スタートダッシュ

@9vso2a

第1話



 近頃のわたしは馬鹿なことばかり考えていると思う。


 考えても仕方ないことだと頭では分かっているのに、それを意識したときにはもうふわふわとどこかに飛ばされてしまっている。

 その飛ばされた先にはわたしじゃないわたしが立っていて、やり場のない思考がブーメランのように横をすり抜け周り、現実のわたしのもとに戻ってくる。


 いつ考えているんだろうか。いつもというと大袈裟かもしれない。

 けど、最近は本当にそんな感じなのかもとは思う。認識としてはそうなる。

 なくしたものを数える感覚に似ている。似ているってどう似ているんだろう。分からない。


 たとえば、と少しだけ今日のことを振り返ってみる。

 朝スマホのアラームを止めるとき、制服に着替えるとき、お昼に購買で買ったパンをもそもそしているとき、

 午後の退屈な授業でうとうとしているとき、友達と昇降口の掃除をしているとき、放課後に教室でぼーっとしているとき……これは今か。

 いつもでもないけどいつもでもある。

 どうでもいいわけでもないけどどうでもいい。


 放課後の教室はいやに暑い。

 季節はまだ春先だというのに気温が高く、おまけに湿度も高い。ここの地方の梅雨はもっと先のはずなのに。

 教室にはクーラーがない。勝手に扇風機をブンブンすると先生に怒られる。となると、まあ窓を開けるしかないよなあ、となる。


 椅子から立ち上がり、ふうと一息。座っていただけで足がしびれている。

 くるくると足首をまわし、ふーともう一息。靴紐が解けていた。


 近くの小窓を開けても風をまったく感じず、ベランダに出る。

 そして、忘れないうちに靴紐を結んでおく。あとで何もないところで躓いたら恥ずかしいし。


 ふっと顔を上げると、当然のように外の景色が目に入る。

 遅れて、声が耳に入ってくる。校庭でやっている部活のかけ声だ。


 空は青く、広い。校庭もそれなりには広い。まっすぐ見れば新幹線が走っている。

 いくらでも目移りしそうなくらい情報量が多いけれど、なぜかわたしはある一点を見つめてしまう。


 ぞわり、と。

 火照っていた身体に、少しばかりの寒気がさしこむ。

 気付いたら、ではなくかなり意識的に、ベランダの手すりに指を掛ける。近付きたい気持ちなのだろうか。

 そうしても、なおも、目を細める。それ以外のものを視界から完全にシャットアウトするように。


 魅了されるというのは、こういうことを言うのだろうか。


 規則正しい腕の振り、前へ前へと進んでいくしなやかな脚、揺れる後ろ髪。

 ぐんぐんとスピードを増して駆け抜ける彼女は、ほかのものとは明らかに違っている。


 どうしてだろう。一緒に走っている人と比べて、一番速いからなのだろうか。

 いやいや、と頭を振る。それはそうだけど、そうではない。

 ただ速いだけなら、こんなにも目を奪われない。


 そのうち、決められた距離を走り終えた彼女はゆるゆると流すように脚を緩める。

 我に返ったわたしは、自分の息が止まっていたのに気付いた。慌てて呼吸をすると、はあ、と重い吐息が空に溶けていく。


 手すりにかける力を緩めようとして、でも、それが出来ないことをわたしは知っていた。

 彼女がまた全速力で走り出す。さっきと同じスピードで──いや、さらに速く、誰にも追いつけないような速さで。


 わたしの意思とは無関係に動き出してしまいそうな脚を手で押さえる。

 手すりから片腕が離れる。普通逆だろうけど、意識としてはそんな感じで、あれ? となる。

 もう片方の手を胸元に持ってきて、そっと押し当てる。


 どくん、どくん、と。

 脈が激しく乱れていた。


 いけないいけないと思いながら振り向く。

 でも、窓越しに見る教室の風景はどこか別世界のもののように思えて、身体の向きを戻す。

 なにやってんだろ、ばかみたい。ぺしぺしと顔を叩いてから、もう一度手すりをつかむ。


 走りたいなあ、なんて。

 ……なんて、そんなことを思ってるのかなあ。

 ほんとうは思ってなくて、とは言い切れない。思ってはいる。でも言葉にすると意味が変わるように思える。


 言葉は外に出してしまえば意味が固定されるし、吐いたぶんだけ軽くなる。

 けどまあ、心の中でくらい言葉にしたっていいんじゃないだろうか。


 誰も聞いていないし、という何の意味もない納得をして、一応、流れ出さないように口元に手をやる。


 多分。多分と言いたい。多分と言わないといけない気がする。

 まあいいや、ぜんぜんよくないけど──多分わたしは彼女のことを考えると、走りたいと思ってしまう。


 じゃあ走ればいいじゃん、というとそういうことでもない。

 って、誰に対しての反論なのか。紛れもなく自分自身だけど。これは一昨日の夜に歯を磨きながら考えた。


 わたしは、

 彼女と、

 彼女のとなりを、もしくは少し前、少し後ろを、走りたい。


 でもやっぱりそんなの無理だよなあ、と口をもごもごさせる。

 見ているくらいがちょうどいいのだ。なんというか、遠くにいるものには迂闊に触れたくないし。


 たとえそれが昔は近くにあったものだったとしても。

 時間が経てば、何もかもが変わる。いつまでも取り残されてていいわけじゃない。


 だとすれば、何がわたしをこうさせているんだろうか。

 彼女に向く気持ちは、どこから湧いてくるのだろうか。


 この気持ちは、憧憬か、それとも。


 わたしの頭に浮かぶ彼女の表情と、今の彼女の表情。

 そこが一番変わったところかもしれない。速さとか、それ以前に。


 後ろを振り返り窓に映る自分の顔をのぞきこむと、変なことに気付く。

 高鳴る胸の鼓動とは逆に、わたしはひどくつまらなそうな顔をしていた。


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