夏色のカブトムシ
朝月
夏色のカブトムシ
カブトムシって、どんな生き物なんだろう?
放課後の教室で、僕は百年以上前にこの世界から絶滅してしまった昆虫の事を考える。
当然、僕は本物のカブトムシを見た事が無い。僕の父さんも無い。僕のおじいちゃんも同じく見た事が無いし、ひいおじいちゃんぐらいになると、もしかしたら見た事があるのかも知れないけれど、ひいおじいちゃんはすでに亡くなっているから話は聞けない。どんな臭いがして、どんな動きをして、どんな鳴き声をして、何をどう食べるのか、謎は深まるばかりだ。
何度も繰り返し見てボロボロになって色あせた「夏色図鑑」に載っているカブトムシの写真を見る。この図鑑は小さい頃に父さんからもらった。父さんもまた誰からかもらったらしい。「夏色図鑑」はすでに廃盤になっていて、新品は手に入らない。だから、大切にしなくちゃいけない。
僕は慎重に図鑑を持ち上げ、カブトムシの写真を近くで見る。カブトムシの体色は基本的には黒色だけど、茶色っぽいやつや赤っぽいやつもいるらしい。身体は頑丈な外骨格で形成されていて、艶がある。特徴的なのは雄のカブトムシが持っている二本の角だろう。特に頭の先についた大きな角。頭部の倍程の長さのあるその角を使って、雄のカブトムシは餌場や雌のカブトムシを奪い合い、戦っていたのだ。
百年以上前の子供達、特に男の子はカブトムシに夢中だったらしい。その気持ちはとてもよく分かる。以前、大図書館の資料室で、二匹のカブトムシが戦う映像を見た。たかが昆虫の戦いなのに、己の鍛えた身体だけでプライドをかけ勇敢に戦う男同士の熱い戦いに、僕は手に汗を握った。その様子に触発されて、家に帰るとすぐに筋トレを始めた程だ。やはり、男たるもの強くなくてはいけない。その筋トレはしんどくて、三日でやらなくなってしまったけれど。
カブトムシは、そうやって子供心をくすぐるような戦いをするだけでは無く、丈夫で、噛みついたりもしないから、子供で扱いやすく繁殖もしやすかったらしい。その事からペットとしても人気で、時期によってはペットショップどころか、少し大きめのスーパーマーケットにも売られていたようだ。そういう手に入りやすさや育てやすさは、カブトムシの人気に拍車をかけた。昔は「男の子なら誰でも一度はカブトムシを飼った事がある」と言っても過言では無かったらしい。とても良い時代だと思う。
それほどまでに人々に親しまれていたカブトムシがなぜ絶滅をしてしまったのか?理由は、カブトムシが夏の生き物だからだ。カブトムシの成虫は、夏の約一ヶ月間だけその姿を見せてくれる。でも、僕の生きる今の時代に、夏は無い。百年以上前に突然無くなってしまった。夏だけではない。春も秋も無くなってしまった。この時代にあるのは、冬だけだ。
百年以上前のある年、いつもと同じように冬が来た。十二月が来て、一月が来て、二月が来て、その三ヶ月間は寒くて雪の降る時期だという事を誰もが知っていたので、みんな特に何も思わなかった。
三月になっても寒さは変わらず、雪は降り続けた。この頃から「今年の冬は長いな」とか「よく雪が降る年だな」とか、みんなが思い始める。
三月は「弥生」とも言う。
「弥生」の語源は、草木が芽吹く「いやおい」から来ている。つまり、三月は地面から新しい緑の芽が出て来て、春の始まりを感じさせる月だ。それなのに、その年は一向に地面から芽が出て来る気配は無く、それどころかさらに雪は積もり、その冷たい白色に覆われて茶色い地面は見えなくなってしまっていた。
四月になっても、その状況は変わらない。その頃には、誰もが今年の冬はおかしいと思っていた。
五月になっても、六月になっても、雪は降り続ける。七月になっても、カブトムシが姿を見せてくれるはずの八月になっても。
それ以来、今日までずっと冬が続いている。
僕は、教室の窓の外を見た。
空は灰色の分厚い雲に覆われていて、昼間だというのに薄暗い。そして、大きな牡丹雪が途切れる事無く降り続いている。僕が見慣れた光景。外が晴れている方が少なくて、朝起きた時に太陽の光が見られると「すごくラッキーな日だ!」と思う。そのまま冬が終わってくれたらと思う時もあるけれど、その期待はいつも裏切られている。
視線を天井に移して、少し考える。
別に、冬が嫌いなわけではない。雪が降る様子はいつだって神秘的で好きだし、初めて顕微鏡で雪の結晶を見た時には、とても感動した。友達と大きな雪だるまを作ったり、雪合戦をするのも楽しいし、足跡一つ無い雪原に最初の一歩を踏み出す時にはワクワクする。僕は冬が好きなのだ。
だけど。
僕は「夏色図鑑」に載っているカブトムシの写真をもう一度見る。「カブトムシは格好良い」素直にそう思う。
「夏色図鑑」には他にも、今は無くなってしまった「夏」の写真がたくさん載っている。海水浴、花火大会、かき氷、スイカ、ひまわり畑、扇風機、風鈴、うちわ、屋外のプール、半袖のシャツ、麦わら帽子などなど。野球というスポーツもあり、夏には全国の高校生が集まってやる大会がみんなを熱くしたらしい。サッカーだって、この時代みたいに狭い室内でやるのではなく、広い緑の「芝」というものの上で行われていたらしい。よく手入れされた「芝」は、ふかふかで、その上に寝転がるととても気持ちが良いと「夏色図鑑」には書いてある。どんな感じなんだろう?布団みたいな感じなのかな?すごく気になる。
「夏色図鑑」には他にもあふれんばかりに夏が載っていて、その輝きに満ちた季節に目がくらみそうになる。そしてちょっとだけ、その当時の子供達をうらやましく思う。僕も海水パンツをはいて海で泳ぎ「水がしょっぱい!」と言いたいし、縁側で扇風機の風に当たり、風鈴の涼しい音色を聞きながらスイカを食べ、青空に浮かぶ「入道雲」とやらを眺めたい。夜には浴衣を着て、「夏祭り」に行き、かき氷を食べたり、金魚救いをしたりしたい。夏の夜空に放たれる打ち上げ花火を見たい。
そしてなによりも、カブトムシを飼って、観察日記をつけてみたい。
でも、それらは今の時代には絶対に出来ない事だ。いくら僕が強く願った所で「裸同然の格好で外に出て海で泳ぐ事」なんて出来ない。世の中には自分の力でどうしようも無い事があるのだ。
まあ、別に悲しくは無い。だって、そういうものだから。夏が来ないなんて仕方の無い事だし、冬だけしか知らない僕はもうこの「冬だけの生活」に慣れている。夏が無くたって、何も困っていない。
「おい、何をやっているんだ?」
僕に話しかける声がする。「夏色図鑑」から顔を上げ、後ろを振り向くと、そこには仲の良い友達のアヤラギがいた。白い防寒着を着込んで膨れ、雪だるまみたいな格好になっている。
「えっと……」
「夏色図鑑」を見ている所を他の人に見られるのは嫌だった。他の人は僕ほど「夏」に興味が無く、夏に憧れている僕を見て笑うのだ。なんとか誤魔化したい。そう思ったけれど……。
「お前、またそんなのを見ているのか」
僕が説明をしようとするよりも先に、アヤラギは「夏色図鑑」を指差して、馬鹿にしたように言った。僕はとっさに「夏色図鑑」を背中に隠す。顔が熱くなるのが分かった。今の時代には無い過去のものに思いをはせるのは恥ずかしい事なのだ。
「いや、その……」
「いい加減、そんなものを見るのは止めろよな。軽く暇つぶしに見るぐらいなら良いと思うけど、それを本気にしちゃってさ。時間の無駄だよ」
「そうだよね……」
馬鹿にして欲しくない気持ちはあるけれど、でも、アヤラギの言う事は正しくて、僕は何も言い返せない。
「だからカヤノはダメなんだよ。そんな図鑑を眺めていないでさ。今から外に雪合戦をしに行こうよ。天気予報によると、今日はそこまで気温が下がらないらしいし、雪の質がとても良いらしいんだ。こんな教室に引きこもっていないでさ。ほら、行くぞ!」
「ええ、嫌だなぁ」
「文句を言うなよ」
気温がそこまで下がらないという予報があったとはいえ、寒い事には変わりは無い。さっきまで「夏」の事を考えていたからか、今日は余計に外に出たくなかった。でも、まあ、このアヤラギの勢いに逆らうのもしんどいし、仕方が無いか……。
「分かったよ」
「よし!じゃあ、防寒着を着てすぐに来いよ。俺は先に行ってるから」
そう言うと、アヤラギは教室の扉を勢いよく開け、外に出て行った。僕はしばらくその開け放たれた扉を眺めていた。
「まあ、良いか」
もう決して手に入らないものに対して思いをはせても何にもならない。それに友達を巻き込む理由も無い。僕は夏について真剣に考え過ぎていたのかも知れない。
窓の外を見る。大きな牡丹雪が次々と落ちて来て、雪のカーテンみたいになっていて遠くの方が見えない。
「外、寒そうだな」
僕の右手には暑い「夏」が握られていて、そのせいか、やっぱり今日は外に行きたいとは思えない。
でも、アヤラギの言うように、叶わない夢を追いかけ続けるのは時間の無駄なのかもしれない。それなら、今の僕が手に入れられるものを全力で楽しんだ方が良い。
「よし、行こう!」
ほっぺたを叩いて気持ちを奮い立たせる。迷ったらダメだ。アヤラギはもう行ってしまった。行かないと後で文句を言われる。
冷たい外気に包まれて、身体が強張る少し先の未来を想像しながら、僕は防寒着を着て教室の外へと飛び出した。
夏色のカブトムシ 朝月 @asazukisan
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