機械には見えない記録
『これは俺の気持ちであり誰かに読ませるものではない』
ふむ……ありきたりだろうか? 俺は今日記を書いている、なんと紙の日記帳にである。無論デジタルデータならば無限と言っていいほどのスペースに好きなだけ書くことが出来る。何故やらないのかって? 決まっている、検閲が間違いなく入るからだ。エンドつーエンドの暗号化などを歌っているが、不可能に思えた暗号解読すらも計算機の進化が可能にしてしまった。
つまり日々の記録をとりたいが運営に一切見られたくないならば選択肢はほぼ無い。どのみち人に見せるものではないのだからこれがベストだろう。
日記帳とペンの入手には苦労した。どちらも消耗品であり、極めて少数しか生産されていない。そんなレアなものを入手するのに何を使ったかといえばアルコールだ。以前運営がしくじってアルコールの含まれた洗口液を配布したときに保管しておいたものを精製してアルコールを抽出しておいた。
アル中のいない時代だが、アルコールへの憧憬を持っている人間は多く、その一人が筆記具とノートを持っていたので俺はそれに飛びついた。
自由とは素晴らしい、監視社会には自由がない。そして日記の書き出しに悩めるのは幸せなことだった。決まりきった人生賛美から始める必要が無いのだからな。
公式サーバに置かれている日記など大半の書き出しが『今日を生きられたことに感謝を』で始まっている。ネガティブなことは大半が禁止項目になっている。
『今日もくだらない一日を過ごしてしまった』ありきたりだな。電子データと違ってノートは余りにも書ける部分が少ない。そこについては電子データの方が有利な面だ。もっとも、いくら好きなだけ書けるとしても内容に自由がないなら余り意味があるとはいえないのだが。
『今日も妹と一日を過ごした、良い日だった』うん、このくらいで良いだろう。余りネガティブなことばかり書いても読み返したときに気分が悪くなってしまうからな。
さて、今日あったことを一通り書いておくか。とはいえ珍しいことなどなかったわけだが……日常がつまらないのは悪いことではない。リリーのやつが刺激を求めているような気もするが俺は平穏無事な日常をそれなりに愛している。
『これで今日一日の終わりとする』
何とかその一文を置いて一日の記録をつけることができた。配給食料の不味さや、人間の生存環境の劣悪さなども余すこと無く書いておいた。間違いなくデジタルデータにしたら公開前に消される内容だった。
ごく普通の感想を残すことの出来ない世の中、なんとも不便なものだと思うが一つだけ満足していることがある。
『妹に感謝を』
小さく小さくその一文を書いて今度こそ日記を閉じた。アイツに見せることはないのでこう言った文ですら書ける。伝わらなければ何を書いても構わない、誰にも見せないのだからな。
一日の終わりに日が陰っていく中、俺は固形食料を一つかじりながら水を飲んだ。味のしない食料がいかに不味いかについて書くことも出来るが、そんな益体もないことでページを使うのも贅沢というものだろう。
虫歯防止用のフッ素入りの水を飲んで満足して部屋に帰ろうとするとリリーと出会った。
「なんだ、夜食か?」
俺は夜食にキューブを食べていたわけだが、リリーも夜食だろう。運営はちゃんと夜食と間食用のカロリー控えめの食事を用意している。その配慮を少しでも味の方にも向けてもらえなかったのだろうかと思わずにはいられない。
「え、ええちょっと小腹が空きましてね……美味しくはないんですけどお腹は空くんですよね」
「まあ……気持ちは分かる。不味いよな」
多分夜食や間食を出来ればやって欲しくないのだろう。それが味にも表れていて、朝昼夕の食事より更にモソモソと水分が少なく、味は全く無い。しかも口の中の水分を無尽蔵に吸い取るのでキューブを口に含んで水で流し込むのが間食と呼ばれるものだった。
「お休み」
「ええ、お休みなさい、お兄ちゃん」
そう言って俺はリリーと別れ部屋に戻った。別に特別な関係でも無いし、いつもの関係だった。
――リリーの室内
「あああ!! お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃん!! ふぉおおおお!!!」
いけません、口に出すと聞こえてしまうかもしれません。私がお兄ちゃんを愛していることは一応隠しておかなければならないのです。
そして私はペンを取りました。貴重な品物ですが、私の秘蔵の化粧品で日記とセットでトレードが成立しました。
厳密に言えば別に私がお兄ちゃんをいかに愛しているか運営の用意してくれた場に好きなだけ書き込んでも削除はされないでしょう。しかしそう言った人向けの演出やメニューを用意してくるはずです。私とお兄ちゃんの関係はそう言うものではないのです。
もっと純粋な気持ちを持って欲しい。そう思っているのでストレートな性欲をぶちまける関係とは違うのです。
『今日もお兄ちゃんは素晴らしい人でした』
ありきたりですね、お兄ちゃんの素晴らしさを後世の私が読んでもしっかりと理解できるものでないといけませんね。
『お兄ちゃんの格好良さは筆舌に尽くし難いほどであり、性格も完璧であり……』
ちょっと盛りすぎたでしょうか? いいえ、お兄ちゃんへの気持ちはこんな安易に表せるものではないことを分かっています。しかし私一人の心の中に抱え込むには少々重いものです。
私の気持ちを大量にのせて、ありったけの気持ちを込めて今日のお兄ちゃんを書かなければなりません。貴重な資源を使っているのですからね。
『お兄ちゃんはいつも妹に優しく慈悲の心を持っていて、お兄ちゃんを眺めると幸せな気分が沸いてきます』
このくらい書いてもいいでしょう。私の心の数パーセントも書けてはいませんが、全文を書くと余白が足りなくなることは明らかなので妥協しました。
そこからは筆が乗ってお兄ちゃんの良いところを書き連ねていきました。自然に一ページがお兄ちゃんへの気持ちで埋まりました。
この今の気持ちをただひたすらに文章にする。これだけのことなのになんだか緊張してしまいました。
私は一ページ一杯に思いの丈を綴ったことに満足してその日を終えることにしたのでした。
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