異色
setsukake
第1話 ここで
けたたましく鳴る目覚ましに何度か起こされながら、もうすでに40分は抗っているだろう。おそらく6時半、いや6時50分くらいだろうか、まだ何とかなる時間という甘えが俺の体を起こそうとしない。
スマホの時間を確認しないようにして、kingboxに保存していた動画からヒーリング系の音楽を再生した。ここ10分だけでも深く意味のある回復の為の睡眠が出来るようにと行った配慮である。だが当然ながらそんな短時間でどうにかなるものでもなく、再度スヌーズが切れた目覚ましの音に本格的に揺り起こされて恐れていた今日一日が始まってしまった。
…俺の名前は刹那翔。人生に振り回されながら、二度と来ないその一瞬一瞬を駆け抜ける現世の旅人である。
今は人生何十年なんだろうか、大分平均寿命は延びて来たものと思われるが、それでもいって80そこそこが関の山であろう。そうなると、俺はゆうにその半分を過ぎ、今の一瞬の結果がその最期に直結している時期でいると言っても過言ではないだろう。しかし、なんというか、今日もまた、もちろん昨日も、そしておそらく明日も、代り映えの無い何とかなった一日、生きながらえた一日を過ごしているのが現状である。
いつからこうなったのか。この世代の一般的な人間は誰しもそうだと思うが、いつの間にか日々ちょっと違うんじゃないかという日々を送ってしまっている。考えるまでもなく、結局は自分のこれまでの結果というか、それ以外には理由は思い浮かばないのだが、それでも何か得体のしれない現実が後ろに隠れて見えてないだけと思いたいような変な浮遊感にとらわれた現実味の無い日々を送り続けている。
俺の年収は約500万。一介のサラリーマンとしては、高くはないが際立って低くもないいわば生殺しの水準である。まあ日々不満足、口をついて出るのは不平不満だけという、甘えて言えば人生の辛酸ここに極まれりという毎日だが、既に甘えて言えばと言ってしまった通り実際のところ仕事の楽さ、怠けやすさや甘さにかまけて、自ら進んで辞めるなんてアグレッシブで面倒なことをするはずもなく、企業側もそれをみこして出した条件だと薄々(実は明白に)分かっている。プライドと自己保護のために俺は不満だと常に自分を偽っている毎日だと言えるだろう。
今日もまた、定時は9時からなのになぜか8時出勤を強制されているので、せめてもの抵抗と7時58分に出社して、不満顔の上司をしてやったりとにやけながら横目で見て「…ぉございまぁす」と気のない挨拶をして一日を始めた。
上司は上司で目も合わせず何も言葉は発しない。というか、最近仕事以外で話した事は有るだろうか。既に70を過ぎて再雇用された上、親会社から出向で来ている上司は、その禿げ上がった頭で顧客の前では常にピエロを演じてはいるが、その実極めてプライドが高く自分が意図した笑いじゃない場合自分をネタにされるのを最も嫌うタイプである。さしずめ、その生き様と顔立ちは横山ノックのそれに酷似しており、何というか、全員から裏で嫌われながらも、うちの社長を含め全員が歯向かえないという途轍もないやっかいな人物といえるだろう。
今日も朝一の会議で俺への「かわいがり」が始まった。
「俺はコロナ禍でも日に10社以上挨拶に行った。それなのに君はなんだ。最近は
少し動くようになったとは思うが、全然話にならん。」
コロナ禍でも回ったが最近のノック(上司の呼称をこう呼ぶとしよう)の口癖だ。東京都の一日の感染者数が5,000人を超えるような先日までのコロナ禍の中、それを恐れずに外回りをしたとういう自慢であった。営業職ながら在宅勤務を主張しWEB販促の体制を整えた俺がよっぽど疎ましいらしい。
これを聞いて中には心からうんうんと納得する人もいるかもしれないが、この時代の常識人ならばハタ迷惑なクソ爺ぃと分かってくれるんじゃないだろうか。うちの社内でもそうである。コロナ第5波全盛の当時、全員が全員、ノックの行動について非常識だとか社の信頼に関わるとか真っ当な事を口々に語っていた。…裏では。
問題なのはノックの目の前でそれを言える人間は一人としていなかったという事だ。同時期に起こった元首相の問題になぞらえて、社会にはびこる老害とまでこき下ろしたある管理職さえも、会議時にノックが言うこの顧客回りの話にはさも英雄譚を聞いたかのように地面に頭を突っ込むほどに頷き感嘆の表情でノックをたたえていたものである。フラットな意見を言う傾向の強い女性社員がほぼいない事も有り、全員が全員腹丸出しの飼い犬状態であるこの環境がノックを日々のさばらせていて、良くも悪くも裏表が使えない俺にノックの攻撃は集中していくばかりである。
今日も「俺はすばらしい、お前はつまらない」に終始したノックの演説だったが、まあそれを受け流せば生きながらえられるとして、改善や打開に走らない俺にも問題は有るのかもしれない。そもそも、どんなに営業成績を上げても評価はされないのだからこちらもいわば無敵で、鬱になったりして辞めざるを得なくならない限りは引き分け以上は確定している闘いと割り切ってしまっているのが本音である。
そうこうしてる間に朝の会議が終わり、午前が終わり、午後が終わった。
うちは18時の終業だが社長以下全員が18時15分には会社を出ている。まあ社としての向上心に欠けると言えばそれまでだが、色々あっても辞められない理由の一つがこれで有る事は言うまでもない。本当にこのご時世にのんきな、そして恵まれた環境である事は間違いない。
俺は社を出て駅迄の道をスマホを見ながら歩いていた。タピオカがどうので芸能界を追われたタレントの訴訟の決着がついただとか、どうでも良い記事を見ながら駅前の人通りの多い道を歩いていると、ふと目の前の学生に目が留まった。
中学生ぐらいだろうか、少しやわらかな容姿だが、その目には何か世の中を率先するといったような意思が光っているのが分かる。まだ18時半なので中学生が歩いていても不思議ではないが、その男の子は何か探しているのか右に左にうろうろと歩き回っていたので何となく彼が気になったのだろう。最近少なくなった黒色のスタンダードな学生服で、しっかりと詰襟のカラーも付けているちょっと真面目な印象だった。この手の風体の子供はどこにでもいるというか、珍しくはないと思うのだが、なぜか大勢の人込みの中で一際目立ってみえた。
とはいえ、今日び40過ぎのおっさんが中学生位の子に声をかけるというような事は無く(最も、不用意にそれをしたら同性といえど問題になるケースもあるし)、そのまま通り過ぎようとしたその刹那、事が動き出した。
「すみません、ここで、」
突然、袖を引っ張られる感覚を覚えた俺は、先程の中学生のまだ声変わり途中だと思えるあの年代独特の声で俺に話しかける言葉を聞いた。その子の方を向くと、それまで気付かなかったが、その目は涙こそ無いが真っ赤に充血して意を決した様子でこちらを見つめていた。
すみません、ここで、、、
ここで何だというのだろう。俺はその次の言葉を聞く迄の時間が一時間とも二時間とも言えるぐらい待ち遠しく思えた。そして、いざその言葉を聞いた時、ほんの数秒前のその言葉を聞く前に戻れるならば何でもするという程のショックを受けたのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます