知恵を喰う怪獣

五十嵐文人

知恵を喰う怪獣

 武蔵野に吹く風は、夏の香りがした。

 頬を伝う汗をハンカチで拭い、スマートフォンを鞄から取り出す。制服は厚手の布地で、すぐにでも着替えたいと思った。学校から直接来てしまったことを悔やんだが、今は時間が惜しかった。

 私はところざわサクラタウンに存在する角川武蔵野ミュージアムに来るのが好きだった。階段を登ると、その建物に目を奪われる。誰もが口を揃えてそう言ってしまうほど、その建物は不思議で存在感があった。

 このミュージアムにあるマンガ・ラノベ図書館の蔵書数は圧巻で、入っただけで幸福に押しつぶされそうになる。埋め尽くされた言葉を読み、小説に勇気をもらうと、近くにあるカフェに入って小説の構想を練るのだ。それが私の幸せだった。

 スマートフォンのロックを解除して、インターネットから取得したチケットを準備する。このQRコードをかざして、館内に入場する瞬間が私は好きだ。この時間は日常で溜まったストレスを忘れさせてくれる。

 そのとき、私の足元を小さい何かが通過した。一瞬のことに動揺して、キョロキョロと周りを確認する私のことを警備員は不審そうに見ている。

 私は「気のせいか」と息を吐き、足早に図書館を目指した。図書館の内装はカラフルで美しく、ブロードウェイを歩くときのようにコツコツとローファーを鳴らして歩いた。本は宝石のように輝いていて、眺めているだけでも幸せだった。以前から気になっていたライトノベルを手に取って、近くにある椅子に座った。

 本を開いて文字に目を落とす。本の中は別世界で、私はそこで息をしていた。語り手の心と対話をして、文字が想起させる情景を感じる。私は没頭した。

 くしゃくしゃ。

 それは本の世界の音ではなかった。クシャクシャ、これは現実の音だ。私は本に栞を挟んで立ち上がった。クラシックを聴いている途中に、エレキギターの音が聞こえるような不快感があった。

 後方に目をやると、幼稚園に通うような男の子が、むしゃむしゃと本のページを破いて口に入れていた。ハンバーグを食べる時のように咀嚼し、幸せそうに飲み込んでいる。

「ちょ、ちょっと」

 私は弱々しい声を絞り出し、慌ててその子の方に駆けつけた。子供が誤飲してしまったときはどうすれば良いか、今までたくさんの本を読んだのに、私はそんなことも知らない。

 周りに私以外の人間はいなかった。こういうのは、時間が大事だとどこかで聞いたことがある。私は急いで、少年の背中を叩いた。その善行に反して、その少年はギョロっとした眼光をこちらに向けた。

「何をしている、人間」

 少年は想定より低い声でそう言った。「人間」とは私のことだろうか。私は言葉を無視して、背中を一定のリズムで叩き続けた。

「やめろ、何をするんだ」

 確かにその少年は私の行為を否定していた。私は頭の中が空っぽになってしまい、取り敢えず正しいことを言おうと思った。

「本は食べちゃダメでしょ、しかもこの本は君のじゃない」

 少年は小さな声で、ごめんなさい、といった。案外可愛いところがある。

 その瞬間、少年の皮膚が光った。眩い光とともにメキメキと音が響く。肌が灰色になって、少し経つとベージュ色に戻った。その様子を見て少年は泣きそうになった。そうして、自分自身を落ち着かせるように紙を手にとり、口に放り投げた。

「美味い、特にこれが美味いな」

 少年は最近人気のラブロマンス小説を指さした。

「あなた、なに?」

 私は声が震えていた。私の書く小説だったら、すぐに修正するような、そんなチグハグな台詞セリフだった。しかし、あの奇妙な現象を見た人間には正しいリアクションだったと思う。

「ぼく、カイジュウ」

 少年は私の口調を真似て、そう言った。カイジュウという言葉は、私の知っている限り「怪獣」しかない。自分の思い通りに事を運ぶという意の「懐柔」ではないだろう。

 突拍子のないその言葉に、何を喋れば良いかわからなくなった。

 インターネットで怪獣と検索する。画像の欄には、多種多様な空想上の生物が存在していた。何度スクロールしても、少年のような可愛い人間は出てこない。

 入り口から足音が聞こえた。本棚の向こう側に顔を出すと、警備員がこちらに向かっていた。今の騒ぎを聞いて来たのだろう。

 落ち着きを失っている女子高生と本を食べる子供。どこからどう見ても、異様な光景だった。椅子の周りにはボロボロになった本と破かれた紙が散らばっている。私は言い訳を考えたが、残念なことに何も出てこなかった。

 そうして、言葉よりも先に体が動いた。私が犯人にされる、そう思った途端、全てが怖くなって走り出していた。なんて可哀想な脳みそなんだ、自分でもそう思う。

「走って」

 私は少年の手を握って、勢いよく連れ出した。出入り口のドアを駆け抜ける。外はすっかり夜になっていた。夏の夜風は涼しくて、気持ちがよかった。


 私たちは近くにある神社に身を隠した。ふぅとため息を吐いて、繋いでいた手を離した。図書館にいたときは、小さい指を優しく握ったはずだったが、今は私の手より少年の手の方が大きかった。走ることに必死で気付かなかったが、少年は大きくなっていた。身長は私よりも大きくて、それは「子供」でも「少年」でもなく「彼」と形容するのが正しい青年だった。

「説明してよ」

 私は、鞄からペットボトルを取り出してお茶を飲み干した。

「僕は僕がわからない」

 彼は悲しそうな表情を浮かべてそう言った。今は真剣に話を聞くべきだということは、頭の悪い私にも理解できた。彼はしばらくの間黙ってから、言葉を選んでこう説明した。

「僕は奥多摩の山奥で捨てられていたんだ。人間のお爺さんが僕を見つけて育ててくれた。言葉も喋れるし、見た目も普通だから、最初は僕を人間だと思ったらしい。でも、僕は食事ができなかった。人間が好きな肉や野菜を食べると吐き出してしまうんだ。そして、空腹が続くと体が大きくなっていくんだ」

 私はうなずくことしかできなかった。そんなファンタジーに共感することはできない。

「だけど、僕にも食べることのできるモノがあった。それが本だった。印刷された文字を飲み込むと、その言葉や意味が理解できて、幸せな気持ちになるんだ」

「理屈はわかったけど、信じ難い話ね……怪獣なんて見たことないし」

「僕もよくわからないよ、何冊も本をけど、どの文献を探しても怪獣は架空の生物でしかなかった。僕には家族もいないし、友達もいない。体を調節する方法がわからないから、大きくなる前に小説を食べる必要があった」

 彼は今にも消え入りそうな声で、ごめんなさいと呟いた。彼は私よりも大きいのに、その言葉はさっきの少年のように可愛かった。

「友達は私もいないよ」

 彼は鳩が豆鉄砲を食ったような顔で私を見た。私たちは、張り詰めた糸が緩んだときのように、気持ちがほぐれて笑い合った。

「人間も大変よ、コミュニケーションとか面倒くさいし」

「わかる」

「怪獣が共感するなよ」

 誰かとこうやって話すのは久しぶりだった。交わす言葉が音楽のように弾んでいた。

「でも買ってもない本を勝手に食べちゃダメだからね」

 うん、と返答した声が少しだけ震えていた。青年は息が乱れて、頭を抱え込んだ。その瞬間、再び彼の体が灰色に光った。

 しかし、今度は止まることはなかった。服がはちきれて、骨が浮き彫りになる。肌は黒く変色し、獣のような眼がギョロっと光った。彼はどんどん大きくなり、ミュージアムよりも巨大な体に変身した。それは、人間が知っている怪獣の姿で、私は本能で恐怖を感じた。

 私は咄嗟に彼の背中に捕まる。彼は苦しそうに話した。

「ダメだ、僕に、本を、ください」

 私が吐かせてしまったからだ。彼に今すぐにでも、本を食べさせてあげたかったが、運が悪いことに私は文庫本を図書館に置いてしまっていた。

 彼が成長するとともに、体はグラグラと揺れた。私がふらついて落下してしまうと、彼は手を出して、私をてのひらに乗せた。それと同時に鞄に入っていた筆箱や弁当箱が彼の手に散らばる。

「それは、なに」

 毛むくじゃらの掌には、原稿用紙が何枚も落ちている。私が小説を書くときに使用していたものだ。 

「私の書いた小説だけど」

「僕に食べさせて」

 私は断った。この小説は素人の書いた駄作だ。もし、彼がこの小説を食べて、つまらないと言ったら、私は立ち直れないだろう。それが何よりも辛かった。

 下の方から、叫び声が聞こえる。人々は逃げていき、気がついたら私たちはビルよりも高い位置にいた。

 ミュージアムの近くにある武蔵野樹林パークには、卵の形をしたオブジェクトが発色している。生命のように柔らかく光る光景を見て、私は涙を流した。怪獣の背中から見るこの街は、地球のどこよりも綺麗だった。そうして、この美しい風景を言葉にしたいと思った。今すぐ、誰かにこの気持ちを伝えたい。私の脳内に思い浮かんだのは、怪獣の彼と一緒にこの風景を語る自分の姿だった。

 私は原稿用紙を彼に手渡した。彼はむしゃむしゃと小説を食べて、少し経つと光に包まれて、青年の姿に戻っていった。


「私は綺麗なオブジェクトを作ることができない。友達もいない。それでも、面白い小説、美しい風景、号泣する映画、怪獣との会話。そういう想い出をたくさんインプットして、世界を創りたい。だから私は小説を書くの」

 彼は小説を次々に口に入れ、最後の一枚までしっかりと。原稿用紙を勢いよく飲み込むと咆哮をあげた。その咆哮は人を威嚇するようなものではなく、歓喜のあまり声をあげた人間のような叫びだった。彼は肌が光ると、フィギュアのように小さくなっていた。

 私は彼を掌に乗っけた。彼と目が合うと、私は微笑んだ。

「小説、面白かった?」

 その日の武蔵野は、天の川のように輝いていた。

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