燐光

まきなる

プロローグ前編

2014年10月某日―


 白い息が乱れ、情報に飢えた者たちがブラウンのコートを着た男、波田なみたを追いかける。17歳からデビューした彼は恵まれた体格、風貌と美声だけではなく、たゆまぬ努力によって今の地位をつかみ取った。かつて彼を包み込んでいたのは黄色い歓声や讃える声ばかり。しかし今はあらゆる質問、疑惑が彼に浴びせ続けられている。耳元にはばたく虫のような声を払い、彼は記者たちの質問には答えない。実は彼は弁護士と相談した結果、記者会見の場で全てを打ち明けるという話でまとまっていた。そう彼は今、記者会見の会場に向かっている途中なのだ。ここで質問を聞く余裕はない。ただ、胸の奥に疑問が渦巻いている。


 記者たちに追いかけられている理由は理解できる。詳細な説明を彼らは求めており、受け取った情報のストーリーを立てないといけないのだ。だが、なぜ記者会見場に向かっている自分にここまで群がってくるのか。彼は記者会見で全てを話すつもりでおり、質問にも全て答える気概だった。


 記者会見の予定時刻は午後七時。腕時計で時間を確認すると、随分早くに出たはずだが記者たちのせいで時間がかなりギリギリに近くなっていた。彼の息も乱れ始める。記者会見のために黒く染め、セットした髪もうねる。急がなければ。自ずと速くなる足取りで彼は会場のホテル・リゲの自動ドアをくぐりぬけ、一階の一番奥にある会場へと足を進めた。


 バン!重厚につくられたドアは固く、波田は勢い良く入り口を開いた。しかし、彼の目に飛び込んできたのは椅子が綺麗に並べられた会場ではなかった。カーテンや床のカーペットはぐしゃぐしゃに、椅子などなぎ倒されてスプレーで滅茶苦茶にされていたのだ。よく見るとバラ線の有刺鉄線がそこら中に散らばっており、これらも準備中であったようだ。実行犯は群れであり、波田を見つけると猟犬のように彼を囲い、もう表舞台には出させるつもりは無いような形相を浮かべていた。そこにもう一つの猟犬の群れである記者たちが流れ込んでくる。ある者はカメラを回し始め、ある者は暴徒と罵声を浴びせ合い、一部の場所ではけが人も発生していたようであった。地獄だ。


 波田は体の至る所に暴力をシャワーのように浴びつつ、この騒ぎの中、会場の一番前にある物が散乱しきった壇へと急いだ。精神的か、喉に香る血の匂いのせいか、息をする余裕なんてない。だが、この場を止めることができるのは自分だけで、絶対に止めなければという一心で走った。


 壇は聴衆の注目を集めるため、音が広がるように壇の下は空洞になっている。その場の全員に聞こえるように波田は壇に勢いよく飛び乗った!混乱の中で床に落ちたマイクが音を拾い、その場にいた半分が波田を注目した。ただ、妙なものが波田の視界に映った。


 人が倒れていた。この場にいる誰よりも整えられたスーツを着た人が倒れている。波田はその姿を見た瞬間、これまでの頭の中に渦巻いていた全ての疑問や疑惑が吹き飛んだ。


上本かみもとさん、おい!しっかりしろ!!」


 倒れていたのは彼が相談していた弁護士である上本だった。頭からは血を流し、意識を完全に失っている。慌てて首筋の脈を診るとまだ息があった。この人は死なせてはならない。死なせたくない。波田はメジャーデビューしてから20年間歌い、鍛え続けた喉で張り裂けるように叫んだ。


「おい、誰でもいい!救急車を呼べ!!」


 声は会場中を轟く。誰もがその声に圧倒され、一瞬だが音のない時間が訪れた。しばらくすると誰かが電話をかけているのが聞こえる。警察であり、病院であり、仕事先と各々だった。しかし次の瞬間、暴徒がホテル内を牛耳っていた際に誰かが通報していたのか、警察が流れ込んできた。


「全員そこを動くな!!営業妨害ならびに暴行の現行犯で逮捕する!」


 誰がどんな人物なのかも区別されず、警察官たちは明らかに暴力をふるっていた者たちを次々と取り押さえていった。現場は混乱どころの騒ぎでは無い。警察から逃げようとする者、抵抗する者は無力化されていた。しかし、残った記者たちは違った。ある者は電話で今起きていることを会社に連絡し、手に持っていたカメラで記事やニュースにするために写真撮影をし始める。一方、中継用のカメラを回していた者たちはその現場をボクシング世界タイトルの決勝が如く実況していた。


 ただ一人、波田だけは目覚めない上本に対して必死に呼びかけを続ける。二人の警官が波田に気がつき壇上へと駆け上がった。その場におけるできる限りの対処を行うが、彼らはプロではない。救急隊員を待つしかなかった。しかし、会場の中は混沌としておりここまで救急隊員が来ることができるかの期待はできなかった。だが、波田はあきらめの悪い男だ。


「警察の人、丈夫な長い棒状の物を探してください。担架を作ってこの人を運びます」

「よし木梨きなし、探して来い。俺はこの人を見ておく」

「わかりました」


 波田の体中に血液が速く、速く流れていく。彼は着ていたトレンチコートを脱いでその場に捨てた。コートは積み重なったパイプ椅子に引っ掛かる。彼らはできる限り会場内を探すが棒状のものは中々見つからない。その時、暴徒となった民衆が用意していた、あるものを思い出した。


「バラ線…」


 使える。波田はバラ線を抱え、壇上へと戻っていった。


 通報を受けた救急車はけたたましいサイレンを鳴らし、ホテルに向かっていた。しかし、騒動を聞きつけたやじ馬たちが道をふさぎ、中々ホテルの敷地内に入ることができない。救急隊員の小口こぐちの額に汗が流れる。平静を保ち、淡々と民衆に対して道を開けてくださいと伝え続けるが徐々にしか人は動かない。自分が呼びかけることしかできないのが苛立たしく、次第に語気にも力が入り始めた。あともう少し、あともう少しでホテル内に入ることができる。正確にはホテルに入る直前まで来ると、警察も人員整理を行いやすい。それまで最短に最高速度だがじっくりとこの車を向かわせなければならない。くそっ!!人の命がかかっているのだ。くだらない知識欲をなぜ見せる!小口はハンドルに拳を叩きつけた。


 5分後、現場の立ち入りは制限され小口が乗った救急車が到着した。だが、現場には多数の負傷者がおり、優先すべき人物の見当がつかない。駆けつけた警察官によると、ホテル内に重体者が一人いるがまだ現場は混乱しているため、外に出すことができないという知らせを小口は受けた。もし本当に重体なら一刻も早く処置をしなければ、命に大いにかかわる。しかし、今は何もできないのか。ならば他のけが人を治療するしかないと、瞬時に頭を切り替える。救急車は俺たちだけではない。他にも来る。だからそれまでに負担を減らさなければならない。小口はもう一人の救急隊員ともに、負傷者の手当てを始めようとした。しかし、突如ホテル内の騒ぎの空気が変わった。そんなことはわからないはずだが、生物的な本能なのか無意識下で人々はホテルの入り口を凝視した。


「どけぇぇ!!!!」


 耳が委縮する怒号が辺りに響いた。その音は繰り返しホテルに響き渡る。ホテルだけではない。骨の髄にまで染みわたるようで救急隊員の小口は自らの左腕を、急に冷えた朝に身震いするように右手で握っていた。


 だが、委縮している場合ではなかった。パイプ椅子二つを有刺鉄線で無理やり繋ぎ合わせ、トレンチコートで覆うことで作った即席の担架が救急車に向かって突っ込んでくる!波田は自身の体にも有刺鉄線を巻き付け、警察官の木梨と共に命からがら会場から上本を乗せて脱出したのだ。一同は目を丸くさせてその運び屋を見つめる。しかし、小口だけは違う。視線に映っていたのは明らかに意識が無い男性であり、今すぐに処置が必要なのは明白だった。救急車の目の前に担架を下ろした波田は小口に向かって伝える。歯ぎしり、押し殺した表情、体からあふれ出そうな感情を押し殺した波田の姿。彼の喋る姿は、まるで悪鬼が生まれたての子供にぎこちなく伝える様と似ていた。


「恩人なんだ。この人を、助けてくれ…」


 小口は目を据えて頷いた。


「病院へ急ぐぞ!!グズグズするな!!!」


 他の隊員が持ち場に戻ろうとする中、小口は一体どれだけの暴行を受けたのかわからないボロボロになった波田に話しかける。


「あなたもひどいケガだ。救急車に乗ってください」

「いや、断る。俺にはここでしなきゃいけないことがある。さっさと行ってくれ」


 いつもの小口なら、たじろぐような性格の患者であれば無理やりにでも救急車に乗せていた。だが、彼の目を見ると行動に起こせなかった。鉛筆はどんなにボロボロになっても芯があれば書き続けることができる。小口の目には、今の波田がそう映ったのだ。


「わかりました。しかし、用事が済んだら必ず病院へ来てください」

「あぁ、そん時は頼むわ」


 上本を乗せた救急車がホテルを離れ始める。動き出したのを見送ると、波田は用済みなった担架を踏みつけてホテル内へと歩み始めた。これだけ無茶苦茶になった現場でも、まだ記者やリポーターの一人や二人ぐらいは残っているだろう。彼らは情報が命だ。だったら、波田自身が話せばいい。今日、この場は波田が記者会見を開く予定だったのだ。話すことは山ほどある。


「さて、どれから説明したものか…」


 胸ポケットのタバコを取り出し、転がっていたライターで火をつける。一度足を止めてタバコを吹かすと、白い息が漏れた。ここには灰皿は無い。波田は足元に煙草を落とし、傷ついた革靴で踏み消してホテル内に再び歩みを進める。警察官が現場を整理し始め、やじ馬たちは何も状況を掴むことができない。見向きもせず、波田は靴を鳴らし続ける。ホテルの外に残ったのは、疑念、混乱、そして燻ぶったままの煙草だった。

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