たのしいくにのはなし
京
1.
「目が覚めたかい」
最初に聞こえたのは、いかにも老婆って感じの嗄れた声。その声に反応してうっすらと瞼を開ける。
見慣れない天井。見知らぬ何人もの人間が心配そうに顔を覗き込んでいる。性別も年齢もバラバラ。よくみれば彼らの服装も自分にしてみればかなり奇抜なように思えた。奥の方でランプが煌々と部屋全体を明るく照らしているのが見える。
最初に声をかけてきた老婆は一番近くでこちらの様子を伺っている。僕が目を開いたのを確認すると安心したようにほうっと短く息を吐いて柔和に微笑んだ。
「みな君のことを心配していた。よくぞ目覚めてくれた」
その声を聞き、部屋にいた者は皆一様に喜び始める。互いの手をとって喜ぶ者、はしゃぐ者、中には感極まって咽び泣いている者までいる。
僕は混乱していた。僕はこの人たちを知らない。第一、ここにくるまでの経緯も何もわからない。わからないのか、覚えてないのかすらわからなかった。なぜ彼らは僕が目覚めただけでこんなに喜んでいるのだろう。何もわからない。ここはどこだ。彼らは誰なんだ。
僕の動揺が見て取れたのか、老婆は穏やかに微笑んでそっと皺くちゃの痩せた右手を僕の手に被せる。温かかった。血の通った、人間の手。
「安心なさい、ここは楽しい国だから」
ここに来るまでの記憶はない。どうやって来たのか、ここに来る前どんな場所に住んでいたのかもわからなかった。思い出せない以上、帰りたいとかいう感情は少なくとも今はない。ただ、少なくともここは僕の住んでた場所ではないようで。
「うーん…?」
あの後。
流されるがままに僕はベッドから引き摺り下ろされいつの間に用意されていたパーティー会場に連れ込まれた。飲めや歌えやの大騒ぎ、聞き慣れない陽気な音楽に合わせて踊る者、歌うもの、笑う者、とにかく人、人、人。
みんな笑っている。楽しそうだ。ここは明るい。眩しいくらいに明るい。部屋を照らす明かりや明るい音楽のせいではない。そこにいる人間が、嘘偽りなく全員心から楽しそうに笑っていた。
いつの間に用意されていた自分の皿にどんどん知らない料理が積まれるのを僕は他人事のように眺めていた。それらは確かにどれも美味しかったがそれどころじゃない。状況を理解できないまま料理を楽しめるほど能天気じゃない。
聞きたいことは山ほどあったがとても聞けそうな雰囲気ではなかった。この空気に呑まれそうになっている自分がいた。記憶を失う前の自分がどんな人間だったかは知らないが、どうも流されやすい人間ではあったようだ。
この国の人間には名前がないのよと空になった皿にせっせと何かの肉を詰め込まれている間、一人の小さな女の子がトコトコと近寄りこっそり耳打ちしてくれた。自分の名前すら覚えてないからちょうどいいと思ったものの、それならどうやって他の人のことを呼んでいるんだろうという当然の疑問が頭をもたげた。
「みんなあだ名なの、私はみんなにおさげちゃんって呼ばれてるのよ」
いつもこういう髪型だからね、とその場でくるんと一回転して栗色の長いおさげ髪を得意げに見せびらかし。
おさげちゃんはにっこりと笑った。
んで、なんだかんだで夜遅くまで続いていた宴から解放され、その晩は大婆様が余ったベッドがあるとのことで家に泊めてもらえた。最初に目覚めたときにそばにいた老婆が、どうやら大婆様と呼ばれているらしい。どうでもいいことだが寝るところがないと言ったとき自分の家に泊めたいと手を挙げる住民が後を絶たなかった。
そして今、一人で海辺に来た。朝だ。ここはどうやら小さな島国らしく、二時間くらいで島全体を一周できる。堤防に腰掛けて海を見る。天気が良いからか、海も一層美しく見えた。ひんやりとした潮風が心地いい。ここは朝焼けが綺麗に見えると寝る前に大婆様が教えてもらった。日の光が眩しくて目を細める。やっと一人になれた。決して昨日の祝宴が楽しくなかったわけではないのだが、なぜか強くそう思った。
僕はどこから来たのだろう。街のど真ん中の広場で倒れていたらしいとは聞いていた。乗ってきた船らしきものは見つかってないらしい。どうやってここにきたのかは未だにわからないままだ。
記憶も戻らないまま、何も思い出せないまま、僕はここにいる。それだけが確かなことだった。
この広い海の向こう側のどこかに、僕の生まれた街があるのだろうか。覚えてないからか、特に戻りたいとも思わないが。
「……?」
視線を感じた。
それも嫌な感じの。
慌ててあたりを見渡すが誰もいない。気のせいだろうか。
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