幸せの、唐辛子ひと掛け

紫風

ポットからお湯

ずん………………



 フロア中の携帯電話が、様々な音を立てる。けたたましい警告音だ。

「なに」「なんだ」

 立ち上がる人、座ったまま周りを見渡す人、気にしない人。

 ややあって、ずん  という音がしたかと思うと、フロアがガタガタと揺れた。

「地震……!」

 

 2011 年 3月 11日 14時 46分。


 東京、多摩地区に近いところ。

 東京では震度4~5くらいだった。震度3ではもはや驚きもしない東京人にとって、それなりに恐怖を覚える揺れだった。


 日頃は点いていることはほとんどないが、一応フロアにTVはあった。

 次々と衝撃的な映像が映し出され、画面の端では警報などが流れていく。

 映画のワンシーンに見えるが、映画ではない。

 TVは衝撃的だが、一応就業時間中だ。しばらくは眺めていては、机に戻る、またのぞきに来ては机に戻る、を様々な人が繰り返していた。


 夕刻、終業時間になるまで幾度となく、ゆらゆらゆらと揺れ続ける。気分が悪い、船酔いみたいだと、隣の同僚と笑う。

 電車は止まっているとの情報が入っている。同僚は、駅まで行ってみると言っていた。自分はバスで帰るが、歩いて帰れない距離じゃない。運動代わりに、歩いて帰っていることもしばしばだから、バスに乗れなくても大丈夫だ。

 駅までは、片側1車線の狭い道を、連なって歩く。


 街灯はおろか、信号まで真っ暗な道。不思議な光景だった。

 その中を、同じ建物から吐き出されてきた知らない人たちと共に、どこか非現実のようなふわふわした気持ちで、さざめいて歩いて行った。

 幽霊の列のようだと、ちらりと思った。緊張した、やや楽し気な幽霊。


 電車は止まっていた。

 駅前ももちろん街灯も信号も真っ暗で、タクシー乗り場に長蛇の列。だが、タクシーは来ない。

 同僚は、歩いて帰ると言った。

「帰れるの」

「帰ってみる」

 他にも同じような人々が列を離れあるいは、はなから列に並ばず、家路へと歩いて行った。


 家に帰ると、狭いワンルームの積んであった本が崩れていた。

 ろくに家具もない家。真ん中壁寄り、TV前にこたつの一人暮らし。

 震度3は慣れっこだが、震度4はさすがに耐えられなかったらしい。崩れた本の山を戻すのは、勤務に疲れた夜にはしたくなかった。

 遠く離れた実家に電話をする。電話は動いていた。

 3月の東京は、まだまだ寒い。

 何もかも放り出して、寝た。


 翌朝、出勤した同僚に訊いてみると、彼は帰り着くのに3時間掛かったと言っていた。

 すごい。どうやって出勤したんだろう。


 地震があったのは、11日。発電所がダメージを受けているため、3月14日の夕刻以降、計画停電が行われた。

 各地域に順番で、数時間の停電をするということだ。

 電気もだが、東京は物流がストップしていて、近所のコンビニからは物が無くなった。

 空っぽのコンビニ。店の電気は点いておらず、ドアを開け放して物が無い店内はまるで開店準備前か店じまい前のようだった。

 それほどまでに物が無かったのだが、驚くことは、食料品のみならずあらゆる商品が無くなっていたことだ。こんなものまでが何故無くなるとばかりに、普段1つ売れていればいいだろうと思う日用品や文具まで、姿を消していた。

 これでは買い物は望めない。

 毎日立ち寄るため、会話を交わすくらいには顔見知りになったオーナーが、少ないパンとカップ麺を並べていた。

「運が良かったね、さっき着いたんだよ」

 赤いきつねがあった。

 助かった。うどんが好きだ。


 部屋に帰ると、計画停電の真っ最中で、部屋の電気は点かなかった。

 3月の東京は寒い。もちろん、こたつも点かなければ、ポットも沸くことはなかった。仕方がないので、こたつ布団にくるまって、時計を眺めた。


 こち、こち、こち。

 アナログ時計の針の音だけが部屋の闇の中を渡っていく。


 ややあって、ほわりと電気が点いた。この地区の今日の計画停電が終わったのだ。

 さっそくポットに水を入れて、お湯を沸かす。何はともあれ、お湯が無くては始まらない。


 ぷしゅーとポットから湯気が出る。お茶お茶。それと。

 赤いきつね。


 ぺりりと蓋を半剝がし、お湯を入れて待つこと5分。

 TVを点けて、お茶を飲む。

 TVの中は、崩れ落ちた町や、原発の無残な姿。東京は、この部屋は、多少本が崩れたくらいで大した被害はなかった。電気が点かない、駅が真っ暗、エレベーターやエスカレーターが止まってて、電車に乗るのも一苦労、物流が止まっている、くらいなもんか。それはそれで、不便だし町の様子は変わっちゃいるが。

 TVの中の、家を失くし家族を亡くし店を故郷を失くした人たちとは比べ物にならない。

 生きて、生活できる。ありがたい。


 5分待って、蓋を取る。

 ふっくらお揚げと澄んだ出汁、生成りの麺に黄色い卵、白いかまぼこ。

 あっつあつだ。

 七味唐辛子をぱらりと掛ける。一味の方が好きなんだけど。東京では見かけない。大きなスーパーに行けばあるかもしれない。近所にはなかった。

 そういや 9.11 の時も、こうやって仕事から帰宅して、TVを点けると青空を背景に2本のビルに飛行機が突っ込んでいったのを見たんだっけ。あれは夜中だったけど、残業で遅くなって、近所の弁当屋で買って帰って見た。


「あったかい」

 生成りの麺をずぞぞとすすり、出汁を一口。

 冷えた体に沁みた。

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