ミサイルは落ちてこない(ノベルバー2021)

伴美砂都

ミサイルは落ちてこない

 誰もいない冬の屋上はしらじらとした色で、階段を上がってきて少し錆びたドアをそっと開け外へ出ると、つめたい風が吹く。

 出入りするドアのあるところは、そこだけぽっこりと突き出た小さな部屋のように見える。上に古いプラスチックのプレートで、階段室、とある。ほとんど使われていないこの場所で、この名前をここに掲げようと、思った人がいたのだろう。

 その階段室の横の狭いほうのスペースは、日はあまり当たらないけれど少しは風が遮られる。デスクでいつも膝掛けにしている大判の赤いマフラーを首から肩にぐるぐる巻いて、給湯室の隅の廃棄用紙の箱から持ってきた新聞紙を一枚敷いて座る。

 朝、通勤路のコンビニで買ってくるパンを食べながら少し待っていると、きい、と小さな音を立てて、さっき私が通ってきたドアが開く気配がした。ここは陰になっていて見えないし、これまでの経験上たぶん見られることもないのだけれど、心もち身体を小さくして、身を潜める、ことをイメージする。

 軽い足音の主が反対側へ行ったことを確認して、ゆっくり息を吐く。さらに数秒、数えてから、そっと覗いた。


 聡子あきこちゃんが屋上ここで泣いていることを知ったのは秋で、このドアに鍵がかかっていないということを、私が知ってから間もない。たまたま最初は見なかっただけで、彼女はもっと前から来ていたのかもしれない。

 屋上といっても、会社はたったの三階建てだ。でも、これしきの高さだってこのあたりでは他に見下ろされるような建物もない。周りは田んぼばかりで、古い家や神社を囲むようにして植えられた樹が唯一というか、とてつもなく大きいような土地。向こうのほうに国道があって、マクドナルドやショッピングモールの看板や、やけに四角っぽい雑な意匠の店ばかりが連なる風景がぼんやり見える。

 そんな風景をまるで映画かなにかの背景みたいにして、聡子ちゃんは昼休みのうち十五分ほど、屋上の手すりから一メートルほど離れたところに立って、ぎりぎりまで行かないのは下を歩く人が上を向いてしまったときに見えないようにするためだろう、少し上を見たり、俯いたりして、細い肩を震わせる。声を出したりはしない。静かに涙を流して、静かに拭い、何事もなかったように、戻って行く。


 聡子ちゃんに泣く理由など、ないように思えた。おっとりしたキャラクターなのに仕事にそつがなくて、細かいことで文句を言うので嫌がられている部長にも、怒られているところなんて一度も見たことがない。こっそりパワハラされてるとかなら別だけど、ほぼ一日中同じ部屋で働いていて、彼女ひとり呼び出されて行ったりするようなことも、ないわけで。

 聡子ちゃんがどうして泣いているのか、知りたいのかと言われたら知りたい気もするし、そうでもない気もする。わからないまま私は毎日、屋上の階段室の陰に身を潜めて、聡子ちゃんが泣いているところを、こっそり眺めている。



 屋上には赤い冷蔵庫がある。一メートルにも満たない高さで、ドアはふたつある。冷蔵庫、たぶん冷蔵庫、だと思う。ほんとに冗談みたいに真っ赤だし、おもちゃなのかもしれない。コードはついているけど屋上にはコンセントがないから、もちろん電源は入っていない。中は、恐る恐る開けてみたけど、何も入っていなかった。黒い汚れがほんの少しずつついているだけで、ひどくカビたりもしておらず、変な生きものとかも、いなかった。

 電気が通れば動くのか、たぶん動かないような気がする。横にして座れば、わざわざ新聞紙を持って来るまでもなくいい椅子になるんじゃないかな、と思うけど、なんとなく冷蔵庫を横にするのがしのびなくて、せずにいる。縦にしていても、動かないものなのに。


 冬がより近くなると昼間の光は上からじゃなくて横から差してくるような角度になる。この土地の冬はただ風が強いだけで、雪が降ったりするわけでもない。だからといって暖かいわけでもない、何もない、ただの冬だ。

 今日は明け方に少しだけ雨が降った。今はもう、色褪せたコンクリートは白く乾いている。これから春になるまで、雨も減るだろう。乾いた冬。


「あ」


 静かに立ち上がったつもりだった。コードは短いのにどう引っかけたのか、赤い冷蔵庫は倒れ、がちゃんと音を立てた。しばしの静寂。階段室の陰からそっと顔を出すと、いつものように屋上の広いほうに立っている聡子ちゃんはこちらを向いていなくて、それで私は、私が毎日ここで聡子ちゃんのことを見ていたのを、彼女は知っているんだと思った。

 そっと出て行って、聡子ちゃん、と声をかけると、ゆっくり振り向いた。白い頬に涙は、流れているかなと一瞬思ったけれど、きらきらとしたのは細かな産毛か薄いファンデーションの粒子だけで、ぱっちりした二重の眼が少し潤んでいるだけだった。聡子ちゃんはきれいで、私は聡子ちゃんのことを、とても好きなのと同時に、ずっと嫌いだったんだと思い知らされた。こんなクソ田舎を出てどこへでも羽ばたいて行けそうな彼女が、どこへも行かずここへとどまっていることを。


「泣いてるの」

「今は泣いてない」

「なに見てるの」


 問うと聡子ちゃんは空へ視線を戻した。ぽっかりと晴れた空は青いはずなのに、何もない冬に競り負けているような色だ。


「ミサイルが、落ちてくるかなと思って」

「へ」


 ミサイル、と私は繰り返した。そういえば今日、どこかの国がミサイルの発射実験を強行したと、朝のニュースでうるさく伝えていたけれど。


「わかんないけど、たぶん落ちてこないと思う、」


 言うと聡子ちゃんはひたとこちらを見つめた。怒っているようでもなく、悲しそうでもなかった。聡子ちゃんの黒目は少し茶がかっていて、こんなさつばつとした冬の太陽だってきれいに映して光をたたえていた。


「この土地にミサイル落としたって、あんまり意味なくない?」


 ミサイルについてよく知っているわけではない。ここにピンポイントで落ちるとかの話じゃなくて、どこか日本の近くの海にでも落ちたら、何か影響があるっていうことなのかもしれない。私は浅はかだし、たぶん無知だ。

 けれど聡子ちゃんは、こちらを見る目を逸らさないまま、そうだね、と言って、そして、少しだけ、少しというのは、先輩たちと給湯室で談笑する顔とかの十分の一ぐらいだけ、力が抜けたような顔をして笑って、私の横をいつもの、少し左右にふわふわと揺れるような歩き方で通り抜けて、赤い冷蔵庫の倒れた横も通りすぎ、そして、屋上のドアを出て行った。



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ミサイルは落ちてこない(ノベルバー2021) 伴美砂都 @misatovan

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