三宝寺池の少女
ハヤブサ
1話目
ある夏の日の朝。
とある劇団の劇団員である
ほのかはバッグから水色の表紙の小説を取り出すと、背筋を伸ばし小説を台本に見立てて演技の練習を始める。
「ダメもう一回」
自分の演技に満足できないからか何度も同じページを何度も読み続ける。
「ダメもう一回……」
「お姉さん」
何処からか少女らしき声がほのかを呼ぶ。しかしほのかは気づいていながらも聞こえないふりをする。
「そこのお姉さん」
声はもう一度声をかける。ほのかも同じように無視をするが、眉間にシワを寄せて苛立ちを見せていた。
「お姉さん!」
「うるさいわね!邪魔しないでよ!」
とうとうほのかの怒りが限界を迎え声のする方に怒鳴りつける。そこには雫のネックレスをつけた白いワンピース姿の少女がいた。怒りを露わにするほのかとは裏腹に少女は反応を示してくれたことに喜んでいる。
「やっと気づいた!」
「何なのあなた?」
警戒心をむき出しにして少女に訊く。
「私?私は……何だろ?」
「あなたふざけてるの?」
怒りを通り越して呆れ果てたほまれは、読んでいた本をバッグにしまう。
「それよりさ、どうして同じページばかり読んでたの?」
「あなたには関係ないでしょ」
テーブルに置いてあるバッグを持ち東屋を出ようとする。
「もう行っちゃうの?」
「あなたが居たんじゃ練習にならないもの」
「そっか、じゃあね」
東屋から出て雨の降る石神井公園を歩くほのかを少女は少ししょんぼりとした表情で見送った。
家に帰ると朝食を食べると劇団の稽古に行く。
「おはようございます」
ほのかが稽古場に入ると挨拶をするが、ほとんどの人が挨拶を返す素振りすら見せず、それどころかヒソヒソ話を始める人もいた。
ほのかは劇団の中では疎まれる存在だった。
彼女自身、向上心が高く真面目な性格で入団当初は他の劇団員ともそれなりに交流を深めていたが、同期の劇団員が舞台の主演を演じるようになる度に焦燥感に駆られるようになり、我が身を顧みずに練習をしたり些細なことで同期や後輩にあたったりするようになった。
稽古が終わった後の更衣室で後輩の劇団員二人ががほのかについて話していた。
「ほのか先輩今日も怒ってたね……」
「うん、あの人がいると練習しづらいよ」
二人が話していると更衣室の扉が開き廊下からほのかが入ってきた。
ほのかが更衣室に入ると会話が止まり張り詰めた空気が漂う。恐る恐る後輩の劇団員が挨拶しても返事すらせずほのかは淡々と着替えて更衣室を出る。
「やっぱり怖いよねあの先輩……」
後輩の劇団員の一人が小さく呟いた。
翌日の朝、ほのかはいつものようにバッグを持ち、今日は朝から大雨が降っていた為、レインコートを着て石神井公園にジョギングと演技の練習に行く。
昨日東屋にいた少女がいたらまた練習の邪魔をされるのではないかという不安と怒りに任せて言いすぎてしまったという申し訳なさに苛まれながらジョギングをしていると、三宝寺池にたどり着いた。
「あれは?」
東屋に入りレインコートを脱いだ時、ふと三宝寺池の方を見る。そこには優雅に踊っている少女の姿があった。ワンピースのスカートをなびかせて楽しげに微笑みながらステップを踏む。その姿にほのかは目を奪われた。
「おーい!いっしょに踊らない?」
東屋にいるほのかを見つけた少女は大きな声で呼ぶ。それと同時にほのかは目を逸らし見なかったことにしてバッグから小説を取り出そうとする。
「捕まえた!」
「キャッ!」
少女が東屋の柵越しから抱きついてきた。雨で全身濡れになった体が襲い、ほのかは思わず悲鳴をあげる。
「あっ、それ昨日の本だよね?」
「濡れた手で触らないで!」
少女がほのかの本に手を伸ばそうとすると、ほのかは少女の手を振り払い剣幕な表情で少女に怒鳴りつける。突然のことに少女は驚いた様子を見せたが、また朗らかな笑顔を見せる。
「じゃあさ、読み聞かせしてよ。私その本の続きが気になってたんだ」
「どうして私が?」
少女の要望を一度は却下したものの駄々をこねられてしまい、仕方なく読んであげることにした。
滔々と読むほのかの言葉を少女は静かに聞き入る。
「これで話は終わりよ」
「面白いねその本!それにお姉さんの声綺麗だから聴きやすかったし!」
少女に褒められて普通なら喜ぶところであるが、ほのかは浮かない顔をしていた。
「ありがとう。でもこれじゃダメなの」
「どうして?」
不思議に思った少女はほのかに訊く。
「私ね、これでも舞台女優なの」
「へぇ、すごいね」
「あなたが思うほど私は立派な人間じゃないわ」
ほのかはそう呟くとゆっくりと立ち上がる。
「私には役者としての才能なんてない。だからこそ、才能のある人達に一刻も早く追いつけるように一生懸命努力した。けれど、才能のある人達……、それだけじゃない同期や後輩の子達までも私を置いていってしまった」
少女も同じように立ち上がると、ほのかを抱き寄せて優しく頭を撫でる。
「よしよし、お姉さんすごく頑張ってるんだね」
「ちょっと、からかわないでよ……」
最初は恥ずかしそうにしていたが、冷え切っているはずの少女の体は暖かくて心地がよく、張り詰めていた糸が切れるようにほのかは泣き出してしまう。その間も少女はほのかを抱きしめ続けていた。
ほのかが落ち着く頃には雨が上がり日が出ていた。「もう行かないと」と言って帰る準備をしていると、少女がほのかを止める。
「明日もまた読み聞かせしてよ!お姉さんといると楽しいから」
「わかった約束する」
「うん、約束だよ」
確かめ合うように言葉をかわすと、ほのかは荷物を片付けて東屋を出た。
それから毎日のように朝のジョギングに本を持っていくようになり、少女に読み聞かせをするようになった。
ある時は少女が武蔵野うどんを食べたいと言い出し、ほのか仕方なくがタッパーに麺と具材を入れ、出汁を水筒に入れて持って行き、東屋で二人で食べることもあった。
ニュース番組では連日、記録的猛暑と取り沙汰される程暑い日が続いたある日、少女が東屋でぐったりとしていた。
「大丈夫!?しっかりして!」
「みっ、水……」
バッグから水筒を取り出して少女に飲ませる。
「はぁー!生き返る!」
水筒を飲んで笑顔を見せる少女を見てほのかはホッと肩をおろす。
「まさか、あなたがここまで暑さに弱いだなんてね」
「昔は平気だったんだけどね」
「昔は?」
「うん、夏の暑さも冬の寒さもへっちゃらだったんだ。でもね気づいたらこうなってた。だからね、少し寂しいんだ。目を覚ます度に人や建物、自分すらも変わってて、まるで置いていかれる感じがしちゃってさ……」
哀愁のある少し暗い表情をする少女の話をほのかは胸を痛めていた。
「でもね、もう寂しくないの」
「どうして?」
「だって毎日こうしてお姉さんが会いに来てくれるんだもの!」
少女の言葉を聞いてほのかは頬を赤らめる。
「か、勘違いしないで、私はただ演技の練習をする為に来てるだけなんだから、ほら、はやく今日の読み聞かせするわよ」
「はーい!」
照れを隠すように素早くバッグから本を取り出して本を開く。少女は嬉しそうにほのかに擦り寄り本を覗き込むように見ながら夢中になって聞いていた。
少女との日々はほのかにとって幸せな一時であり毎日の楽しみになっていた。しかし、それは刻一刻と終わりが近づいていた。猛暑日が長引くにつれて少女は弱々しくなっていき、ついには東屋の前で倒れてしまった。
ほのかは急いで少女を抱き上げて東屋の椅子に寝かせて水を飲ませる。
「はー……」
気になっていた疑問を少女にぶつける。
「あなたここ最近、どうかしたの?元気が無いけど」
いつも笑顔を絶やさなかった少女の表情に陰りが見えた。
「あのね……、私もうお姉さんに会えなくなるんだ」
「そう……なんだ」
少女の言葉はほのかには受け入れ難いものであったが、別れの日が近いということはほのかも薄々と気がついていた。
「だからさ、最後の読み聞かせはお姉さんが最初に読んでくれた本がいいな」
「……ええ、わかったわ」
ほのかはバッグから水色の表紙の小説を取り出して朗読を始める。それを少女はほのかの肩を枕代わりにしながら心地よさそうに聞いていた。
ページが進むに連れて方に乗っている重みが徐々に軽くなっているのを感じながら、小説を読み続ける。
「これで……話は終わりよ」
「うん、とっても楽しかった」
小説を読み終える頃には隣にいたはずの少女の姿がなかった。本を閉じて立ち上がろうとした時、ふと少女がいたであろう場所を見ると少女の付けていたネックレスが置いてあった。
「それあげる!」
顔を上げて声のする方を向くと三宝寺池に立つ少女の姿があった。
「お姉さん!元気でね!!」
「あなたこそ元気でね!」
大きく手を振る少女にほのかも大きく手を振り返す。朝日に照らされると同時に少女の姿が消えた。ほのかは大粒の涙を溢しながらうずくまった。
少女との別れがあった数日が経ち、嘗てのほのかとは見違えるほど柔和になり、他の劇団員からも気安く話しかけられるようになった。
ある日、稽古が終わった後、更衣室でほのかが着替えていると一人の劇団員に声をかけられた。
「そのネックレスオシャレですねどこでかったんですか?」
「これはある人からもらった御守りみたいなものなの」
ほのかはネックレスについて訊かれると、思い出に浸るように染み染みと話す。
「これがあると楽しかった日々を思い出せて、どんなに辛くてもまた頑張ろうと思えるの」
「今度聞かせてください。ほのか先輩の思い出話」
「私も聴きたいです」
ほのかと劇団員の話を聞いていた他の劇団員達が続々とほのかに思い出話を聞かせて欲しいとお願いする。
「ええ、いつでも大歓迎よ」
ほのかはそう言ってあの少女と同じくらいの笑顔で微笑んだ。
三宝寺池の少女 ハヤブサ @mikazuki8823
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