
「お祖母ちゃんは、私の中で大きすぎる存在だったから……。なんだか、ずっと背負ってた荷物を、今やっと降ろしたみたいな気持ちです」
そんな楓の言葉を聴いて、祖母の友人は、目元を細めてしんみりと言った。
「私もそうかもしれないわ。……違う道に分かれても、ずっと、彼女の存在を私も背負ってたのかもね」
彼女はじっと天を仰ぎ、祖母の還っていった先をいつまでも眺めていた。その隣で同じように空を見上げていると、楓の目にもなぜか涙が溢れてきた。
「……レナちゃんは、また私を置いて先に行っちゃった」
この街で祖母と栄華を競った元アイドルは、夕焼けに染まる空の下、ぽつりとそう呟いた。
後日、祖母の遺品整理に呼ばれた楓に、母が手渡してきたのは、今の今まで倉庫で埃をかぶっていたような古い冊子だった。水色の表紙には若き日の祖母が儚げな笑みを浮かべて写っており、下の方には「Graduate」の横文字が添えられている。
身重の楓に気を遣ったのか、大きな遺品の整理は他の親族が既に済ませているようだった。
「お祖母ちゃんの、卒業コンサートのパンフレットですって」
母は言った。中年から初老に入りかけたその目には、さすがに疲れが差しているように見えた。
「要らないわよ、私」
楓は思わずツンとした口調で返してしまったことを少し反省したが、母は意にも介さない様子で、その冊子を大事そうに袋に収めて楓に差し出してきた。
「そんなこと言わずに、持っててあげてよ。その子にも見せてあげたらいいじゃない」
母は楓の大きなお腹を指して、その子、と言った。生まれてくる子供が女の子であることは妊娠直後の遺伝子検査でわかっていた。だが、楓はもちろん、自分の娘を芸能人になどしないと心に決めていた。
「そんなに好きだったなら、お母さんがアイドルになったらよかったのに」
楓が言うと、母は少しだけ淋しげな表情になった。
どんな強力な七光があろうと、アイドルなど、なりたいと望んでなれるものではない。楓の母は楓の祖母になることはできなかった。その叶わなかった夢を母が自分に託そうとしていたことに、楓はずっと前から気付いていた。
ふう、と空気を変えるように母は溜息を吐き出し、畳の部屋に置かれたいくつかのダンボールを見やった。
「こっちは処分するしかないわね。もう再生できる機械もないし」
それらの箱の中には、祖母の青春時代を収めた旧規格のCDやDVDが大量に入っているらしかった。音楽といえばダウンロード販売、動画といえばネット配信しか知らずに育った楓には、祖母の世代の人々がそうしたディスクを一枚一枚購入して楽しんでいたという光景をすんなり思い浮かべるのは難しかった。
それでも、処分という言葉の響きになんだか妙な切なさを覚えて、楓は結局、母が渡してきた紙の冊子と一緒に、祖母の卒業コンサートのDVDを一枚だけもらって帰ることにした。あれほど自分を苦しめてきた祖母のアイドル活動の歴史といえど、それがそのままゴミに出されることはなぜだか堪えられなかった。
「バカ言うなよ。今時、光学メディアなんか見れる環境があるわけないよ」
夕食の席で楓が相談すると、もうすぐ父親になる夫は、眼鏡のレンズ越しに眉をひそめて言った。
「やっぱりダメかな。昔の映画マニアの人とか、あなたの知り合いにいない?」
「再生機器の問題じゃないんだよ。そりゃ、ダビングを定期的に取り続けてきたんだったら、プレイヤーがあれば見れるだろうけど……ずっとお義母さんのところに仕舞ってあったディスクなんだろ?」
楓が頷くと、夫は残念そうな表情で首を横に振った。
「俺達が生まれるずっと前にデータは飛んでるよ」
楓の母が生まれるよりも前に誕生したDVDという記録メディアは、耐用年数に難があり、たとえ再生機器があってもディスク自体の寿命でほんの数十年もすれば見られなくなるということだった。
今世紀の貴重な記録が失われようとしている、という話は、楓が生まれた頃には社会問題として取り沙汰されるようになっていたが、楓だけでなく多くの人が別段それに頓着してはいなかった。社会における重大な喪失というのは、いつの時代も往々にして、大衆がさほど気に留めていない内に進んでしまうものだった。
「……じゃあ、このDVDじゃなくていいから、なんとか見れないかな。私、一度くらいはお祖母ちゃんのアイドルとしての姿を見てみたいの」
夫に頼み込みながら、楓はそんな発言をしている自分を何より意外に感じていた。人間としての祖母はともかく、アイドルとしての祖母には極力触れないように生きてきたはずなのに。
「今度、テレビ局の知り合いに聞いてみるよ。さすがにそういう業界にはマスターデータがあるんじゃないか」
そう言って夫は茶碗のご飯をかきこみ、それから我が子の発育状況についていつものように楓に尋ねてきた。今日も蹴ってきたわ、と楓が微笑みながら言うと、夫も嬉しそうな表情で頷いていた。
それから一ヶ月以上が経ち、自らの胎内で夫との愛の証が順調に育っている幸せを楓が全身で感じていたある日、夫は楓が頼んだことを忘れかけていた祖母のコンサートの動画を最新の記録媒体に収めて持って帰ってきてくれた。
「苦労したんだよ。本来こういうものは部外者に提供禁止らしいんだから」
テレビ局のマスターデータを外部に持ち出すのは、著作権法や放送法がらみの様々な問題があるらしかった。夫は「飲み代のオゴリと引き換えに無理してもらった」と苦笑し、
それは楓が実家から持って帰ったDVDと同じ、祖母の卒業コンサートの記録映像だった。今から六十年以上も昔、幾万人の観客が詰めかけたスタジアムで、祖母は惜しまれながらマイクを置いたのだった。
若き日の祖母の顔は、悔しいくらいに楓自身に似ていたが、全身に熱気をまとって歌い踊るその表情には確かにその時代のトップスターだと納得させるだけの雰囲気があった。同じ顔でこうも違うものか、と楓は動画を見ながら自分の頬を引っ張ってみた。
満員のファンに囲まれ、多くのメンバーをバックに従えて、祖母はきらきらと輝くアイドルオーラを纏ってコンサートのセンターを張っていた。激しい曲や切ない曲を目まぐるしく歌いこなす祖母の姿は、夜闇に包まれたステージの上で千変万化の煌めきを放っていた。
コンサートの観客は祖母の名を叫びながら、しきりに緑色の
「でも、テレビ局の人は一体どうやってこういう動画を保存してるの?」
動画を見終えたあと、楓が夫に尋ねてみると、夫はそのテレビ局の知人から仕入れてきたらしい知識を楓に教えてくれた。
「外部メディアじゃなくて大型の保存サーバがあるんだとさ。でも、全部の芸能人の記録を何十年も残し続ける余裕なんかないから、要らないものから消していってるのが実際のところらしいよ。実は、お祖母さんのコンサートの記録映像も、この卒コンの分しかもう残ってなかったみたいだ」
それから夫が追加で語ったところによると、今は個人でもネットのクラウドサービスというものに大容量のデータを貯蔵しておける仕組みが整っているとのことだった。脆弱な手元のメディアに保存するのと違って、クラウドサービスが終了しない限りは恒久的にデジタルデータを保存し続けられる、というのがその仕組みの売りであるらしかった。
「お祖母さんほどの大スターなら、DVDからデータを吸い出してクラウドに保存してるファンは山のようにいるはずだよ」
だが、そんな説明を聞いて楓はこう思っていた。サービスが終わらない限り永遠に、というのは、言い換えれば、どこかの企業や政府の気まぐれでいとも簡単にデータは失われてしまうということではないか。
世界のあちこちに分散配置されているというクラウドデータ保存用の機械も、一体いつまで壊れずに稼働し続けることができるのか? 天災や戦争でそれが物理的に破壊されてしまったら? クラウドサービスを提供している企業がその事業から撤退してしまったら? もっと単純に、データの所有者がクラウドサービスにお金を払うことをやめてしまったら?
祖母という人間がこの世に存在した記録は、ほんの僅かなきっかけで永遠に失われてしまう。
その歌声も、語った言葉も、流した汗も、こぼした涙も。
彼女の駆け抜けた青春は、誰にも顧みられることがなくなってしまう。
楓が死ぬまでの間くらいなら、世の中の誰かが祖母の記録をどこかに保存し続けていてくれるかもしれない。だが、その先は? 何十年、何百年先の未来には、誰がどうやって祖母の人生を伝えてくれるのだろう?
楓には急に、自分達が生まれたこの時代が無性に恐ろしいもののように思えてきた。平安時代に書かれた小説でさえ、古代エジプトの人々が刻んだ壁画でさえ、悠久の時を超えて今に伝わっているのに。自分達の生きた記録は、たった数世代先にさえ伝わらないのかもしれない。
「……お祖母ちゃん」
もっと早くに見ておけばよかった。もっともっと知っておけばよかった。
晩年、病床にあった祖母の優しい微笑みを思い返し、楓はとめどなく溢れる涙を止められなかった。夫の宥めてくれる声を意識のどこかに聞きながら、楓は声を上げて泣き続けていた。
本当は祖母のことが大好きだった自分に、そのとき初めて気付いた。
それから数ヶ月後、楓は無事に新しい命を腕に抱いていた。最愛の夫や母にも可愛がられ、娘はすくすくと健康に成長していた。
娘が少しずつ言葉を理解できるようになると、楓は何冊もの絵本を娘に読み聞かせるようにした。絵本という業界は大人の本と比べてロングセラーが並外れて多い。楓自身が母に読み聞かされて育ったのと同じ本が、今でも書店には新品で置かれていた。ご近所のママ友達も、たいていは楓の家と同じような物語を子供に聴かせて育てているようだった。
そんな中で、ただひとつ、他の家のママの口からは決して語られない物語があった。
「……むかしむかし、あるところに、レナちゃんという女の子がいました」
祖母の青春を詰め込んだ冊子を開いて、楓は娘に語り始める。娘はくりくりとした瞳に興味の色を浮かべ、楓の話に聴き入っていた。
「レナちゃんは幼い頃からアイドルに憧れていました。でも、レナちゃんの住む街には、アイドルのグループはまだありませんでした……」
語りながら、楓は自分の頬を涙が伝うのにふと気付いていた。なぜ自分は泣いているのだろう。自分の人生を奪ってきたはずの祖母の話が、どうしてこんなに心に沁み入るのだろう。
「ママ。どうしたの?」
娘はあどけない表情で楓を見上げ、まだ発音もおぼつかない口で楓に尋ねてくる。
「……ううん、なんでもないよ。続けましょうね」
楓は片袖で涙をぬぐって、また祖母の話を続けた。汗と涙の果てに夢を叶え、多くのファンに愛され、惜しまれながらこの街を巣立っていった伝説のアイドルの青春の記録を。
いつか娘も子供にこの話をする日が来るだろうか。その子供はそのまた子供にこの話を語り継いでくれるだろうか。子から子へ、孫から孫へ、世界中のすべての人が祖母のことを忘れても、祖母の生きた証を誰かが未来に伝えてくれるだろうか。
「……レナちゃんは、満員の客席を見て感動しました。お客さんの振るサイリウムで、スタジアムは一面の緑色に染まっていたのです……」
窓からの陽光が暖かく差し込む室内で、母娘の読み聞かせは続く。
それは、この国が国民総アイドル社会と化す、遠い遠い昔の話……。
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