別離の足音

3

 朝夕は涼しくなってきたが、昼はまだまだ夏の名残を感じる暑さだ。体育祭本番の今日も良いのか悪いのか、ジリジリとした太陽が照りつけていた。

 

 8時30分からの開会式を皮切りに始まった体育祭は、100メートル走、障害物競走、綱引き、組体操を終え、次はクラブ対抗リレーが始まるところだ。

 ちなみに100メートル走に出場した竜生くんは見事一位を取っていた。帰ってきた竜生くんに「おめでとう!」と駆け寄れば、「組み合わせがラッキーだったね」と爽やかな笑顔で謙遜が入り、「次の部活別リレーも頑張るよ」と力強いお言葉。

 「楽しみにしてるね!」と言ったのは心の底からの言葉だ。走る姿を拝めることはもちろん、クラブ対抗リレーはユニフォーム姿で走ることになっているので、それがなによりも楽しみなのだ。

 バスケ部ユニフォームに身を包んだ竜生くんを見るのは今回が初めてだ。私は今か今かと入場を待ち侘びていた。


「それでは選手たちの入場です!」


 放送部のアナウンスが響く。

 あ、きた、バスケ部。オレンジ色のタンクトップ型のユニフォームが、普段決して目にすることなどできない二の腕を露わにしていた。これはけしからん、と私は憤る。そもそも竜生くんは体質的に、筋や骨が目立ちやすい骨格をしている。その魅力が、タンクトップから出た腕から存分に発揮されてしまっているのだ。

 えぇ、私だけが見たかった……だなんて、しょうもない独占欲だと思う。そもそもバスケの試合ではユニフォームを着ているのだから、私だけが……なんて今さらな願いなのである。


 私が竜生くんを邪な気持ちで凝視していると、横に座った亜美ちゃんが「見過ぎ」と苦笑いをこぼした。だって、だって、なんだもん。

 かっこよすぎるのが悪いよね、と返そうとした言葉は、「きゃあ」と発せられた悲鳴にも似た歓声に掻き消された。

 誰に宛てた歓声だろ?と視線を動かせば、剣道部が目に入る。紺色の道着は確かに強そうだし、かっこいいよね。


「急に森脇くんブームがきてるみたいよ?」


 亜美ちゃんはこっそりと私に耳打ちをした。森脇くんブーム?森脇、礼人??


「え、そうなの?」

「まぁ、洗井くんに彼女ができたからってことじゃない?」


 そう言った亜美ちゃんの顔は呆れていた。

 ん?ということは、さっきの歓声は礼人に対してなのか。昔からモテていたので、さして不思議には思わない。顔はいいからね、顔は。


 「森脇くーん」と高い声が礼人を呼ぶ。礼人は照れたようにそちらに手を振り返していた。なんだかその顔が知らない人みたいだった。



 結局クラブ対抗リレーは陸上部が優勝した。こんなん茶番じゃん、と思わなくもないがバスケ部、野球部、サッカー部辺りは健闘していたと思う。特にバスケ部は竜生くんのおかげでかなりいい線いってたと思うんだよなー、と、これは贔屓だ。

 

 その後に3年生による騎馬戦が行われ、それが終わると昼休みに突入した。

 私が友達と喋りながら階段を上がっていると、後ろから楽しそうな男女数人の話し声が聞こえる。どんどん近づいてくる声が、見知った人物のそれだと気づいた。私はくるりと振り返り顔を確認する。


「あ、おつかれー!クラブ対抗リレーすごかったね」


 思った通りの人物に発した、この、すごかったね、は走りに対してではなく、入場時の黄色い歓声に対するものだ。


「おー、おつかれぇ。え?そうかぁ?俺より美琴の彼氏のがすごかったじゃん」


 どうやら礼人は真意に気づいていないらしく、訝しげに眉を顰めた。


 「美琴はなに出んの?」と、礼人はどうやら私と話を続けるらしかった。だけど、礼人と同じクラスの女の子たちの視線が痛いほど刺さっていることに気づく。あんた礼人のなんなのさ?とでも言いたげである。確かに、今この女子たちにしてみれば、私って敵でしかないだろうなぁ。

 無用なやっかみはごめんだと、「玉入れと応援合戦」と手短に答え「じゃ、こっちだから!」とそそくさと別れる。「それどっちも全員参加のやつじゃん!」という礼人のツッコミが廊下に虚しく落とされた。



 「めっちゃ睨まれてたじゃん」と教室に着くなり佳穂が私に絡む。佳穂も先程の2組の女子たちから発せられた嫌なひりつきを感じとっていたみたいだ。


「まぁ……でもあの子たちの気持ちもわかる」


 きっとあの中の誰かが礼人のことを好きなのだろう。突然現れた好きな人と親しげに話す女。そんなの敵でしかないじゃんねぇ。だけど睨むことはないじゃん、とも思う。


「そう?てかさ、美琴って森脇くんと知り合いだったんだ?同中だっけね?」

「同中ってゆうか、幼稚園からの幼馴染」


 ね、と唯一私と礼人が幼馴染だということを知っている亜美ちゃんを同意を求めるように見た。


「え!!知らなかったんだけど!」


 と、佳穂とさくらちゃんの声が響く。「まぁ、言ってなかったからね」と私。だって、あの子と幼馴染なんだー、ってわざわざ言うことか?って話だ。


「まぁ、そりゃあ、睨まれるわ」

「うん、残念だけど、睨まれるわ」


 先程まで私に同情的だった佳穂とさくらちゃんが、仕方ないよ、という風に私の肩を叩く。


「えぇ?なんでよ!?おかしいよね?亜美ちゃぁん」


 納得がいかないと、私はこの場で唯一の味方である亜美ちゃんに縋った。「睨まれるのは嫌だね」と、思った通り同意してくれる亜美ちゃん、天使!!


「だって、洗井くんの彼女なだけでやっかみ対象なのに、その上森脇くんと幼馴染って!」

「同情するわ……」


 憐れみの目を向けないでください。礼人は置いておいて、しょうもないやっかみを向けられるぐらいで竜生くんと付き合えるなら安い物だ、と私は思う。


「なに?俺の話してた?」


 思わぬタイミングで急に現れた竜生くんに、私を含めた4人は驚いて息を止める。私たちのその様子に「あ、ごめん。すっごいびっくりさせたね」と気まずそうに謝った竜生くんに、「ぜーんぜん!」と佳穂とさくらちゃんが返した。


「ほんとごめん。あと、美琴に用があって……昼一緒に食べない?」


 私が返事をする前に「どーぞどーぞ、お好きなように」と佳穂とさくらちゃんが私の背中を押す。ほんといったいなんなんだ、と2人の私への扱いに笑ってしまう。

 「じゃあ、行ってくるね」とおにぎりとお茶を持って竜生くんの後をついて行く。体育祭はいつもより昼休みが10分短くなっていた。そのためお昼ごはんは、さっと食べられるおにぎりをお母さんにお願いして作ってもらったのだ。


「ね、どこ行くの?」

「ん?部室」


 そう答えた竜生くんはポケットから出した鍵を、私に見えるように軽く揺らした。

 用ってなに?それは聞かなくてもわかっている。





「この前掃除したばっかだから、そんな汚くはないと思うんだけど」


 竜生くんは少し申し訳なさそうに私を部室に通した。「平気平気。全然気にならないよ」と返したのは本心で、男子バスケ部の部室は想像していたよりもずっと清潔感があった。

 「ここに座って」と促されたベンチに腰を下ろし、早速おにぎりを頬張る。竜生くんもお弁当を広げた。


「あと、リレーだっけ?」

「だな。400も走るからなぁ」


竜生くんはスウェーデンリレーのアンカーなので、一番長い距離を走ることになっている。


「玉入れも応援合戦もあるし、頑張ろうね!」

「うん。頑張ろうな!」


 モグモグと口を動かしながら、くぐもった声を出す竜生くんの尊さよ……!


 「ごちそうさまでした」と言ったのはほぼ同時であった。お弁当を片した竜生くんが部室に掛けてある時計をチラリと見る。そして時間を確認すると、私の方に向き直った。なにをされるかわかっているのに、体に緊張が走る。いや、なにをされるかわかっているからこそか。ゴクリと喉が鳴って、お茶飲めばよかった、と頭の片隅で思った。


 ちゅっと可愛らしいリップ音に似合わないほどの熱のこもったキスが唇に落とされる。やっぱりお茶飲むべきだったー、という思考が頭を支配する。おにぎりの中に入っていた唐揚げ味のキスなんて嫌だ……!


「なに考えてんの」


 といつもより低くなった声が私の鼓膜を揺する。唐揚げ味のキスのことです、なんて口が裂けても言えない。部室でのキス、なんていう青春ドラマ王道のシチュエーションが崩壊してしまいそうだ。


 後々考えると「え?なんのこと?」ととぼけたのがいけなかったのだ、とわかる。だけどこの時の私はそうする選択肢しかなかったのだ。

 とぼけた私から竜生くんがすっと視線を逸らす。あ、怒らせたかも、と思ったその直後、鋭い視線で私を見つめた。ドキドキしてる場合じゃないのに、その眼差しに心臓がうるさくなる。なんて言おう、そう考えていた私の唇が再度塞がれた。

 いつもなら触れ合った直後に離れていくのだ。なのにいつまで経っても触れ合ったままの唇。それどころか、ぎゅっと力が入った私の唇を解すように、竜生くんの舌がペロリと私のそれをゆっくりとなぞったのだ。

 微塵も想像していなかった事態に思わず「あっ、」と声が漏れる。それを待ち構えていたかのように、僅かに開いた唇の隙間からにゅるりと竜生くんの舌が差し込まれた。


 息、息っていつしたらいいの。私が「んんっ、」と苦しげな声を上げると、竜生くんが舌を抜いて唇を離した。


「……はっ、苦し、っ」

「息しなよ」

「いつしたらいいのかわからないんだもん」

「鼻ですんだよ」


 少し機嫌を持ち直したのだろうか。意地悪そうに片方の口角を上げた笑みが私に向けられた。

 こくんと私が頷いたことが始まりの合図になり、再び深く口づけられる。竜生くんの舌が奥に引っ込んでしまった私の舌を絡めとった。上顎や歯列をなぞられて、身体が震える。今までしていたキスってなんだったんだろう、と思えてしまうほどに激しいキスに頭からつま先までが痺れた。

 「舌出して」と吐息混じりに囁かれる。舌、舌出すってなに、と頭は混乱しているのに、考えるより早く、身体が従順に舌を出した。

 ちりっ、と痛みを感じたのは素直に突き出した舌先を噛まれたからだ。舌を吸われているのか、血をすわれているのか、もうわからない。縋り付くように、竜生くんの二の腕を掴んだ。


 はぁはぁ、と2人の荒い息遣いが狭い部室に充満している。あ、ダメだ、止まらない、と交わった視線に確信した。


『中間発表を行います。中間発表を行います』


 ギラギラと獲物を狙うような竜生くんの瞳に吸い寄せられ、また唇を合わそうとしたときだった。放送が流れ、2人で現実に引き戻される。


「やばい!今何時?」

「っわ、始まるまであと10分だ」


 部室から教室に一度帰らなくてはいけない。すごく切羽詰まったわけではないが、かなりギリギリの残り時間だ。

 私たちは弾かれたように立ち上がり、急いで部室の施錠をして教室に駆け足で向かった。

 なんで競技でもないところでこんなに走ってるんだろう、と思わなくもないが自業自得。身から出た錆である。



 部室棟から裏口まで続く通路は舗装されていない砂利道だ。私たちの教室まではその通路が近道だった。ここ転けそうだなぁ、と気をつけながら走ってはいたのだ。だけど、そこで転けてしまうのがさすが私である。拍手はいらない。


「大丈夫っ!?」

「だ、だいじょーぶ」


 並走してくれていた竜生くんが驚きに立ち止まり、私の手を取って立たせてくれた。ズキンと膝に痛みが走る。

 「わ、結構血が出てるな」と竜生くんが心配そうに患部を見つめながら、ポケットからハンカチ出した。


「いいいい、大丈夫だから!私このまま保健室行くから、竜生くんは先に教室行っといて!」

「いや、でも、」

「ほんとーに!大丈夫!この後応援合戦じゃん。さすがに竜生くん居ないのはまずいよ」


 センターで踊る主役がいないのは絶対に避けなければいけない。竜生くんもそれは理解しているのだろう。後ろ髪を引かれつつも、私の言葉に従って教室に向かってくれた。


 保健室の扉をノックすると「はーい」と先生の声が返ってきた。

 「怪我しちゃいました」と言いながら僅かに足を上げ、膝を先生に向ける。「あらあらー、結構血が出てるね」と先生の前に用意された椅子に座らされ、傷口をきれいに洗ってもらった。


「あら、思ったより傷口が小さいわね」


 血で隠れていた傷口を見た先生が驚きの声を上げる。私も先生に倣い、どれどれ、と傷口を確認する。

 ふむ、たしかに。それは砂利道で擦りむいた割には些細な傷であった。血の量とも比例していない気がする。ま、なんにせよラッキーだ。

 「絆創膏も要らなそうね」と言う先生に消毒だけしてもらい、私は運動場へ向かった。

 教室に寄る時間などもちろんなかったからだ。




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