青春の中華料理店
河村 研二
第一幕 国道イナイチ
夢が見える勝手口
昭和五十八年、初夏。
昼のラッシュが終わり、少し落ち着いた頃のこと。
「うわぁちょっと見てみ、白いシャツ着たあのおねーちゃん。えろうスタイルがええわぁ。髪の毛も長くて先っちょがくるっとカールしとる。めっちゃめちゃ可愛いなぁ」
チーフは気持ち悪いほどニヤニヤとしながら、勝手口にもたれて好物のロンピー(ロングピース)をくゆらせる。客席のモノラルスピーカーからは有線のBGMが聞こえてくる。
「ベイべ~、オゥベイべー、イケナイ、ルージュマジック♪」
眩しそうに眺めるのは、勝手口から十メートルほど先のバス停「鎌田南口前」に立つ五、六人の女性たち。目じりは垂れ下がり、ねっとねとのドスケベ満開の表情だ。
「なぁなぁ、片山君はどの子がタイプや。あん、どの子も興味ないってか。それはあかん、若いんやからもっと元気ださな」
『北京飯店』店主。通称チーフ。三十一歳。身長一七〇センチの中肉中背で、髪型は演歌界のキング北島三郎的ショートアイパー。顔つきは猿か鶏という感じで、素敵な女性を見るとラビット関根にそっくりな顔になる。ユニフォームはブイネック型の白衣に白いゴム長。時にゴールドのネックレスをつけている。店主なのになぜチーフと呼ばれているのか。それは常日頃から女の人ばかりを見ては顔がふにゃけていることと、奥さんの尻に敷かれまくっていて威厳がまったくないからである。よって奥さんのあだ名が「社長」。
チーフの軟派な話に付き合うことなく、勝手口に背中を向け、大きな中華包丁を片手にひたすらみじん切りを続けるのは片山祐介、十七歳。ザクザクザク…。
祐介は顔も体つきも、TUBEのボーカリスト前田亘輝によく似ていると同級生の女子たちからそう言われていた。授業よりも、彼女と金を稼ぐこととバイクレースに力を注ぐ現在高校三年生である。
「あっそうか、片山君は一つ年下の彼女ができたんやったな。この間遊びに連れてきた時、バイクの後ろに乗ってる彼女を見たら太ももむっちむちやったで。えろう可愛い子見つけたもんや。え、もうやったんか。むふふふふふ」
同級生の仲良したちはみんな早熟だったが、祐介はウブもいいところ。自分の劣等感を隠すかのように、少々呆れた表情をして見せながら、キャベツのみじん切りに集中し続けた。ザクザクザク…。
白昼の午後二時半頃。初夏の爽やかな風にロンピーの甘い香りが入り交ざる。
数秒の沈黙が続いた後、チーフが何かを思い出したかのように、いきなり野原のウサギのように首を立て、こう言い放った。
「あれっ。あの子よう見たらこの前も立ってた子やわ。絶対そうや。ほぅ、やっぱり縁があるのかもしれん。よっしゃ、わし、ちょっと行ってくるわっ」
やっぱり始まった。祐介は呆れて言葉も出ない。
チーフはまっすぐに伸ばした人差し指と中指の間にタバコを挟みなおし、勝手口から足を踏み出し、ゴリラのように体を揺らしゴム長をかっぽかっぽと前進。店の前を走るのは片側二車線の国道一七一号線、通称イナイチだ。時間を問わずトレーラーや大型のトラックが多く、今日も煙たい排気ガスを撒き散らしながら絶え間なく行き交っている。当然ながら、バスを待つ老若の女性たちの中の最も若いであろう女性に近づいていく。時折、車の走る音で掻き消されながらチーフの声がかすかに聞こえてくる。
「なぁ、このあいだもここのバス停におったんちゃう。あ、変なもんとちゃうよ。わし、そこで店やってんねん。ほら、中華。今からどこへ行くの、ん」
祐介がなんとか手元の包丁に意識を傾けていると、唸るトラックのエンジン音の隙間から耳を疑うような言葉が聞こえてきた。
「時間あんねんやろ。よかったら餃子でも食べて行かへん」
祐介は思わず手を止めて、ぐいっとのけぞり、勝手口からバス停のほうを覗いてしまった。すると女性は一歩後ずさり、下を向きつつ手でチーフが吐くロンピーの煙を払うようにして「いえ、けっこうです」と、そんな風に聞こえた気がした。
ロンピーの煙とともに、オラウータンのような顔を漂わせるチーフ。
「えぇってぇ、心配せんでも奢るでぇ、いやほんま。うちの餃子はうまい言うて評判やねん、むふふふふ…」
「嫌です、もう勘弁してください」と、祐介は再び心の叫びが聞こえた気がした。
白昼のバス停での出来事。それ以上追うと本当の変態おじさんになってしまう。
「忙しいとこゴメンなぁ。すんませ~ん」
チーフは照れ臭そうに軽く会釈してからゆらゆらと退却してきた。
「くっー! あかんわ。きっとお腹すいてなかったんやな」
「いや、そうじゃないでしょ! いきなり見知らぬおっさんが餃子食べへんか、では絶対みんな怖がると思いますわ」
「なんや、ほな何て言うたらええねん。そんなふうに言うんやったら次は片山君が行ってみぃ」
「いやいや、ゴム長に中華の格好してることじたいがもうアカン。こんなんで引っかかるとは思えません。もうほんま、チーフたまりませんわ。何を信じていつも声をかけてますのん。このあたりで絶対に変態中華って噂されてますよ」
「片山君はほんまにまじめやなぁ。女心をわかってないわ。嫌よ嫌よも好きのうち言うてな。女っちゅうもんは時として、絶対にアカンことがごっつぅエエという時があるんやで」
あっけらかんとした表情でチーフは流しの横においてある一斗缶のごみ箱にロンピーを弾き捨て、客席にまわってスポーツ新聞をめくりだした。それは表側に阪神タイガースの写真が勝っても負けても大々的に掲載され、次のページからは殆どが風俗店の情報と女性の写真ばかりの実際はエロ新聞。店はわずか七坪で、客席は四坪ほどしかないのに、新聞をはじめ雑誌や漫画などが二〇冊ほど置かれ、その九割がエロ系である。チーフは再びロンピーに火をつけて、うれしそうにページをめくっていくのであった。
祐介は再びキャベツのみじん切りに神経を集中する。餃子に使うキャベツは一回の仕込みでだいたい六、七個。キャベツの天地に対して半分に切り、柔らかな上部は天ぷらや唐揚げなどのツケ添え用にケン切りにし、芯のある下部のみを餃子用とする。チーフから包丁使いが格別にうまいと言われていた祐介で、やり終えるまで三〇分以上はかかる。この仕込みは忙しいと毎日、暇なら二日に一回のルーティーンであった。ザクザクザク…。
一〇分ほどが経ち、エロ新聞を嘗めまわすようにして見終わったチーフは、何かを思い出したかのように再び首をぴんと立てた。
「あっそうや! 飯くわな。片山君、今日は何にする?」
いつもと同じ言葉を投げかけてくる。何を言おうが、だいたいはニララーメンか味噌ラーメン、またはニラレバ炒めとご飯となるのが落ちである。
「そうですね。天ハンでどうですか?」
「天ハンなんて玉子だけやろ、身体に悪い。野菜を食べなあかん、野菜を」
「ならニラ玉でどうですか?」
「おぅ、ええやないか、ニラは身体にええんやぞ、ほなニラ玉ラーメンにしよか」
チーフはテーブルの下に置いてある、今度は週刊エロ漫画を開きだした。
祐介は料理の手際もいい。キャベツのみじん切りを止めて、ニラ二束を五センチ間隔でザクザク。次に中華包丁でニンニク半分をパッーンと叩き、それらをざるの中に入れてネギの刻みをひとつかみ。そして熱湯の中に麺をパラパラと入れ、レンジのコックをひねって図太いガス火がゴッー。フライパンにラードをたらし、玉子をお玉一杯掬ってササッと炒める。玉子は毎朝二〇個ほどをボウルに割入れて溶いてある。ふわりと炒めた玉子を皿の上に置いて、再びフライパンにラードを入れ、次は豆板醬、潰したニンニク、豚の挽肉、ニラ、もやしの順に強火で一気に炒めていく。
チャッー、カンッカンッカンッ。
すぐに塩、コショウ、うま味調味料素少々、醤油ひとたらし、鶏ガラスープを入れ、水溶き片栗粉でとろみをつけたら火を切り、ごま油をひとたらし。ここで、茹であがったであろう麺を平ざるでチャッチャッと取りあげ、フワフワ玉子、ニラのスープを加えて出来上がりだ。
祐介はこの時、すでに店の大半の料理を作ることができるようになっていた。実は『北京飯店』でバイトをするのは二度目のことである。最初は高校一年生の時で、当時から大きな中華包丁をリズミカルに使いこなし、餃子も難なく包むことができ、大きく重たい北京鍋を軽々と振ることもできたのであった。チーフからはその格別なセンスを認められ、常連客からは『北京飯店』の跡継ぎ最有力候補と言われるほどだった。しかし、当の本人はまったくその気なし。彼はそれが秀でた能力だという認識はなく、大人たちが褒めてくれているだけで、こんなことは誰でもできて当たり前のことだと思っていたのである。
チーフはレンゲで熱々のスープをすくい、息をふきかけながら何口か飲み、ニラとモヤシ、玉子、麺の順に食べ進み、一言。
「ふむ、またスープに片栗のダマが残っとるで。もっと思い切ってかき混ぜんと。麺の茹であげはええ感じや。あと火加減はええけど調味料を入れるのが遅いなぁ。野菜は最後まで全力ダッシュや。せやないと食感と味が一つにならん」
料理のことになるとカタを決める空手家のように眉毛と目がきゅっと真ん中に寄って、顔も言葉も先までとは別人になるチーフ。別に祐介は弟子入りしたつもりはないし、まさか本当に跡継ぎになる気もさらさらない。だが、チーフが唯一真面目になるその瞬間が嫌いではなく、ごく自然に「うんうん」と耳を傾けるのであった。
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