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イキリ虻
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―――7月30日―――
私は、灼けつくような炎天下を走っていた。
左の脇腹が激しく痛む。
口の中に、長時間の激しい運動の代償を味わう。肺から血の匂いが供給されてくる。
「っはぁ…、はぁ…」
それでも私は走ることを止めなかった。私は何としても君に会わなくちゃいけなかった。あの日、君が言ったあの言葉の意味を問い質さなきゃいけなかった。
私が君と出会える日、天気はいつも雨だった。
だから、私は雨が好きだったんだ。雨の日はいつも君に会えた。
―――4月8日―――
この進学校で、入学式からサボった
これまでの受験勉強を乗り越え、すっかり浮ついた雰囲気のハレの日、初めて、あるいは何度かしか着たことのない制服を着てはしゃいでいた私たちの間で、まだ友達とも呼べないような彼らと初めに交わした会話がそれだった。
何か止むを得ない事情でもあったのでは?と言いたいところなのだが、そのような良識のある人間ばかりでもない。むしろ、そのような思考に至る人間は多くはないようだった。
私たちは、彼―――日野浦慎二というらしい―――のことを笑いものにしながら、彼を餌にして交友を深めていった。
共通の話題があれば話は弾む。ひとたびそれが全員に提供されてしまえば、入学式直後の教室でのホームルームはがやがやと騒がしかった。
私たち、と言ったが、実のところ私はこの風潮に辟易していた。もちろん、これほど堂々としたサボタージュというものは到底褒められたものではない。
しかし、それをいいことに、本人のいないところで、意志を持たない案山子に石を投げるのもまた、褒められたものではないのではなかろうか。
クラスメイトを冷めた目で見ている私に、頭の上から声がかかった。座っていた私に立っている誰かが声をかけたらしい。
「よっ」
「え?ああ、こんにちは」
「うん、こんにちは。お名前なんてーの?」
「えっと…かがみさなえ。かがみが苗字で、さなえが名前。」
「うんうん、さなえちゃん、でいいかな?漢字はどう書くの?」
「そう呼んでもらって構わないよ。火の神様に小さい苗で火神小苗。そっちは?」
「あたしはね、
「ふーちゃんは、ちょっと…それじゃあ、風花ちゃんって呼ばせてもらうね。」
話題とか関係なく、間合いを量ることをせずに距離を詰めてくるタイプ、普段は苦手なんだけど、今日のような状況においては助かった。あの話題で話を振ってくる輩が多すぎて…誰かに話しかけられているうちはその猛攻から逃れることができる。
「あーゆーのうんざりだよね~」
「うん、本当に…」
「人を叩くっていう共通の目的で仲良くなる感じ?」
「でもさ、こうやってあんな人たちをうんざりだって言って話を弾ませてるのも…」
「あっ、確かに…気をつけなきゃね~」
「うん、同じ穴の
「そうだね~、あはは!」
「あはは」
何が面白いのかも分からず、私たちは笑い合った。
ああ、こういうぐいぐい来てくれるタイプ、話しやすいかも。私はコミュ力に難があるので、相手方が話を振ってくれると非常に助かる。自分から話を振れないからね。こんな感じで、私は、高校生一日目にして、友達?知り合い?を作ることに成功したのだった。
―――4月18日―――
入学式から1週間と少し経って。私は朝から暗く、重く閉ざされた空の下、学校への道を歩いていた。空を覆う雲からは、しとしとと雨粒が降り注いでいた。低気圧からくる倦怠感に頭を悩ませながら校門をくぐる。そのまま下駄箱に雨を吸い込んでしっとりした靴を放り込む。
幸い、靴下までは濡れていなかったので、そのまま上靴に履き替え、底をパタパタと鳴らして教室へと向かう。
入学から授業日にしてちょうど1週間分が過ぎ、授業のレクリエーション期間が終わって、私は進学校の洗礼を受けることになった。授業のスピードがものすごい。そんなことは入学案内のカリキュラムを見ればわかっていたことだが。
高校課程すべてを2年の3学期までに終わらせるというのだから、単純計算で1.5倍の進度なわけだ。こちとら天下の凡人がしゃかりきやって、やっとのことでこの学校に合格したのだ。凡人に凡人の1.5倍速を求められても無理な相談というものだ。
どんどん消される板書を全力で書き写し、休み時間にはわからないところを教科書を見て確認することを繰り返すと、いつの間にか放課後になっていた。一日6校時なんて飛ぶように過ぎていく。
明日からもこの地獄のような日々が続くのかと思うと、やはり私は辟易していた。低気圧と高湿度、春先の微妙な肌寒さ。これらが相まって、私の気分は底辺だった。
ちょっと気分を晴らすためにスナックでも買おうかしら。この辺に駄菓子屋はあっただろうか。朝よりいくらか激しくなった雨に降られながら、その辺を
そうしてしばらく意味もなくうろうろしていると、道端に人の影が見えた。うちの高校の男子制服を着ていて、胸元には1年であることを示す黄色のネクタイ。学校で見たことは一度もなかったのだが、同じ学年ならば、と話しかけてみることにした。
「こんにちは」
「えっ?ああ、こんにちは」
「君も学校帰り?」
「うん…まあ、そんなところ。」
すごく意地悪な質問だった。彼の服の
「えっと…日野浦くん、で合ってるかな?」
「えっ、そうだけど…どうして?」
「学校で話題になってるよ?入学式からサボった
「ああ…そういう…」
「それを餌にみんなワイワイ楽しくやってるよ。」
「はは…」
なんて性根の腐った女なんだろう。本人に向かって言うことじゃないでしょうに。気分が沈んでいるから誰かに当たりたくなった?きっとそういうことだ。自分でも細かい理由はわからないけれど。頭の中にふと浮かんだ理由で一番しっくり来たのがそれだった。
困ったように笑う日野浦くんを横目に、なんとなく湧き上がる罪悪感から空をぼうっと眺めてみる。空は、やはり黒くて厚い雲が広がって、太陽を覆い隠していた。
「雲ってきれいだよね」
そういったのは、私ではなく、私の横で同様にぼうっと空を眺めている日野浦くんだった。
「独特な感性ね…私からすれば、こんな暗雲は気分が沈むのもいいところだけど?」
「そっか。でもやっぱり、雲はきれいだよ。だって…」
そこまで言って、彼は口ごもった。えっ、何?言いたくないような理由なの?単純にポエティックな理由だから恥ずかしくなった?
「そこまで言って止めるの、結構気になるから実はやめてほしい…」
「…ごめん。でも、やっぱ言えないや。初対面の人に言うような内容じゃなかった。――君、名前はなんていうの?」
「ああ、火神小苗。火の神様に小さい苗。」
「火神さんね。知ってるとは思うけど、僕は日野浦慎二。君と同じ、
「大丈夫、入学式に出てないことがイレギュラーな時点でそこはわかってるよ。よろしくね。日野浦くん。」
「うん、よろしく。まあ、僕はこれからもほぼ通信で履修するから会うことがあるかはわからないけどね。」
自己紹介を終えて、二三言葉を交わし、私たちは別れた。初対面にしてはなれなれしすぎたかな?でも、なぜだか彼にはそうさせるような雰囲気があったように思えた。なんなんでしょうね。こういうの。はっきりと言葉では説明できないけれど。ただ、私は間違いなくまた彼に会うことになるな、という確信があった。どうしてかしら。
―――4月22日―――
その週末。週の最後の平日は、バケツをひっくり返したような大雨だった。春の嵐が私たちの住む
変な話になってきた。ばかばかしい。やめよやめよ。
ともかく、この最悪の天気でテンションをキープできる人間なんて…
「おっはよ~さなえちゃん!」
「お、おはよう…」
めっちゃいた。ハイテンション天元突破みたいな人間が。これもある種の才能というべきなのだろうか。多分、この子にとって気分が沈むことってめったにないんじゃないだろうか。でも、沈んだ時本当に深くずぅーんといきそうなタイプ。
「雨って素敵だよね!さすがに今日のレベルだとうんざりしちゃうけどさ。」
うんざりしてるようには見えないけれど。
「雨って素敵、ねぇ。私にとってみればこれほど強いデバフもないのだけれど。」
「あ、もしかしてさなえちゃんって低気圧で頭痛くなったりするタイプ?」
「そこまでじゃないけど…もしかして風花ちゃんは雨でテンション上がるタイプ?ぴちぴちちゃぷちゃぷらんらんらんな感じ?」
「あはは!なにそれ!そんなんではないけど雨はテンション上がるかな~」
「それはどうして?」
「うーん――なんとなく?特にこれといった理由はないんだよねぇ」
「ふふっ、変なの。」
ひどい雨だというのに、いつの間にか私の顔には笑顔が張り付いていた。やっぱり風花ちゃんは底抜けにいい子で、周りを明るくする能力を持ち合わせているということだろう。羨ましい。
私は何か壮絶な過去があるわけでもないのに雰囲気が昏く、周りの人間をむしろ沈ませてしまう。多分、こういうのって生来の会話テクなんでしょうね…
「あっ、一限目の化学移動じゃん!実験室いかなきゃ!早く、早く!」
「おっと、ありがとう。私もすぐ追いかけるから先行ってて」
「りょうかーい!」
雨で気分が沈んでいる中、座学に身が入る気はしていなかったので、一時間目が実験なのは助かった。中和滴定は、フェノールフタレインの色が変わるのを見極める感じが割と好きだ。
ただしかし、そのあとはすべて座学なので、私は相変わらず漫然と板書を書き写しながら授業をやり過ごしていった。
そしてその放課後。部活見学とかそういう課外活動系のものは案内すらなく、学校の施設にも特に用はなかったので、足早に家に帰ることにした。帰って寝よ。
「あっ――」
帰って寝よう、と思ったのだが、出会ってしまったものは仕方がない。声をかけないのも角が立つし。相変わらず空をぼんやりと見上げている彼に声をかけてやる。
「日野浦くん」
「えっ、火神さん…」
「また、雲を見ていたの?」
昏い、暗い雲。ずっと見つめていると、あるいは喰らい殺されてしまいそうな。飲み込まれてしまいそうな。今日の雲はなんだかおどろおどろしかった。
「今日の雲も、きれい?」
「うん。すごくきれいだ。」
「どうして?」
「それは…」
やっぱり言ってくれる気はないらしい。まあ、そこまで親しくもないし、踏み込むことはないだろう。だから、私は代わりに別の質問をした。
「普段、何してるの?」
「――普段って?」
「ほら、学校に来られないのはともかくとして、通信で授業は受けてるんでしょ?」
「そうだね。ちゃんとみんなと同じカリキュラムをたどってるよ。」
「じゃあさ、その授業以外の時間も、やっぱり私たちと同じように趣味に使ってるんじゃないの?」
「そうだね――本とか読んでるよ。戦前の文豪の作品とかが好きでね。」
「文豪っていうと…夏目漱石とか太宰治とか?」
「まあ、その辺。梶井基次郎とかね。」
「かじい…誰それ?」
「『檸檬』ってしらない?」
「『Lemon』?米津玄師?」
「違う違う。積んである本の上にレモンを置く話。」
「ふ~ん?」
文豪の小説って退屈そうだからよく知らないのよね。『走れメロス』くらいしかまともに読んだことがない。『坊ちゃん』を読んでみようと試みたのだが、文字が小さいのと、文章が小難しいので、すぐにやめてしまった。
「もしよかったら、一冊読んでみる?」
「……」
うーん、こう面と向かって提案されると断りづらいというか。まあ、一冊くらい読んでみてもいいかな、なんて気分になったりしていた。
「じゃあ…読みやすいやつを…」
「読みやすいやつか――『三四郎』とかどうかな?」
「『三四郎』?あの、東大の三四郎池の?」
「そう。その三四郎。中身は割と普通の恋愛小説かな。」
「へぇ、それなら読めるかも。」
「そう。じゃあ、ちょっと待っててくれる?」
そういうと、彼は傘も差さずに駆け出して行った。風邪ひかないのかな。私の通学路は見通しのいい一本道だ。要は、彼が走っていくのが結構遠くまで見える。別に見たいわけでもないが、他にすることもないので、そちらの方を見ている。
しばらく走って、彼は道のわきにある一軒家に入っていく。一軒家なんだ…彼の家は結構なお金持ちなのかもしれない。それから2分ほどして、彼は傘を差し、本を手に持って出てきた。自分が濡れるのは気にしないけれど、本が濡れるのは気にするのかな。彼は傘を差していてなおこちらに向かって全力疾走してくる。やっぱり、先ほど全力疾走していたのは濡れるのが嫌だから、というわけではなさそうだ。
「はぁ…はぁ…お待たせ…」
「そ、そんなに待ってないけど?」
「そうか。ならよかった。はい、これ、『三四郎』。」
「ありがと。読んでみるね。」
そういって私は鞄の、他の収納スペースと隔たれているところに『三四郎』を仕舞った。
「じゃあ、また。」
「うん。また次の雨の日に。」
私が適当な別れの挨拶をすると、彼はそう答えた。この日からかな。私は雨の日が嫌いではなくなっていた。
三四郎は、思ったよりは読みやすく、面白い小説だった。読んだ後の私の頭には、『ストレイ・シープ』という言葉が強く残っていた。あの小説を読んだ人なら大体そうか。
それから5日の間、楠市は春の穏やかな陽気に包まれていた。その陽気が生み出す暖かい空気は、何とか授業についていこうと必死に授業を聞いている私を遥かなる深みへと引きずり込もうとしていた。要するに、超眠い。授業を何とか聞いて、板書を全力で写さないと進度が早すぎてどうにもならなくなるというのに…何とか意識を保ってノートを取り、とりあえずは事なきを得た。
―――4月29日―――
そうして前の雨の日からちょうど6日間が過ぎて。今日の雨は先週降っていた激しい雨とは対照的に、春雨というのに相応しい様子で、しとしとと降っていた。窓の外が雨模様なのを見て、『三四郎』を鞄に入れる。気圧が低くて頭が重いのは相変わらずだが、不思議と気分は重くなかった。2回しか会っていないというのに、どうしてかしら。なんだか彼とは深いところで似ていて、いい友達になれる気がしていたのだ。
授業が終わるなり教室を飛び出し、靴を履き替えて帰途につく。彼は、6日前と同じ場所で待っていた。
「こんにちは。」
「ああ、こんにちは。どうだった?」
「うん、思ったより面白かった。他にもおすすめのとかあったら貸してほしいな」
「そういうかと思って今日も持ってきたよ。今日は―――」
こうして、私は会うたびに明治・大正の文学を借りることになった。
―――Interrupt―――
もともと、喧嘩の多い両親だった。
私が夜、喉が渇いて起きだしたりすると、言い合いをしていることだって珍しくなかった。大体はしょうもない内容だった。私はいつも、自分の用件だけ済ませて足早に自分の部屋に戻っていた。日常に存在しうる
「私たち、離婚することになったの。」
だから、ゴールデンウィークの連休のただ中、父親が休日出勤でいない時、自分の母親からその報告を聞いた時、理解するのに数分を要した。その間、母親からは離婚に至った経緯が言い訳のように
目の前の事実を理解し、次はそれから波及する事象を分析した結果、私は当然とも言える疑問に当たった。
「私は、これからどうすればいいの?」
「小苗は―――」
まるでそんなこと思いもよらなかったというような反応だった。ああ、人間とはここまで愚かになれるのか。本当に自分たちのことしか考えていなかったらしい。そして、暫く考えるふりをした母の口から、一片の思考も感じ取れない提案が
「私かあの人か、どっちか好きな方について行きなさい。」
「…」
それはそうだ。私の年齢ではバイトくらいしか生活費を
だから、生活するには、お金を提供してくれる保護者が必要なのである。そして、その保護者は、親権者であるどちらかの親であるのが一番都合が良い。当たり前だ。
でも。私はそこで、それを拒んだ。
「じゃあ――どこか近くに部屋契約してよ。あと、生活費も毎月請求する。全部折半で、2人で負担してよ。」
なんで自分勝手な要求だろう、と普段の私なら二の足を踏んでいたところだが、相手の方が余程自分勝手だから。そんな口実を作って、自分勝手を通してしまった。
相手の土俵まで降りて相撲を取るなんて、今更ながら馬鹿みたいだ。
そうして、私は6月
それからの1ヶ月というもの、家の中には、私と母の他に、重苦しい空気という到底歓迎しえない同居人が過ごしていた。
―――5月6日―――
すっきりと晴れたまま終わったゴールデンウィークが明けて。ただでさえ憂鬱な連休明けは、温暖前線が生み出す穏やかで長い雨によって私たちのやる気を殆ど削ぐに至った。
ごうごうと降る雨もさることながら、こういう雨もなかなかつらいものだ。微妙に気温が下がり切らないのがよくないのよね。
そして、私のやる気も、五月病という恨むべき病によってガタ落ちしていた。惰性で板書を映すことができていたレベルから、授業中意識を保つので精一杯なくらいまで。
こんな天気でもやっぱり風花ちゃんは元気なんだろうなぁ…
「ぐぇ~~~…」
思って、
「だ、だいじょうぶ?」
「あ、さなえちゃ~ん……大丈夫だよぉ~…ちょっと連休中に深夜アニメ見過ぎただけ」
「…」
雨は全く関係なかったらしい。寝不足…寝不足かぁ…思ったより辛そうだった理由がしょぼいな…
「そうそう!今季のおすすめなんだけどね!」
「うんうん」
先ほどまでのけだるげな雰囲気はどこへやら、オタク特有のマシンガントークを始めてしまう。これは間違いなく陽のオタク。
正直なところ、今季のアニメは全部調べて、見たいものは全部オンデマンドで見ているので、その話で新たにアニメを見ることはないのだけれど、友達同士の話題として、アニメというのは非常に都合がよい。
私は適当に相槌を打ちながら、しばらくおすすめのアニメ(5本あった)とその理由について
◆
なんとなく憂鬱な授業を終えて。私はまるでそれが習慣であるかのように彼の待つ場所へと向かっていた。
「ああ、火神さん。」
「こんにちは。」
「うん、こんにちは。今度貸した本はどうだった?」
「うーん、面白くはあったんだけど、主人公がどうしても嫌いなのと、もうちょっと簡単な文章で書けないのかなって思った」
「あー、森鴎外はねぇ…」
今回、私が彼から借りたのは『舞姫』だった。知っているでしょう?多分読んだ人全員が嫌いになるであろう太田豊太郎という人間。微妙に難解で読みづらい本文。彼から借りたのでなければ、読むのを断念していたところだ。
まあ、面白かったからいいんだけど、明らかに同年代の女子に薦める本じゃないでしょ。多分何も考えていないんだろうけど。
「でも、豊太郎も豊太郎なりに葛藤はあったんだと思うよ。ほら、例えば――」
「うん、まあそれはわかってはいるんだけどね?でも――」
そうして私たちはしばらく舞姫、太田豊太郎、エリスなどについて熱弁(?)を繰り広げていたわけだが、2人揃って堂々巡りを好まない質だったらしく、30分ほどで議題が尽きてしまった。
話題が尽きると、沈黙。2人とも何か話していたいのに、その何かが自分からは絞り出せずに流れるタイプの気まずい沈黙。
先に音を上げたのは私の方だった。
何とかこの状況を打破しようと、私は最悪の一手を打った。
「親がね。離婚したんだ。」
「えっ」
当たり前だ。こんな話題を振られたら誰しも驚く。でも、1度話し始めてしまえば、それ以降、言葉は堰を切ったように流れ出てくる。
「いや、したというか。することで合意したって感じなんだけどね?――」
「うん、うん。」
重苦しいにも程がある話題にも関わらず、彼はただ私の話を聞いて相槌を打ってくれていた。
それ以降私の口から零れ出たのは、私すらも全体像を把握しきれていなかった、私の本心だった。
まだ自分は高校生なのに。いちばん面倒を見てくれなきゃ行けないはずの親は、私情に
こうして一度、自分の制御外に自分を置いてしまうと、それまで抑えていた感情が止め処なくあふれ出てしまうらしい。私はそれからしばらく話し続けた。一方的に、自分勝手に。
それでも、やはり彼は静かにうなずきながら、私の話をただ聞いていてくれた。
私の話は、特に着地点があるわけでもなく、私の嗚咽が言葉をかき消す形で終わった。
なんともならず、ただ泣いていた。きっと、その時には目の前にいる彼の存在なんて忘れていた。
ふと、体がぐらりと傾いた。泣きすぎて疲れたのかな、と一瞬思ったが、どうやら違うらしい。私の頭は、何か暖かいものに、力強く包まれていた。
「…」
それが日野浦慎二の腕であることを知覚するのに、数秒を要した。はてと思って滲む視界で見上げると、優しい目とぶつかった。
ああ、多分私が欲しかったのはこういうもの。受験の辛い時期に、私が愚痴をこぼしても「受験ってそういうものだから」とか、「根性が足りないから辛く感じるんだ」とかのたまってみせた両親に、欠乏していたもの。私はただ、「がんばれ」って言ってほしかっただけ。「つらかったね」って言ってほしかっただけ。
私は、しばらく彼の胸の中で泣いていた。その間、日野浦くんはばつが悪そうに私をあやしてくれた。…なんかごめんね。
「…ごめん」
「…いや、こっちこそ」
案の定、私が泣き止んで、正気に戻ると気まずい雰囲気が流れた。かたや、勢いに任せて女友達を胸に抱いてしまった思春期男子。かたや、その勢いに任せた行動に触発されて子供のようにわんわん泣いていたJK。
「じゃ、じゃあ私帰るね!もうこんな時間だし!」
「う、うん!また今度!」
無駄に明るい声で別れの挨拶をして、私は家に帰った。母親は家にいたが、事務的な挨拶をするばかりで、泣き腫らした私の頬を気にする様子はなかった。
―――6月2日―――
それから、5月を経て。日野浦くんから借りた本は、あれ以降増えなかった。彼は、あれから私に小説を貸してくれなくなった。多分貸したい小説がなくなっただけだと思う。私が嫌われたとか、そういうのは多分考えすぎ。彼は私と近いタイプの人間(だと勝手に思っている)なので、嫌いな人に対してにこやかに立ち回れるほど器用じゃないと思う。
さて、平年より少し早めの梅雨明けは、私が部屋を移った翌日に訪れた。まだ荷ほどきが終わっていない私の部屋には、湿った段ボールのにおいが立ち込めていた。私はこういうにおい嫌いじゃない。
親がいないと堕落するかと思っていたが、私自身がどうやら散らかっているのが許せない性分らしく、部屋はいまだ片付いている。そこ、まだ荷ほどきが終わってないからとか言わない。
全く進まない荷ほどきをそこそこに切り上げ、今日も雨の中を学校に向かい、惰性で授業を受ける。
そしてもちろん…
「こんにちは」
「うん、こんにちは。今日は久しぶりに貸したい本があるんだ」
「へぇ!なんて本?」
「太宰治の『駈込み訴え』って短編なんだけど。短編だからかの有名な『走れメロス』と一緒に収録されてるんだよね。折角だし『走れメロス』も読み返してみてよ。」
「わかった。まあ正直『走れメロス』とか内容殆ど覚えてないしね…」
「『走れメロス』が太宰本人をモチーフにしてるって話は知ってる?」
「えっ、知らない、何それ!」
「実は…」
こうして、今日久しぶりに貸してくれた本について、トリビアを余すことなく語ってくれた。こういうの、こういうの。
それから、梅雨の間、彼はずっと私に太宰の本を貸してくれ続けた。『斜陽』、『眉山』、『津軽』…。それまで、女を巻き込んで自殺をするクズくらいにしか考えていなかったが、実は底抜けの天才であったことが分かってきた。大体の小説が、私にとって面白いと感じられるものだった。
そして期末試験の直前、梅雨もそろそろ明けるかというその日。
―――7月10日―――
期末試験前日、午前授業ということで、授業が終わってすぐ学校を切り上げ、いつもの場所に向かう。今日の天気予報は終日雨。間違いなく彼は来ている。
もしよかったら、一緒にお昼でも食べようかな、などと考えながら歩いていると、軒先に人影を見つけた。
「おはよ」
「ああ、火神さん。おはよう。」
そうしていつもと同じ、いつも通りの他愛もない会話。太宰について論じたり、一人暮らしの大変さを愚痴ったり。
そんな日常は、一条の陽光に断ち切られた。天気予報が外れたらしく、雲が切れて太陽が見える。
「うわぁっ…」
雲の隙間から差した太陽光が、空気中の水滴に散乱されて光芒を作り出す。空気の淀んだ都会でも、自然の美しさを感じさせてくれる。
「ねぇ、見て!綺麗だよ!」
テンションのあがった私は隣にいた日野浦くんの方を見てそう言った。彼は、じっとその太陽の方を見つめていた。光のない、死んだ目で。
「だ、大丈夫!?日野浦くん、しっかりして!」
「う…ああ…」
異変を感じ取って、背中を
しかし、彼の錯乱は、ひとたびの晴天が終わり、再び雨が降り始めるまで続いた。
「ねぇ、本当に大丈夫?家の人とか…」
「うん、大丈夫。ほんとに、なんでもないから。」
過呼吸を起こしかけておいてなんでもないっていうのは無理があると思うのだけれど。まあ、追及するのは得策ではないでしょうね。多分過去のトラウマか何かでしょう。
その日は、そのまま別れた。日野浦くんはもっと話していこうといっていたが、もしまた一瞬でも雨が止んで、太陽が見えてしまったら困る。私じゃなくて日野浦君がね。まあそんな感じの内容で言いくるめた気がする。
―――7月25日―――
「お祭りに行こう!」
「は?」
夏休み初めの雨の日。私は日野浦くんを夏祭りに誘っていた。どうやら雨の日しか外に出てない理由は、太陽がトラウマを呼び起こしてしまうからだろう。ってことは、多分夜のお祭りは大丈夫。だと思う。
「まあ、夜の祭りなら大丈夫だろうけど。」
もう隠さないのね。まあやりやすくていいけれど。
「じゃあ、行こう!あっ、花火みたいな一瞬のフラッシュは大丈夫?」
トラウマとか以前に、これはシンプルに苦手な人がいるのだ。特に花火なんか音も大きいしね。
「全然大丈夫。行くよ。いつ?」
「明日!」
「明日!?」
仕方ないだろう。まず、お祭りについて知ったのが4日前。そして、それから初めての雨が今日。私と彼は連絡先を交換しているわけでもないので、今日までこれを伝達する手段がなかったのだ。
「ま、まあ大丈夫だけど…」
「そう。この機会に連絡先とか交換しとかない?ほら、私たちって雨がないとこうやって連絡だってできないじゃない。」
「…僕、携帯持ってないんだよね。パソコンのフリーメールはあるけどめったに確認しないし。」
「マジ!?今のこの世の中でどうやって生きていくの!?」
「意外とパソコンさえあれば生きていけるよ。ああ、一応パソコンでLINEをやってるっちゃやってるよ。こっちもめったに確認しないけど。」
「…まあ、いいわ。とにかく、明日…7時くらいに神社前ね。」
「うん、わかった。――多分…いや、何でもない。」
最後に何かを言いよどんだのは、多分本当にどうでもいいことだったんだろう。夕陽は大丈夫だからもう少し早く集合できる、とか。女の子には、男の子には思いも及ばないような準備があるのだ。いや、別に浴衣着て行ったりはしないけれど。
「じゃ、また明日ね。」
「――うん。また明日。」
こう言って別れたのは初めてだな。だって、そうでしょう?「明日雨が降る」なんて保証はどこにもない。そんな状況で、次の日に会うことを約束するなんて、おかしいでしょう?
―――7月26日―――
日中は、怠い程にすっきりと青空が広がっていた。街の随所にある小さな山からは、種々の蝉の声が
本格的な夏の訪れを告げるそれらの騒音に似つかわしく、最高気温は今年初めて30℃を超え、真夏日となった。ふと気になって件の神社まで散歩をしてみると、大人たちが忙しなく屋台ややぐらを組み立てていた。こんな暑い中よくやるものだ…
屋台はともかく、やぐらの組み立ては見ていて意外と楽しかったので、しばらく遠くから眺めてみるなどした。組み立て担当のおじさん達はなかなか気さくなもので、私や、周りで見ている子供たち(多分組み立て担当の人のお子さんだろう。雰囲気的に。)に声をかけてくれていた。
「お嬢ちゃん、火神さんのとこの?」
「ああ、はい。そうです。」
「災難だったねぇ。こんな時期に親が離婚しちまうなんて。」
そして、やぐらに布が掛かったころ、私はいかにも祭りの
「一人暮らし!大変だね!実家で穫れた米とか…」
「間に合ってます…」
結局、その後30分ほど根掘り葉掘り聞かれたので、辟易しながらも当たり障りのない答えを返し続けた。私が解放された頃には、太陽はかなり西の方に傾き、時刻は5時を回っていた。すごい汗をかいたから家でシャワーを浴びたいな。多分シャワーを浴びても集合時間には余裕で間に合うし。
◆
どうしてこういう時に限ってベッドに吸い込まれるの、私の大バカ!30分だけ寝ようと思ったら1時間寝てしまった。急ピッチで用意して、何とか走れば間に合うくらいの時間に家を出る。シャワー浴びた意味、皆無じゃない。
汗を流すためにシャワーを浴びたら、それで眠くなって、汗を掻く羽目になってしまった。これが本末転倒。男の子には思いも及ばないような事情とは。
息を切らせて集合場所に着くと、Tシャツに短パンの日野浦くんがいた。普段は制服(夏休み中も)だったので、こういうアクティブな格好は新鮮だ…
「はぁ、はぁ…お待たせ…」
「あ、ううん。大丈夫。そんなに待ってないよ。」
「じゃあ、回ろうか。夕飯食べてないから屋台で済ませるつもりなんだよね。そっちは?」
「僕も夕飯まだ食べてないよ。なんなら予算は結構あるから奢るけど?」
「いや、それはさすがに悪いよ。私も親からせしめてきたし。」
「ああ…」
お互いに苦笑い。なんか、普通の友達って感じがする!いや、普通じゃない友達がどういうものかわからないけど!
◆
「あ、あれおもしろそう!買ってみよう!」
「僕、辛いの割といけるほうなんだけど」
「いや、あれの外れ超酸っぱいやつだから!」
「なるほど?それは面白そうだね」
私たちが立ち止まっていたのは、ロシアンたこ焼きの屋台の前だった。激酸!という文字がでかでかと掲揚されているが、この文字列は日本語として正しいのだろうか?第一なんて読めばいいのかしら。げきさん?げきすっぱ?
とにもかくにも、一舟たこ焼きを買い、二人で順番に食べることになった。
「あっ、ほれ、へっほうあふい!(あっ、これ、結構熱い!)」
「はふはふ…」
私たちは馬鹿なので、冷ましたりせずにたこ焼きを口に放り込んでいた。はふはふしながら口の中でたこ焼きを冷まして食べる。普通においしい。…おいしい、のか?
「今回は…」
「…―――ー---っ!!」
「え?」
私がおいしくたこ焼きを食べている横で、日野浦君が悶絶していた。これは…
「えっ、何これ!?何使ったらこんな酸っぱくなるの!?」
「あははははは!!ラッキーボーイだ!」
どうやら一発で酸っぱいやつを引いたらしい。面白すぎるでしょ。
「おっちゃん!これ何使ってるの!?」
「ああ?そりゃあお前、梅肉エキスをたっぷりだよ。」
「殺す気!?」
梅肉エキスって、世界一酸っぱい食べ物だっけ?たっぷりってどのくらい使ってるんだろう。とりあえずまずそう。
「ひどい目に遭った…」
日野浦君がひとしきり嘆き、私がひとしきり笑ったあと、冷めて適温になったたこ焼きを二人で頬張った。たこ焼き自体の味は、家で焼いたほうがおいしいレベルだった。まあ、お祭りクオリティってことで。
◆
その後も適当に屋台を回って腹を満たした。腹ごなしに軽く歩いていると、気になる屋台を見つけた。
「吹き矢射的…?」
「吹き矢の先っぽに重りがついててちゃんと倒れるっぽいね。でも、これ重すぎて息で飛ばないのでは?」
「とにかくやってみよう。うまくいけばPS5も手に入るっぽいしね?まあこういうとこ、取れるようにできてないだろうけど。」
口でそうはいってみたものの、なんか運よくとれちゃうのでは?と思ってみたりする。
他の人がやっているのを見る限り、吹き矢に籠められた弾は重すぎず軽すぎず、吹けば飛ぶし、景品に当たれば倒れるらしかった。これは、PS5もとれるのでは?いや、私はこういうの下手なんだけどね。
「はい、3発100円ね。」
「なんかコツとかないんですか?」
「いや、これに関しては俺も初めてやったからね。ちょっとわからないかな。」
「…ゴム銃に比べて威力が低そうだからトルクとかを考えて…」
私たちの番が回ってきて、私が屋台の店主にコツを聞いている横で、小声で、早口で日野浦くんがまくし立てていた。怖い怖い。
「よし、行けるかわかんないけどいける気になった!」
「それ一番ダメなやつじゃない!?」
そんなこんなで、日野浦くんが3回矢を吹く。どうやら、PS5を取るのはあきらめて、他の普通の景品を堅実に取りに行く算段だったらしい。
「よし、なんかよくわからないけど取れた」
彼がとったのは、何かのカードゲームのようだった。
「これを機に始めてみたら?」
「いや、論外だね!喜んで紙をシバく有用性が感じられない。」
「この世のすべてのカードゲーマーに刺されそうな発言ね…」
「あれ?僕やらかした?」
いや、こんな陽のオーラをまとっている場所にカードゲーマーは来そうにないけれど。(ヘイトスピーチ)
「ほら、火神さんの番だよ。」
「う、うん…」
あれだけ冷静な分析(?)を見せていた日野浦君がPS5を諦めてると、私もあきらめたくなってしまうわね。
…結果は大体予想がついていると思う。
「あの、景品の交換とかできません?」
「できないねぇ。」
「そうですか…」
結論から言うと、私が適当に吹いた弾は、PS5の上側の角に当たり、綺麗に倒れた。いや、なんで?
「ええと…これ持って帰らなきゃいけない感じです?」
「うん、まあ、取っちゃったもんはねぇ…」
「この射的屋に再寄付とかは…」
「ちょっとそれはこっちの体裁が悪いねぇ…」
「ですよねー…」
当てたとき、くじ引きとか射的に特有のベルを盛大にならされてしまったので、多分私がこの受け取りを辞退するのは店の体裁がよくないんだろう。
「じゃあ、わかりました…受け取ります。」
「わかってくれてありがとう。もしあれだったら転売とかしてくれてもいいから!」
「それはないですね。」
「あくまで冗談のつもりだったのにそこまで本気で切り返されると悲しくなるね…」
だって、転売は論外だし。仮に冗談だったとしても少しでも本気の可能性があるとしたら徹底的に否定するでしょう。
結局、私がPS5を持ち帰ることになって、大きな荷物が一つ増えた。吹き矢射的許すまじ。
◆
「あっ」
「えっ?」
嫌いな人ではないんだけど、今の状況で会いたくはない人を見つけた。
「ほらお兄ちゃん、遅い!お母さんたち待ってるよ!」
「暑い…人の熱気が…」
風花ちゃんだった。お兄さんの話はたまに聞いたけど、あんな感じの人なのね…オタクっぽいし人垣が嫌いそうだしでなんとなくシンパシー。
「(ちょっ、見つかると面倒なタイプの友達が…)」
「え?面倒?面倒って何が?」
「(日の無いところに煙を立てるタイプのデバガメってこと!)」
「あっ、小苗ちゃんだ~!やっほ~!」
「「あっ」」
相手の方が一足早かった。どう切り抜けよう…
「えっと…そっちは彼氏?」
「あー…」
何か言い訳をしなければ。適当な関係性をでっち上げなければ。そう、例えば…
「えっと、話してなかったけど私のお兄ちゃん。こちら長江風花さん。私の友人。」
「へー!お兄さんいたんだ!結構イケメン?うちの駄兄とちがって!」
「本人の前で駄兄とはどういう了見だ」
「いつも『小苗』がお世話になってます…」
えっ、これでごまかせるの?あと、日野浦くんの適応力がすごすぎる。役者にでもなれるんじゃないの?
「あっ、何それ!大きい荷物!」
「PS5…」
「えっ!?射的かなんかで当てたの!すごい!」
「まあ、なんというか本当にまぐれで…」
「それでもすごいよ!」
「いや、あれはまぐれでは取れないでしょ。かg…小苗が普通にうまかったんだと思うけど。」
「そうだよ、そうだよ!なんかソフト付いてきてるの?」
「いや、そういうのは特にないけど、うちにPS4のソフトは沢山あるし、無難にSEKIROとか買い足せばいいかなと思ってたんだけど…」
「無難のチョイスが修羅」
「まあ、無難でSEKIROは選ばないよな…」
フロムゲーは無難オブ無難なチョイスだと思ったのに!そんな私に一人の味方がいた。
「え?SEKIROは無難中の無難では?」
「ひn…お兄ちゃん…」
「兄妹そろってゲームチョイスのセンスが修羅」
私の兄こと日野浦くんだった。日野浦くんってゲームもするのね…ただの本の虫だと思ってた…(失礼)
「(さなえちゃん、さなえちゃん!)」
「(な、なに?)」
「(今日は追及しないでおいてあげるから、また今度詳しく聞かせてね!)」
「…」
あっ、気付いてたのね…まあ、何も
「じゃあね、さなえちゃーん!ほら、行くよお兄ちゃん!」
「うん、またね。」
私に死刑宣告をして満足したのか、嵐のように風花ちゃんは行ってしまった。
「ふぅ…なんとか乗り切ったね、火神さん。」
「そうね。よかった…」
いや、乗り切れてはいないのだけれど。思いっきり疑られているのだけれど。これを正直に伝えると面倒なことになりそうなので言わないでおく。
◆
『まもなく、21時より、打ち上げ花火を開始いたします。』
「だって。日野浦くん、どうする?」
「せっかくだし見ていこうよ。」
「そうね。あっちの方が見やすいのかな?」
「げっ、あの人ごみの中に突っ込んでいくの?」
神社の中にある広場の方に人が流れていったので、そちらが見やすいと思って提案したのだが、どうやら日野浦くんは人混みが苦手なタイプらしい。ならば仕方あるまい。見通しはいいけど人は集まらなさそうな境内の裏で見ようじゃない。
「日野浦く…あれ?」
少し見ないうちに日野浦くんの姿が消えていた。子供じゃないんだから、ふらふらといなくならないでほしい…
「火神さ…あああああ…」
と思ったら人ごみに押し流されているだけだった。いや、待って。「だけ」じゃない。はぐれちゃう、はぐれちゃう。
「ちょっ、まってー!!!」
◆
「はあ…はあ…」
「ぜぇ…ぜぇ…」
散々な目に遭った。自分も人混みが得意でないことを失念していた。
そのとき、頭上で何かが強く光ったのと思うと、火薬が弾ける音がした。
「お、おおー…」
隣から感嘆の声が聞こえてきたので、私も
「わぁ…」
その後も、競い合うように花火は上がる。右から、左から。風向きに恵まれ、煙は向かって奥側にはけていく。
ひとまず、立ち見というのも格好が良くないので、もともと移動する予定だった境内の裏へと移動し、腰を下ろした。日野浦くんは、私とおしり1つ分空けて腰を下ろした。横についた手が爪先を触れ合わせている。そのまま、花火が終わるまで、一言も交わさず過ごした。地元の小さな祭りだから、花火だって大規模なものではなかったし、隅田川とかのものに比べれば子供のお遊びみたいなものだろう。でも、今の私の荒んだ心は、光を求めていた。だから私は花火に見入ってしまった。
気付かないうちに私の手のひらが日野浦くんの手の甲に重なっていた。ふと、日野浦くんの方を見ると、ばつが悪そうにしていた。
10分となかった花火はすっかり終わって、すっかり高いところに上がってしまった満月だけが煌々と暗い神社の裏を照らしていた。
私は彼の手の上から手を
結局、そのあと別れる時まで、私たちは手をつないだままでいた。いや、日野浦くんが振り払わなかったというだけなのだけれど。
「じゃあ、また今度。」
「うん。またね。」
今日は、普段通りの挨拶をする。次に会える日は確約されていないから。明日、雨は降らないのかな。降ってくれれば君に会えるのに。私が彼の手を離す時、彼もなんだか名残惜しそうな表情をした。
―――7月27日―――
次の日、雨は降らなかった。なんでかがっかりしてしまった私は、惰性でLINEを開いてみる。
「げっ…」
風花ちゃんからの爆撃が来ていた。昨日のことだろう。…うん、疚しいことは無いんだから、正直に答えよう。
『昨日の男の子だれ!?』
『もしかして彼氏!?』
『私に黙って彼氏なんか作りやがって!水臭いぞ!』
大体要約するとそんな感じだった。彼氏って決めつけないで欲しい。日野浦くんに迷惑でしょう。私は、その辺どうでもいいのだけれど。これは、日野浦くんの名誉のために説明しておく必要がありそうだ。
「彼氏じゃないよ」
『じゃあ何?確かに恋人って感じの距離感ではなかったよね』
「距離感に関してはあの場で家族ってことにしてたから勘定に入れない方がいいと思うけど…」
「日野浦くんっているじゃん?」
『あー、入学式から出てなかった子ね?後に通信で受けてるってわかったけど』
「そうそう。で、あの人が日野浦くんなんだよね」
その後は、私と彼が知り合った経緯と、一連のコミュニケーションについて差し障りの無い程度に説明した。
要は、私が取り乱した事件とか、日野浦くんのトラウマ事件とかは書かなかった。
『ふーん、じゃあほんとに馬が合う同志って感じなんだ』
「ああ、まさにそんな感じかも」
『で、さなえちゃんはぶっちゃけどう思ってるの?』
「どう…って?」
『好きとか、嫌いとか。』
私は、彼のことをどう思っているんだろう。昨日、手を握った時、私は何を考えていたんだろう。昨日、別れる時、私は何を思っていたっけ。明日も会いたい、なんて思っていなかったっけ。
画面を見て固まっていると、手に持っていたスマホが震えだし、画面に通話の呼び出しが表示される。風花ちゃんからだった。チャットより通話の方が話しやすいと思ったんだろう。
『もしもし?』
「うん…」
『…別に、答えづらかったら答えなくてもいいんだからね?』
「多分、答えやすい答えづらい以前に…」
『以前に?』
「どっちかわかってないんだと思う。嫌いではないんだけど、この『好き』が、友達としてなのか、男女としてなのか。」
『ふーん?』
怪訝そうに声の調子を落とす風花ちゃん。仕方ないじゃない。これが本心なんだから。
『で、ほんとのところは?』
「ほんとのところも何も、それが本心だよ。」
『へぇ~?』
「本当に、自分の気持ちがわからないんだよ…」
『そっかぁ…』
「うん…」
そこで、会話が途切れてしまう。通話だと、こういう時気まずい。
『…じゃあ、また今度ね!分かったら聞かせてもらうからね!』
「えぇ…その保証は出来ないけれど、また今度。」
そう言って通話を切った。私は、風花ちゃんに言われた言葉を反芻していた。
私は、結局彼のことをどう思っているんだろう。次の雨の日、分かるかな。わからなくてもいいけれど。
―――7月29日―――
「ぬるい…」
空気が生暖かかった。暑い日に雨が降るとこうなる。吸い込む空気がこんな感じだと、なんとなく息苦しい。
さて、雨が降っているということは。私はいつもの場所に行かなければいけないということだ。私は適当に朝ご飯をこしらえて食べ、足早に向かった。
いつもの場所には、いつもと変わらず日野浦くんがいた。彼は、雲に覆われている空を、ただただ見上げていた。
「おはよう」
「…火神さん」
日野浦くんは、苦々しい顔をして私の方を見る。私はそれを怪訝に思い、まっすぐに彼の方を見つめ返す。なんなのよ。
「…もう、僕と関わらないでほしいんだ。」
「えっ?」
「ごめん、でもこれは君のためでもあり、僕のためでもあるんだ。」
「私のためってどういうことよ」
本当に。どういうことなのよ。
「そういうことだから。」
そういって、彼は走り出してしまった。私は、彼の背中を追いかけることもできずにただ呆然と立ち尽くしていた。
本当に、どういうことよ。
結局、その日はその場で4時間ほど立ち尽くし、死んだようによろよろと家に帰った。
家に帰っても、そのまま時間を無為に過ごすしかなかった。
―――7月30日―――
やっぱり、これじゃダメだ。彼の真意を確かめないと。
なんで、私はあなたに関わっちゃいけないのよ。
それのどこが私のためなのよ。
口に出して言えそうにはない文句を、思いを、手紙に綴る。彼の家に押しかけ、押し付けて踵を返すことに決めていた。
「よしっ」
私は、君の家へむかって走り出していた。
灼けつくような炎天下を走り続ける。
左の脇腹が激しく痛む。
口の中に、長時間の激しい運動の代償を味わう。肺から血の匂いが供給されてくる。
「っはぁ…、はぁ…」
それでも、私はひたすら走った。家からあの場所まで、700mほど。せいぜい持久走の7割。走ったってそこまで疲れたりはしないだろう、とたかをくくっていた。
照りつける日光が。絡みつく湿気が。
でも、私は足を止めない。足を止めたら何か他のものまでが止まってしまいそうな気がして。朦朧とする意識の中、彼の家のドア口が見えてくる。
あと少し。あともう少し。手を伸ばせば、君に会える。
――瞬間、私の耳にけたたましい機械音と、何かを引きずるような音がひびき、回転する視界に星が散った。
そして背中に衝撃。痛む身体。頭からだくだくと流れる血液。車に轢かれたのだとわかったのは、数瞬の後だった。
「大丈夫!?…おいおい、勘弁してくれよ…」
朦朧とした意識で、周りが見えていなかった。これはもう、助からないかな…
地面に倒れ伏している私の上から、声が降り注ぐ。日野浦くんの声だった。
「火神さん!」
「…日野浦くん…これ…」
最後に、確実に渡しておきたかった。折角書いたんだし。
「えっ、手紙…ってそんな場合じゃなくて!」
「いいの。もう、無理だよ。げほっ…」
言葉を発するたびに、胸が痛む。咳をすると血を吐く始末だ。
「日野浦くん…」
「うん、うん」
声を出すのもつらいながら、彼に一つ伝えなければいけないことがある。
「好き…」
「え?」
「好き…だよ。」
「…僕も。僕も好きだよ…火神さん…」
遠くから救急車のサイレンが聞こえてくる。でも、私は病院に運ばれても生きてはいられないから。救急隊員の方、ごめんなさい。
そのまま、私の意識は、遠く、遠くへと沈んでいった。
◆―――◆―――◆―――◆―――◆
家で、ただ漫然と過ごしていた。授業もないし、晴れの日は何もやる気が起きなかった。
あれで、良かったんだよね。誰に問うでもなく、考えを巡らせる。
良かったはずだ。そうでなければ火神さんが可哀想だ。
友達から一方的な理由で関係を断ち切られ、その理由も実は正当ではなかった。そんなことがあったら、相手を呪いたくなってしまう。
昼ご飯を食べなきゃ…半ば惰性でキッチンに向かう。今、何があったっけ…
そうしていると、外からけたたましいクラクションの音、そしてブレーキ音。そのあとに、大きな衝撃音。どうやら人身事故が起きたらしい。まあ、どうせ今日は外には出ないし、僕には関係ないかな。と、そう思ったのだけれど。なぜだか、僕は醜い野次馬に混ざってみることにした。
「ちょっと見てくるよ」
その選択は、結局間違っていなかったらしい。そこに横たわっているのは火神さんだった。頭から流れる鮮血は海のように周りを満たし、両足と左腕があらぬ方向にひしゃげていた。
どうして?僕に真っ先に浮かんできたのはそんな疑問だった。どうして火神さんがここにいるんだ?どうして車に轢かれたんだ?
僕は、太陽光を浴びていることなどお構い無しに、彼女のもとに駆け寄り、声をかけた。
「火神さん!」
彼女の目は、虚ろで、何も映していなかった。しかし、顔はしっかりと僕の方を向いていた。無事だった右手が僕の方に伸びてくる。その手には何かが握りしめられていた。
「…日野浦くん…これ…」
それは、手紙のように見えた。汗でぐちゃぐちゃになってしまっている。
「えっ、手紙…ってそんな場合じゃなくて!」
救急車は呼ばれたのだろうか。出血が多量だから応急処置をしないと失血してしまう。
「いいの。」
何がいいというんだ。自分が死の淵に立っているというのに、一体何がいいというんだ。
「もう、無理だよ。げほっ…」
諦めの言葉を吐く。咳と共に、血が吐かれる。すぐに応急処置をしなければ。誰かその辺りに詳しい人は近くにいないだろうか。
周りには多くの野次馬が
「日野浦くん…」
「うん、」
いきなり名前を呼ばれ、驚いて声が
「うん。」
今度はちゃんと言えた。
「好き…」
「え?」
すき?すきって、鋤?いや、この場面でそんなこと言わないか。
「好き…だよ。」
現実逃避はやめよう。
「…僕も。」
僕も、正直にならなくちゃ。
「僕も好きだよ…火神さん…」
僕がそう言うと。
「ふふっ」
彼女は、天使のような微笑みを浮かべ、そのまま気を失った。首筋に手を当てて脈をとる。まだ、脈はあるらしい。
でも、救急車が到着したのはそれから3分の後で。その頃には、彼女の心臓は既に拍動をやめていた。
ふらふらと家に帰る。
「ただいまー」
誰もいない家に僕の声が反響する。
僕は、昼ご飯の用意をしながら、昔あったもうひとつの事件について思いを馳せていた。
―――
その日は、真っ青な空から強い日差しが照りつけていた。僕は、いつものようにだらだらと夏休みの宿題をさぼっていた。
――パリーン
そんな、文字に書いたかのような音がしたかと思うと、リビングの方からドタドタと足音が聞こえた。部屋にこもっていた僕は、扉を半開きにして、様子を伺ってみることにした。
「動くな!」
うわぁ…絵に書いたような強盗だ。あんまり怖くない。とりあえず、買ってもらったばかりのスマートフォンで警察に連絡を…
そう思ってスマホを取り出した次の瞬間、リビングから破裂音がした。同時に聞こえるのは母さんの悲鳴。父さんの悲鳴。気付けば、僕は玄関へ逃げ、ドアを開けて逃げ出していた。
あの音は多分銃だ。あの家に残っていたら確実に殺される。
いかにも夏らしい目が眩みそうな日差しの下を。じりじりとまとわりつく熱気の中を。ひたすら走る。別に、こんなに遠くまで逃げることはないのだけれど。
近くの公園で力尽きて、110番通報をした。公園から1人で帰るのは怖いので、警察の人には公園に来るように伝えておいた。
実際、子供が走って力尽きるまでくらいの距離だから、事件現場からそう遠くはない。
来てくれた警官を家まで案内する。ヤケになった強盗が拳銃を乱射したり、紆余曲折を経て犯人は取り押さえられた。
現場は凄惨な状況だった。部屋は荒らされ、部屋の真ん中には両親の遺体。そして、逃げてしまった僕。
わけがわからなかった。一体何が起きているんだ。そんなことはつゆ知らず、みんなは僕に憐れみの言葉をかける。
泥棒、ゆるせないよね。
お父さんとお母さん、死んじゃって可哀想だね。
可哀想だ、可哀想だ、可哀想だ。
僕はそんなに可哀想なのか?
生活の面倒を見てくれる親戚がいる。生活できるだけのお金がある。
僕のどこが可哀想だって言うんだよ。君たちのどこに僕を憐れむ筋合いがあるって言うんだよ。
初めのうちは、そんな反骨精神があったのを覚えている。でも、そのうち、僕は抵抗をやめて、憐れみを受け入れることにした。
途端、あの日のことは僕の中で消えない呪いになった。そうか。僕は可哀想なんだ。あの日のあれは、酷い事件なんだ。
その時から、僕はあの日のことを思い出すと、過呼吸を起こすようになった。だから、僕はあの日のことを記憶の奥底に封印した。
でも、晴れた日には、あの日のまとわりつく熱気が。身を焼く日光が。鮮明に思い出される。
精神科に受診したところ、PTSDだったらしい。らしいというのは、僕が親戚の元を離れ、初めての街に引っ越す時、土産話として教えてもらった話だからだ。
とにかく、そんな事情があり、僕は通信で授業を受けさせてもらえることになった。でも、小学生だった僕が家に籠っているというのも良くないので、雨の日は、ふらふらと散歩をする癖がついた。
◆
そして、僕は君に出会った。初めは意地悪な女の子だな、と思っていた。
でも、あの日。君が僕に、親の離婚の話をして、泣きついてきた日。
実は君も、僕と同じなのかもしれない。
そう思ってしまった僕は、それからしばらく、君に嵌っていった。そして、僕は家に帰って誰かに君のことを話していたっけ。
「あのね、―さん、―さん。今日は火神さんが…」
「今日は火神さんと…」
誰に話していたんだっけ。
ふと気になって、家の中を探してみる。でも、家の中には誰もいやしなかった。
当たり前だ。ここは、(世間一般的には超上位層と呼ばれていた)両親の遺産で借りた一人暮らしのための家だ。一人暮らしのためにしては広すぎるけど。
僕は、どうしてこんな広い家を借りているんだっけ。つい4ヶ月前のことだと言うのに思い出せない。
閑話休題。
君と親しくなった僕が危機感を覚えたのは、夏祭りの日のことだった。不意に握られた手。恥ずかしいことこの上なかったが、僕は振り払うことが出来なかった。
嬉しかったんだ。
君のことが好きになってしまったんだ。
好きになっちゃダメだったのに。
多分、僕も君も、好きになった相手に強く依存してしまう。
そんなのはダメなんだ。
だから君を拒んだ。
でも、ダメだった。
もう遅かった。
君を殺したのは僕だ。
―――
「はぁーーーー…」
長い長い回想の終わりに、長い長いため息を
気付けば、昼に作った炒飯は空になっていた。無心で食べていたらしい。
何もやる気が起きず、今日はひとまず寝ることにした。
―――8月3日―――
家のインターホンがなっている。
通販で何か頼んだっけ…
「こんにちは」
インターホンを確認することなくドアを開けると、そこに立っていたのは長江さん…だっけ?この前夏祭りの時に会っただった。なんで僕の家を知っているんだろう。
「ごめんね、さなえちゃんから場所聞いてたから来ちゃった。」
「えっと…長江さんだっけ?」
「そうですよ、『お兄さん』?」
長江さんはぎこちなく口角を釣り上げて言う。そういえば、そう言って誤魔化してたんだっけ。誤魔化せなかったのか。
「さなえちゃんの、お葬式。親御さんがやらないらしくて。」
「ああ…」
こんな時になっても団結できないらしい。火神さんが言っていた自分勝手というのもわかる気がした。
「だから、同級生でやろうって話になって。」
「そう…」
「日野浦くんも一応同級生だから、連絡。」
「うん…」
僕も道理として参加した方がいいのかな。
「日野浦くんは…」
長江さんが口を開いてやめる。気まずい沈黙が流れる。何とかしようと、僕は口火を切った。
「…お金とか足りるの?集めてるなら…」
「うん、大丈夫。足りてる。ありがとね…」
多分ミスった。やってはいけないタイプの切り出し方をした。やはり、気まずい沈黙が流れる。今度は、長江さんが口火を切った。
「あなたのせいだから」
「えっ?」
僕に聞き返されて我に返ったのか、しまったという顔をする。
その通りだ。僕のせいだ。僕が彼女を殺したんだ。
変な憐れみより、その言葉は嬉しかった。だから、僕はすごく変な返答をした。
「ありがとう」「ごめん、今のなし!」
「えっ?」
今度は、長江さんが聞き返す番だった。
「どういうこと?」
その質問には答えない。そのまま、僕は家に入り、扉を固く閉めた。
その後も何度かインターホンがなったが、全て無視した。
これじゃ、葬式出られないな。
◆―――◆―――◆―――◆―――◆
日野浦くんへ
君から「もう関わらないで」と言われた日の夜、この手紙を書いています。
どうしてよ。
どうして、私は君と距離をおかなきゃいけないの?
――その後の文字は、汗で滲んで判読出来なかった。でも、おぼろげに残っている字体から、書いている彼女の怒り、焦りが伝わってきた。
――最後の数文は、鮮明に残っていた。
もし、君がもう私に会う気がないとしても。
私のことを、覚えていてください。
夏祭りの日のことを。
貸してくれた本のことを。
私のことと一緒に、覚えていてください。
火神小苗
◆―――◆―――◆―――◆―――◆
今日も一日の講義を終え、帰路に着く。
家には彼女が待っている。
家事の担当は僕だから、早く帰らないと、家がどうなったものか分からない。
彼女は何を担当しているかって?彼女に聞いてみたら、「癒し係」とのことだ。
ただのサボるための口実だよな。もうちょっと手伝ってくれたっていいのに。
でも、僕は実際、不覚にも彼女に癒されてしまうことがあるので、なんとなく文句を言えない気がしていた。
今日も、僕は彼女のいる家に帰り着く。
「ただいま、小苗」
そして、玄関に立って何かをしていた君は僕の方を振り向き、天使のような笑顔を咲かせてこう言うんだ。
「おかえり、慎二」
Memorize イキリ虻 @YHz_Ikiri
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